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世界は青く透き通っている その全てが狂おしいほど美しい

 キモい日記 開始

 今「賛美」できないなら絶対に外を歩き、周囲を見渡さないで下さい。世界が美しすぎて、ほぼ100%その場で泣いてしまいます。

 本当に美しい瞬間が人生の合間に訪れる。それは劇的な瞬間であるが、日常的でもある。それはドラッグストアを出て、畑と畑の間の道を歩いていると、空に低くライトグレーの雲が覆っており、青い光を透過している、といったことである。また15°ほどの太陽光によるライティングにより、全ての事物がくっきりと照らし出され、透明な空気を通ってシャープな輪郭を作り出している、といったことである。

 たった一つ、光が斜めから当たっているというだけで全ての事物の存在価値が強調される。写真を撮ってはいけない。撮影は忘却の儀式である。ポルノのブックマークもまた忘却の儀式であるのと同じように。世界もポルノも心に刻め。外部化はオレを弱くする。

 撮影もブックマークもいいねも、内面化を外部委託してしまう。そのポルノはオレだけのものだ。変なハートマークをポチッとする。その儀式的な行為だけでそのツイートを自らの内部に取り込んだつもりになっていないか?写真を撮って、ポルノをダウンロードして、見返すこともなく、それで安心していないか?それは「見返す」ことを目的としているのではなく、光景もポルノも、自らの内部領域(そのメタファーである記憶装置やクラウド)に取り込もうとしているからである。

 コレクション。現代はコレクションの時代。金を出して絵の女を引いてコレクションするゲームが流行っている。物語は読み手を現実に返すことはない。なぜなら絵の女を売るという本来の目的のためには、永遠に物語が存在しなければならない。絵の女を売る奴隷商。絵の女のポルノを売る謎の者。オレは名も知らぬ絵の女のポルノでシコシコする。三者三様である。

 世界が美しい。しかしその瞬間に心が囚われてはいけない。さもなければ、変な眼鏡をかけ、映画を撮ってしまう。眼鏡といえば、変な黒縁の丸眼鏡をかけた文学部も、変な四角い眼鏡をかけた理工学部も、自らと同じ一家言の者と相対すると、嫉妬し、自らの眼鏡を割るのである。眼鏡をかけている者はこれを乗り越えなければならない。しかし、オレはコンタクトレンズである。オレは関係ない。

 変な日記にもサムネは必要だ。青空 フリー素材で検索する。その全てが嘘の空であった。撮影された空は嘘なのである。

 一方で、ダークナイトを見ると、画面の中では変な人物が変な事件を起こしている。それは徹底的にカメラに映っている。そこにあるなんの変哲もない、ただ起こっているだけの現象である。それはゴッサムという物質の持つ愚直なまでのリアルさで、彫刻を鑑賞しているような気分にさせてくれる。ファンタジーであるのに、それがそこにあるという説得力。ダークナイトはオレのリアリズムフェチを開拓した。MCUはそういうところが駄目だ。

 本当に新しいものの話をしよう。本当に新しいものを作りたいならば、成功という打算的希望も、何者かになるという承認欲求や自己実現欲求も、捨て去らねばならない。ただ、本当に新しいものという崇高のために、自らの魂を焚べ、贄としなければならないのである。

 オレはまだ本当に新しい文章を書いていないし、これから書ける可能性もないであろう。ただ、これだけは言える。知性百パーセントみたいな文章を書くやつも感性百パーセントみたいな文章を書くやつもオレは嫌いだ。双方はあたまの中で睨み合っている。知性は感性をぶっ殺さなければいけないし、感性は知性をぶっ殺さなければいけない。それらが手を取り合う日は恐らくこない。果てしない殺し合いのバトルアリーナの末に出来上がった血と肉と排泄物の塊が、本当に新しく、本当に美しい文章なのである。

 こんなことを考えたのはお忍びでツイッターを見ていたときに変な論争を見かけ、一家言という感じになってきたからだ。(しかし、多くの人々がその論争を見て何かを言わなければならないという衝動に駆られ、一家言が出尽くしているので、オレはもはや何も言うことはない)ただひとつ言えるのは、オレは3割くらいは素晴らしい人々をぶっ殺してやると思いつつも、3割くらいは素晴らしい人々を心から尊敬し、影響されている。そのどちらが欠けても本当に新しいものを作ることはできないだろう。残りの4割は全力でポルノを見て、シコシコすればよい。 

やっぱりオレたちは宇宙人の脳ではなく人間の脳を使っているのだから人間の脳のセオリーにしたがって物事を生み出すべきだ。人間の脳や文化には生み出せないようなモノは宇宙人と会ったときの楽しみに取っておいて、人間の脳に生み出せる範囲で本当に新しいものを考えたほうが良いな、普通に。人間の脳からの脱却は不可能(AIでさえ、人間のワナビだ)だから、もう脳からの脱出なんて考えるべきではない。

 という文章をラインに投下していた。変な論争は変な一家言を呼び起こす。

 西洋絵画に対するジャポニズムみたいな、「明らかに異なる世界で発達した物」を自分だけの力で構築してみたいと思ったことがあるが、地球人類であるオレには不可能だ。宇宙人との邂逅で1番楽しみなのはそういう文化的な変動で、これはルネサンスよりもデカい文化運動になると思う。

 それはそうと、アウトサイダーアートが本当に「根源的な衝動」によって生み出されているかはわからないが、人間の奥底に眠る根源的な芸術衝動によって作品を作ってみるというのが素晴らしいという考えもある。そのために知識や文脈が邪魔だ、という考えは理解できなくもない。すでに現代アートは複雑な文脈ゲームになってしまっていて、それに対する批判は割と言われている。オレは知識を持った上で半分尊敬し半分ぶっ殺してやると思っているくらいがちょうどよくオルタナティブをやれると思う。

 まあ、あとはアニメばっかり見てるやつが本当に新しいアニメを作れるのかという話もあると思う。Radioheadを毎日聞いたりホドロフスキーの信者だったりするような者が作るアニメのほうが面白いかもしれない。

 オレも問題とされていたような思考に陥ったことは確かにある。だが、どちらかといえばオレはみんなが何かになろうとしている変な大学a.k.a美大で作品を出すと、「お前は頭でっかちだ」と言われる側である。それは恐らく不安によるものだろう。自分の感性を理解されるか心配だから変な武装をして頭でっかちな説明に頼る。

 あとその文脈で、「そういう感じになってくると逆に自分の稚拙さが気になってくる」「批評を自分に向けないほうが良い」「自分の作品を切り刻むような真似をしないほうがよい」「負の快感に飲まれるから」といったツイートがあり、これアタシだ…となったのである。

 自己否定に快感があるのは正しいが、それはそれとしてオレは自己批評が大好きで、それはたぶん批評が好きだからなのかもしれない。他人の作品の批評は、自分が理解できてないだけかもしれないといったことや、知ったふうな顔で変な批判をしてくる者だと思われたくないといったブレーキがかかる。自分の作ったものであれば、いくらでも批評してよいし、理解できていないということもない。むしろ変な批評をしてくる者に対し、オレのほうがもっと上手い批評が出来るという対抗意識が芽生える。だから逆に傷つかない。また、先生と一緒に批評しているという変な構図になる。でもオレの作ったものはオレだけは好きでいてあげなきゃならないとも思うし、最後の最後には擁護しなければならない。育児?

 キモい日記終わり

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