そしてやがて、悪になる

はじめに

こんにちは。翻訳家の平野暁人と申します。

はじめましての方もそうでない方も、ネットの大海を泳ぎ抜けてここまで辿り着いてくださり本当にどうもありがとうございます。

先日来「快不快」についてあれこれ考える記事を2本ほど投稿してみたところ、本当にびっくりするほどの反応をいただきました。普段は高くて長くて売れない良書やおもしろいけど観る人の限られる戯曲ばかり訳しているので、何千人もの方が読んでくださって、なんだかふわふわしています。ふわふわ。ふわ。

私は学者でもなんでもないのであまり物を知りませんし、世の中はわからないことで溢れていますが、「知らないことは語らない、わからないことは考える」というスタンスで、今日もあれこれ思いをめぐらせてみたいと思います。

さて、前回の記事では「どうしてこれほど快不快至上主義的な世の中(=あらゆる事柄の是非を快不快で判断する世の中)になったのか」という問いを掲げておきながら、ぜんぜん答えに辿り着けませんでした……。

正直いってそろそろ手に負えないのでこのまま逃走しようかとも思ったのですが、幸か不幸か「やーめた⭐︎」で許されるほどかわいくないので続けてみます。そうです、かわいいが正義になるとおっさんは悪になるのです。なんということだ。がんばって生きよう。

善悪は弱くなるのか

というわけで、快不快が善悪に代わるほど強くなったのはなぜなのか。

こういう大きな問いを立てるには、いったん裏返してみるとよかったりします。つまり、「善悪が弱くなったのはなぜか」と考えてみるわけです。いや、厳密にいうと一方が強くなったからといってもう一方が弱くなっているとは限らないのですが、まあひとつの可能性として検討してみるということですね。

でも、そもそも善悪って、強くなったり弱くなったりするのでしょうか。だって、善悪というのは(すごく簡単に無理やりまとめれば)道徳的に考えて良いことと悪いこと、社会における規範のことです。規範というのは安定しているからこそ機能するのであって、くるくる変わったりむやみにグラグラしたりしたらあぶなっかしくて社会が成り立たない気がします。

結論からいってしまうと、善悪は強くなったり弱くなったりしません。

ただし、変化はします

しかも、くるくる、というほどではないかもしれませんが、けっこう変わるみたいです。なんのこっちゃ。

それは、ちょっと前のところで書いた通り、善悪の線引きの根拠になっているのが「道徳」だからです。そしてこの「道徳」というもの自体が絶対的なものではなく、実は特定の地域や集団の中で共有されている一種のルールに過ぎないのであり、時代時代によっても刻々と変化するという性質をもっているからなのです。

道徳の可変性と男女平等

道徳が時代によって変化するなんて冗談じゃないぞ、と思う人もいるかもしれません。なにしろ道徳といえば日本では学校でも教えているくらいです。道徳が変わるなら当然、道徳の授業で教える内容も変わることになります。

そこでひとつ、時代とともに道徳が大きく変化した例として、身近でわかりやすい例を考えてみましょう。

現在、道徳の授業で教えられていることのひとつに「男女平等」という項目があります。いうまでもなく、人間は生まれながらに平等であり、社会の対等な構成員であり、男性であれ女性であれその性別を根拠になんらかの不利益を被ることなく、自由な選択を積み重ねて生きてゆく権利がある、ということについて教えるわけです。たぶん。

またしても当たり前のことを書いてしまいました。こんなこと、大抵の人は普通だと思うはずです。就職の機会ひとつとっても、日本にはちゃんと男女雇用機会均等法があるのですから。

でも、ちょっと待ってください。男女雇用機会均等法があるということは、それを法律で規定する必要があったということです。法律で規定する必要があったということは、それまでの社会が(つまり社会を構成する市民が)少なくとも雇用の分野では男女を不平等に扱っていて、しかもそれが(少なくとも法的には)問題のないこととして認められていたということです。

ちなみに男女雇用機会均等法が制定されたのは今から34年前の1985年。ということは、少なくとも雇用の分野における男女の平等観は、この法律を境にひとつ大きな変化を迎えたことになります。そしてそのとき、「道徳」の教科書のどこかが、確かに書き換えられたはずなのです。

もっとパンチの利いた例としては、「選挙権」が挙げられます。いうまでもなく、一定の年齢に達した者が選挙で誰かに投票したり、自分が立候補したりする権利です。現在では18歳に達したすべての日本国籍保持者に認められているこの権利が女性に初めて認められたのは終戦後の1946年。

ということは、さかのぼることわずか約70年前には、女性が選挙に参加する権利をもたないことはふつうのことであり、社会の決まりであり、「道徳」の、すなわち社会規範の一部を成していたわけです。

そう思えば「道徳」が決して不変のものでなく、それどころか地域の特性や時代状況の影響を受けながら、しかも多くの人々の尽力によって人為的に見直されたきたことが実感できるのではないでしょうか(いちいち話がくどくてすみません)。

道徳の可変性と殺人の最前線

ここまでくどくど話しても、「いやいや、そうは言っても絶対的で不変的な道徳は存在するはずだ。殺人とか!」という人もいるかもしれません。

確かに、殺人というと文句なしに「悪いこと」という気がします。太古の昔から多くの社会集団で罪とみなされ、罰せられてきた行為なのではないでしょうか(そんなに昔から生きていないのでよく知りませんけども)。

しかし、です。道徳の可変性は「殺人」すら例外ではありません。そして日本という国は、そのことを語るのにとても適した国です。だってこの国には、「死刑」がありますから。

「死刑は重篤な犯罪者に対してのみ適用される処罰なのだから、殺人とは区別されるべきだ」という人もいるでしょう。いちおう断っておきますが、本稿では「善悪/道徳は可変的なものである」という話をしているだけなので(私は反対ですが)死刑制度それ自体に対する賛否は問いません。

ただ、相手が犯罪者であれ、処罰として公的に制度化されたものであれ、日本が国家として「人の命を奪う行為」の価値を部分的に肯定していることは明らかな事実です。つまり、日本では、すべての殺人が道徳に反する行為だと考えられているわけではなく、死刑に関していえばむしろ社会規範を維持するための手段として、いわば「道徳」の一部として活用されているわけです。

そしてやがて、悪になる

ところが、これは決して世界中で共有されている考え方ではありません。それどころか、圧倒的多数ともいえる国が既に死刑を廃止、もしくは廃止へ向けた取り組みを活発化させています(だいじな話なのできちんとした情報を載せておきますね)。

2016年12月現在、法律上の死刑廃止国(111か国)と10年以上死刑執行をしていない事実上の死刑廃止国(30か国) を合わせると、世界の141か国では死刑がなく、死刑存置国は57か国にすぎません。 我が国を含む先進国グループであるOECD(経済協力開発機構)加盟国(34か国)のうち、死刑を存置しているのは、 日本・韓国・米国の3か国だけです。ところが、韓国は20年以上死刑執行をしていない事実上の死刑廃止国とされ、 米国は2017年10月時点で19州が死刑を廃止し4州が死刑執行モラトリアム(事実上の死刑廃止)を宣言していま す。また、死刑を執行する州は減少傾向にあります(2016年に死刑をした州は5州だけです)。(以上、日弁連のサイトより引用)

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/shikeiseido_yesno.pdf

もういちど言いますが、本稿では死刑の賛否は問いません。ここで注目したいのは、現在、死刑がない国もすべて「死刑廃止国」であり、元々は死刑を行なっていたという事実です。つまりこれらの国では、個人の殺人はもちろんのこと、たとえ殺人を行う主体が国家であったとしても、「人を殺すという行為そのもの」はすべて否定されるべきである、という風に、長い時間を費やして道徳を「変えた」ということです。道徳の変遷史上を振り返っても、これはまさに革命的な変化だったのではないでしょうか。

……たぶん(弱気)。

とはいえ、実はここにはひとつ、大きな見落としがあります。

だってオレたち、戦争してるじゃん

そうです、さっきまでは人類が殺人を克服しつつあるような書き方をしてきましたが、じつは世界をみればあちこちで今日も様々な戦闘が行われ、大人と子ども、戦闘員と非戦闘員を問わず多くの人が命を奪い、奪われているのです。もちろん死刑廃止国の多くにも軍隊があり、好むと好まざるとに関わらず殺人を働いています。ということは、あらゆる殺人を道徳的に否定したはずの多くの国に、特定の状況下においては殺人を肯定する論理が残存していることを意味します。

こうして殺人と死刑と死刑廃止に戦争を併せて考えてみると、道徳とは絶えず変わり続けるだけでなく、常に多くの矛盾を抱えているのだということもわかってきます。道徳の歴史とは、そうした矛盾と闘いながら、善と悪の線を引き直し続ける営みそのものなのかもしれません

ああ、どうしよう。また四千字に迫る勢いです。今日こそは短くしようと思っていたのに。しかもここまで全然たいしたこと言ってないぞ。ううう。

終わりに:まだ続きます(たぶん)

というわけで今回は、「どうしてこれほど快不快至上主義的な世の中になったのか」という問いから出発して、「逆に善悪が弱くなったのはなぜか」へと進み、「そもそも善悪って弱くなったりするのか」という問いを経て「善悪に強弱はないが、善悪の根拠である道徳は絶えず変化するものであり、しかも人為的に見直され続けているのだ」という事実を確認するに至ったのでした。

えっ!

5行でまとまった……。

やっぱり無駄に話が長過ぎるのか(ショック)。

ともあれ、善悪/道徳が本来的にもつ「変わり続ける」というこの性質こそ、世の中において快不快至上主義的な価値観が優勢になってきたことと関係があるのではないか、という点を指摘して、次回へ続く、ということにさせていただこうかと思います。

今回も最後までお読みくださってありがとうございました。懲りずにまた読んでもいいよ(長いけど)、と思ってくださった方は、さりげなく「スキ」をポチっとお願いいたします。

(それにしても、いつか終わるのかな、これ……)


訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)