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払え、払え、払え!追加で1600万ポンドが南アフリカに投入され、合計2億9200万ポンドとなる。そしてこの血まみれのビジネスが終わるまでに、さらに 3000 万ポンドが必要となるだろう。払え、払え、払え!
------レイノルズ・ニュースペーパー 1900年12月9日の記事


1.


 2015年がどのように終わったか、もう思い出せない。
 思い出は孤独な神経配列ネットワークで、絶対的な不可侵領域だ。全てが曖昧な思い出の中、識別子がつけられたかのように、一つの言葉を覚えている。

 ウェルビーイングが始まった。
 少しずつ、少しずつ、記憶の輪郭を広げていこう。あの日、あの瞬間。
 あの思い出。真っ赤なジャムパイふたつ。そう、あの時だ。
 俺はそれを見下ろし、血圧の変化を感じていた。激しい動悸と息切れの原因は急激なストレスによるもので、そいつをどうにかしない限り、死が確定している。何よりも必要なのはリラックスだ。

 ウェルビーイングが始まった。
 ウェルビーイング・ムーブメントはロンドンから始まって、ネットを介して瞬く間に世界に広がった。
 幸福だったあの頃の、すべてを燃やし尽くす勢いで、街は過熱した。地主が地価を上げるために欲しがっていた広場のにぎわいとやらは、結局、銃弾によって創出されたようだった。

 テレビ画面に映る政治家達は疲労困憊だった。キャメロンや、バラク・オバマや、メルケルが映った。プーチンや習近平も映った。国連にいる誰も彼も、げっそりした顔面をしていた。わが国の要人たちもやはりしわしわだった。しわしわで、コンドームのようだった。カムデンの路地裏でもみくちゃにされて、中身が溢れてしまっているような貧相なやつじゃない。上等なスーツに包まれた、女王陛下のコンドーム。もっとも、中に汚い汁が入っていることに変わりはない。

 敵は、すぐそこに迫っていた。敵はアルカイダではなかった。ロシアでもなかったし、何者でもなかった。誰も彼もが敵だった。
 アナウンサーの顔は少しこわばっていた。
「……続報です。本日未明、複数箇所で発生した暴動に対し、緊急避難命令が発令されました。繰り返します。緊急避難命令です。安全な場所に退避し……」
 ロンドンは曇り。気温は一七度。切り裂きジャックは、まだまだ増えて、誰も捕まっていやしない。こんなことになったのは、ある夜、空からお告げが降りそそいだからだ。遠くの宇宙で星が爆発したのだ。多量の宇宙線が地球に到達して、俺たちの身体を通過した。地球も、人間も、宇宙線にとってはただの通過点に過ぎなかった。ただ通り道にいただけだ。後にカミンスキ線と名付けられるその粒子は人類の身体の中にほんの一瞬だけ存在し、すぐに太陽系の外に飛び去っていった。すると、ハレルヤ、殺人狂の完成ってわけ。あの瞬間に、俺たちの運命は変えられてしまったようだった。人々は変わらず犬の散歩をし、朝のあいさつをして、仕事についた。その夜、ロンドンに赤いオーロラが現れた。曝露の後遺症が現れたのは数週間経ってからのことだった。患者たちの症状は、それはもう、大変なものだ。

 街は殺人者で溢れていた。殺人は幸福を生み出すから、路地は幸福中毒者のハロウィンだ。だってみんな言ってたじゃないか。人には幸福を追求する権利があるって。
 だから、血のウェルビーイングが始まった。
 殺人鬼のシンボルは赤いロングコートだ。これ見よがしにお気に入りの凶器を腰に下げている。

「ソーシャルメディア上に多数の犯行声明が確認されました。当局は、強く警告しております」
 今朝、フィードに動画が流れてきたっけ。
「俺は、天啓に従い、お前たちに報復を行う」ブレブレの映像でサムライになったおじさんが絶叫する、笑っちゃうような動画。
 テレビから、1ヤードも離れていないところに血だまりが出来ていた。そこで死んでいるのは俺の弟だった。俺はカメラに徹した。世界を俯瞰するカメラ。額に醜く、赤黒い穴を空かせたフレディを映し、扉の近くで息絶えた母さんを映し、マホガニーのテーブルに散らかったソテーを映す。カメラは最後に、ブーメランのように戻ってきて、俺を映したけれど、俺の顔には顔が無かった。俺はセーフモードだ。全神経を統制するプロセッサが、エモーショナルな刺激のすべてから完全に切り離され、肉体を動かしている。だから俺は、条件反射で生きる虫のようだ。

 血。それはまだ温かい。俺は床に溜まった血液をなぞった。弟の喉ぶえは乱暴に噛み破られていて、赤黒い肉の間に気管が見えた。二人が死んだのはたぶん俺のせいだ。だけど今はそれはいい。男が俺の名を呼んだ。廊下を徘徊し、俺を探している。俺はもう一度、さっき死んだ二人を見た。一瞬だけ、動き出すような気がしたが、当然死体は動かなかった。それから急いでクローゼットに隠れた。

 もう少し巻き戻そう。
 その日、家にいたのは三人だった。休日だった。いつものようにテレビがつけられ、いつものように会話の少ない食事だった。
「でも」とフレディが言った。フレディは一月前に死んだネズミのことをまだ引きずっていた。
「本当に生き返ったんだ。ディッキーは死んでなかった」
「もう忘れろよ。ネズミは死んだんだ」
「でも動いたんだ。ぴくぴくってさ」
「それは硬直解除ってやつだ。死後硬直の後の弛緩だよ。死体ってのは動くのさ」
 たかがネズミだ。弟が泣きそうな顔をするので、適当に慰める。
「最後にお前に挨拶したかったのかもな。だからさ、元気出せよ」
 食事が終わると、俺は部屋に戻った。ジャスティン・ビーバーがテレビに映ったからだ。ティーンエイジャーにとってスタイルは何よりも重要だった。だからあの頃の俺は自分のスタイルに合わないものは徹底的に遠ざけていた。オルタナティブ・ロックにハマっていた俺は、当然の帰結として、ジャスティン・ビーバーを憎んでいた。だけど、ニルヴァーナを大音量で聞いて五分間だけ反逆者の気分になっても、結局、誰かが企画して売り出したスタイルを内面化しているにすぎない。だから、ポップミュージックを憎んだところで、根本的には似たようなものだ。それに気がついたのは、サウスパーク70話「カートマンの鬼畜晩餐会」で、レディオヘッドの面々に罵倒されるテナーマンを見てからだった。クソ野郎は何を聴いてもクソ野郎だ。どんな悲劇に見舞われてもクソ野郎。クソ野郎という真実だけが、あらゆる装飾をはぎ取った唯一の自己の姿だった。

 好きな音楽。好きな服。好きな物語。誰かに製造され、企画され、販売された記号の数々。そうした記号の群れによって、スタイルが形作られる。俺達は知っている。スタイルによって、幸福は模造つくることが出来る。だけど、俺達が抱えているものはどこまで行ってもレプリカにすぎない。そんなものを、自分のものだと思いこんで生きている。ブリティッシュが自分達をブリティッシュだと思い込むための記号。パンクロッカーがパンクロッカーであるための記号。誰かが作ったパッケージの詰め合わせで個性は作られている。個性ほど売れる商品は無く、そんなマジックに意味はない。
 そう、だから、ウェルビーイング・ムーブメントの時、彼らは個性的な武器を持っていた。彼らの話になると、多くの人が口を噤んだ。だけど、俺は彼らの話をしようと思う。

 彼らの赤い格好は、まだ少し覚えている。あの赤は、自らを暴虐の極地に奮い立たせるために敷いたドレスコードだったのかもしれない。
 ランベスは平和だった。窓の外はいつも通りだった。十時を回った頃、暴動の情報が流れてきたが、特に気にしなかった。俺は自分の部屋でニルヴァーナを聞いていた。突然にチャイムが鳴った。単なる来客だ。しばらくして、騒がしくなった。
 窓越しに見えた男の姿は、赤いコートに、すっぽりと被ったフードだ。大きな図体だが、まるで赤ずきんだと思った。手にはかごではなく、ワルサーが握られていた。クソヤバい、と思った。
 母はフレディに、隠れていろと言った。俺は部屋から顔を出し、フレディにこっちに来い、と手招きする。子供の身体であれば窓から逃げられるはずだ。しかし、幼いフレディの足はすくんで、一歩も動けないようだった。しばらくして、扉が開いた。俺は壁にぴったりとくっついて、隠れた。
「失礼だが、あんたの息子に用がある」
 母さんの顔面は蒼白だ。
「息子が・・・・・・あなたに? 」
 男はニンマリと笑っている。
「そうだ。俺はあんたの息子に用がある。デカい方だ」
 ワルサーを見せびらかし、言った。
「はやく殺さなきゃいけないからな」
 母さんの身体は瞬時に反応したようだ。殺虫スプレーが男の顔に吹き付けられた。男は小さく叫び、顔を覆った。
「でていきなさい! 」
 母さんは男をひっつかみ、壁に叩きつけた。
 母とは強いものだ。子が生まれオキシトンが分泌された母熊は信じられないほど凶暴になるらしい。子を守る本能によって、より排他的に、より暴力的になることが出来る。母の一撃はそんな熊を思わせた。
 そしてその結末はご存知の通りだ。
 銃声が二発。たったそれだけで終わった。母の服に血液がついているのが見えた。母はしばらくは動いて男を追い出そうとしたが、やがて糸が切れるように倒れこんだ。
 続けてもう一発。今度はフレディを正確に撃ち抜いた。
 あっという間に二つのジャムパイが出来上がり、男は嘲笑した。
 とても静かな夜だった。
 楽しげな声だけがそこに存在するように思われた。
 アイザック。ずっと会うのが楽しみだったんだ。
 恍惚とした息遣いが耳元に迫ってくる。
 身体は防衛反応で震えていた。
 見つからないように、吐息と衣擦れを抑えた。
 クローゼットには人一人が隠れられるスペースがあった。小さい頃、よくフレディと隠れていた。二人で父さんを驚かせるのがあの頃の楽しみだった。
 コツンコツンと振動が近づいてきた。
 アイザック。お前のことを知っているぞ。
 金属音が床板にぶつかり、すぐそばを通りすぎていく。
 音は行きつ戻りつ、俺の気配を探していた。
 しばらく、沈黙が続いた。
 薄皮1枚隔てた先で、彼が囁いた。
 見つけた。いい子だ、アイザック。
 ママは死んじまったな。弟も。ほら、お前は家族とずっと一緒だ。
 俺を守っていた板材が、あっという間に取り外され、新鮮で無防備な空気の層だけが俺と男の間にあった。目が合う。互いの息が止まった。

 最初に手が動いたのは、驚くべきことに俺の方だった。構えていたポケットナイフを男の脇腹に突っ込み、肉を抉り出した。
 男が不意打ちに驚き、ギャッと叫んだ頃にはナイフを引き抜き、二撃目で首筋を狙う。ナイフは、首からずれ、男の肩肉に滑り込み、俺は武器を失った。
 男が暴れるとフードが外れ、知らない顔が現れた。彼は泣いていた。
「アイザック、アイザック、ごめんよ、アイザック」
 明らかに先ほどまでと様子が違った。
 構うものか、この男を殺す。絶対に殺す。
 男はゆっくりと、銃を持ち上げた。
「お前はしくじるな」
 男はそう言った。そして今度はワルサーを自分のこめかみにあて、撃ち抜いた。
 出来立てほやほやの三つ目の死体を前に、どうしていいかわからなくなった。
 俺がこいつを殺した、と直感的に思った。刺し傷からは大量の血液が漏れ出していた。殺せたんだ。そう思ったせいで、頭の中に漠然と広がる多幸感に気が付いてしまった。幸せ、満足、ドーパミン。それらは広がり、頭を侵した。俺は頭を掻きむしりながら、家を飛び出した。
 街路は血みどろだ。至る所で、殺人が起きていた。母が、幼い息子を絞め殺していた。恋人同士が互いの大腸をひっ掴み、踊っていた。
世界はなんて美しく、素晴らしいのだろう。
 幸せだ。幸せだ。
 アスファルトには持ち主不明の臓器が散乱していた。
 ここは病者の王国だ。病んだ隊列は朗らかに笑い、人を殺している。俺も笑い、次に誰を殺そうかと考える。
 俺は歩きながら、どこまでも続く罪人の列に加わわろうとしていた。
 看板まで歩いた。いつもの看板だ。愉快な死神がメロンソーダをもって笑っている。緑色の丸いフォントでこう書かれている。「アルカディアにも我はあり! 」
 唐突に、声をかけられた。
「まさしくその通りだとは思わんかね」

 目が覚めると、2015年は終わっていて、ベッドに横たわっている。柔らかなクラシックが聞こえるが、頭がうずいて、酷い騒音に思われた。薄緑のカーテンの向こうに白衣が見え、ここは病院だと気がついた。
 しばらくして、医者が入ってきた。
 手術は成功しました。と医者が言った。
 俺はわけが分からなかったが、看護婦に誓約書を見せられると、そこにサインがあった。それはまぎれもなく俺の字だった。私はPTSD治療の目的で、長期記憶の分離処置を希望します。署名:アイザック・コンラッド。俺は記憶を摘出した。何年分いったかは分からなかった。俺の背は明らかにあの頃より伸びていた。それからしばらくして、自分が残した記録を学習するリハビリ期間が続いた。実感は無いのに、知識として自分を知っている。そんな状態だった。



2.


 子供の頃、カートゥンチャンネルで見た話を今でも覚えている。幸福の王子。元ネタはオスカー・ワイルドって作家の短編だ。街には金ぴかの王子様の像が立っている。像は、街の人々の不幸を悲しんでいた。ある時、偶然飛んできた燕に頼んだんだ。「燕よ、燕、かわいい燕」って。  王子の像は、剣の柄についてるルビーや、サファイアで出来た目や、黄金の皮膚を不幸な人々に分け与えた。みんなを助けるために。その像は金ぴかじゃなくなった。だから、最後には捨てられた。
 俺は冗談じゃない、と思った。人に幸福を分け与える立場になってみれば、嫌でも、その人生が何の意味も無い糞だってわかるもんさ。

 幸福。その言葉がかつてどんな意味を持っていたのか、もう忘れてしまった。家族総出で行くオールトンタワーズ・リゾートとか、恋人との逢瀬のひとときとか、ひとまずはそんなところだったはずだ。幸福とは十字架に捧げるひとときだ、という人もいた。今、ひとつ当てはまる言葉があるなら、幸福は資源だ。高価なインプラントを入れている一握りのエスタブリッシュメントによって流通がコントロールされている。コングロマリットによって市場に流れ、先物市場で何グラム何ドルで取引される金融商品。つまり紛争資源だ。搾取された幸福は、特権階級に集約され、必要な数だけ分配されていく。必要な数ってのはつまり、俺たちの元にはまったく回ってこないってことだ。それがこの世界の基本構造だった。

 だけど、幸福はこの世界の要だ。それがないと、国民はすぐに抑うつ状態になるし、生産活動もなにもあったもんじゃない。今でも皆が攻撃に怯えている。慢性社会的敗北ストレスCSDSってやつだ。俺達はつねにそういうものに晒されてる。もはや、幸福度ランキングというやつは、国家レベルの死活問題だ。

 だから、かつての俺は彼らのために人を殺した。それが俺の前職で、忘れたかった全てだ。
 俺の今の仕事はというと、これまた彼らのために暴力を振るってる。
「あなたは労働規定103条に違反しました」
 そう告げられたのは、3日前のことだった。
 俺はあの病院で記憶を綺麗さっぱり取っ払ったあと、ずっとギグワーカーをやって生計を立てていた。
 仕事がなかったから、アプリに登録した。みんなそうだ。多くの人は車で人を運んだり、食べ物を届けたりなんかしてるけど、俺の場合は少しばかり特殊だった。それは、俺が壁の中から来た人間だからだ。
 壁の中と外ではまるで別世界だ。壁の中でみんなが必要としている資源を生産する労働者も、まともな街のまともな人々にかかれば、近寄りがたい存在となる。彼らはそうやって倫理的に振る舞いながら、血で出来た資源でこころとからだをつないでいる。

 だから、俺の経歴に興味があるという言葉を信じて、オファーをタップしても、壁の中にいたというだけで仕分け作業のように弾かれるだけだ。オファーはテンプレートの自動送信であることに気づかされる。当然の判断だ。だから恨みには思っちゃいない。
 そんな状況だから、壁を出た人間の多くがまた壁の内側に逆戻りするのはそう珍しくはない。だけど俺はそうじゃなかった。自分の価値を証明するような経歴も無く「こちら側」にすがりついている「向こう側」の住人。そのような人間の行き着く先は一つだけ。俺は例に漏れずレッドコードにアカウントを開設する。選択の余地はない。社会を回せない俺たちでも、見方を変えればコスパのいい労働力だった。その商品価値に気がついたのがシリコンバレーに本社を置くスタートアップのレッドコード社だ。レッドコードの棚には多種多様な商品が並んでる。主力商品は、警備保障。刃傷沙汰に慣れ親しんでいる俺たちには、警備にボディガード、時にはもっと危険な仕事まで任せることができる。政府からSASまで、アプリには様々なクライアントが並び、俺たちは簡略化された手続きを経て日雇い暴力に勤しむ。

 車でもジャンクフードでもなく暴力をお届けするというわけだ。いつ誰がどこで銃を抜くか分からないこのご時世には、銃を所有して警備に当たる殺人経験者は必須の存在となった。世界は人殺しで溢れているのに、警備員のなり手は少なかった。主要な警備会社は軒並み潰れたので、英国警備業協会BSIAも警備業法もほとんど意味を成していない。だからイングランドは、事実上、誰でも警備員になれた2001年以前とほぼ同じ状態になった。自警社会の幕開けだ。そんな最中で、レッドコード社はビジランテにアプリという居場所を作った。今では独占的にシェアを伸ばし、競争・市場庁CMAの調査対象にまでなっている。

 データアナリストによれば、俺達は、その場に配置するだけで犯罪発生率が四割も低下した。だから俺たちは暴力装置としての有用性を示すために、かつて世界を恐慌状態に陥れた殺人鬼達と同じような真っ赤な警備服を着ていた。言い換えれば、それはパッケージデザイン。銃と服によって俺たちの商品価値が演出される。警備服を着用した民間の武装ギグワーカーはレッドカラーと呼ばれている。ひとたびこの服に袖を通せばスムーズに職務を遂行できる。すべてスムーズ。俺たちが着ている服がでっちあげた罪の匂いのおかげで。
「俺たちは先進国の自家中毒だ」ある同僚はそう嘆いた。だけど、俺は仕事を気に入っていた。毎日、目が覚めるとアプリを起動し、指定された場所に行く。そこで動作をワン、ツー、スリー。B地点を経由し、帰ったら眠りにつく。それだけだ。
 結局、今の元手は違法コピーの幽霊銃ゴースト・ガンと、汚れた赤服だけだった。それでも何もないってわけじゃない。だから俺はずっと努力して、プラチナ評価を維持していた。だけど、一つのミスで風向きが変わった。
 水曜日、施設の警備をした。特に何も無い一日だと思った。ずっと立っていたが、休憩もあった。アプリの向こうで椅子に座ってる社員連中も、せっかくの在庫を台無しにするようなことはない。だから一時間の警備の合間に10分間だけ座ることが出来た。数分の休憩を入れるだけで、人間は朝から夜まで立っていることが出来る。人員はデータに基づいて効率的な配置と運用がされる。俺たちがしていたのは軍の下請け仕事だ。ホログラムに救援要請が現れたのは、休憩中のことだった。俺は現場に駆け付け、侵入者を仕留めた。俺達には特定の状況下で特定の判断を行うことが許可されていた。都市の安全における容認しかねる脅威の排除。わかりやすく言えば殺しだ。しかし、労働規定103条では、銃を向ける際は、必ず対象も武装していなければならない、とあった。俺が排除した侵入者からは、銃もナイフも出てこなかった。男はスミス&ウェッソンのタクティカルペン一本で、施設をぶち壊すつもりでいたらしい。とんだドンキホーテの、ジョンウィック気取りだ。だから、俺は甘んじてペナルティを受け入れている。

 そういうわけで、俺は有機的に絡み合う高速道路の狭間にある広場でプリンテッド・ホットドッグをつまみながら、悠々と寛いでいた。
 10月も半ばになり、世界は肌寒さを増していた。冷えた空気を吸い込むと、PLA樹脂の匂いが混ざって鼻をくすぐる。雨の上がった曇り空は紫に光って、マンチェスターは怪しげな妖気に照らし出されている。少し早めのハロウィンの飾り付けが町を彩っていた。
 労働規定に違反したおかげで、この三日間は仕事がない。金はないが、時間はたっぷりあった。こんな日もいいと思った。一度、不良達に絡まれたけど、お決まりの「コミュニケーションの初歩」をやって事なきを得た。基本的には、赤服のおかげで治安の悪いこの地域でも誰にも邪魔されることはなかった。
 多くの同族は赤服を嫌がるが、俺はオフでもこの服を着ることが多かった。もちろん、それは規約違反だ。だけど、街から街へと移り住む生活で服を数着しか持っていないし、他人と余計な関わり合いにならずに済むのは便利だった。店に入ることは出来ないので、広場に設置してあるフードプリントで好きなだけ食い物を出力する。今ではなんでもプリントだ。食べ物も、街も、銃もプリントされたもので、規格品という概念はあと十年もすれば消滅するだろう。

 街歩きを楽しむには少しコツがいる。スタイルをなぞればいい。MUSEを聞きながら整備されたビジネス街を散策すること。立派に街をぶっ壊したくなってる。
 俺が破壊したい全てのものがそこにあった。
 この十年でマンチェスターの街は様変わりした。古めかしい瓦礫の上に、新しい街が出来た。プロシージャル生成された街は、ぐねぐねと蠢き、繊細な装飾が施された摩天楼を形成していた。新しい街に、もはや建築家は不要だった。請負会社のサーバ上で生成された街の最適解が次々とプリントされていく。かつて思い描いていた未来都市は今のところ、自分のための街じゃなかった。それは、成功者のための街でしかなかった。俺のためにプリントされるのはせいぜいホットドッグと、ベレッタの機構を違法学習させた版権違反の幽霊銃だけだった。

 全ての物の形には祈りが込められているんだって言ってた人がいる。彼はエゼキエル書を片手に言う。「ここには、至聖所の寸法が細かく乗っている。なぜか分かるか?寸法には力があるからだ」誰かのつくった者にはかならず歴史が張り付いている。昔の人達は、祈りを込めて自分の家を装飾したし、建物から装飾が消えても、祈りの対象が神からもっと俗っぽくて、もっと強力なものへと変化しただけだった。かつて、アメリカ人達は合理的な規格品で形成された街を建てたが、これまた物が希少だった頃の迷信とは別の種類の祈りに過ぎなかった。金と、圧倒的物量への祈り。思想は結局のところ、産業構造や流通に支配されていた。バウハウスの建築家達は当初、純白のキューブ型建築にオカルティックな意味合いを込めていたというが、そういった建物が合理主義の象徴に変わっていくのに時間はかからなかった。
そして今、時代は大量生産から自動生産に移り変わった。物に込められた祈りとやらは、今では数値化された潜在的な欲望のパラメータにすぎない。欲望に呼応し、形が生成される。生成された形に呼応し、欲望が喚起される。フィードバック・ループ。自動化された街の自動化された意匠には、自動化された祈りが張り付いていた。

 憂鬱なジェネラティブの時代。新しい産業構造には新しい思想が伴う。だが、俺はその答えを知らなったし、考える気もなかった。縦線と横線が交差する、CADで設計された規格品で出来たつまらない街は、自動生成とリアルタイムコンストラクタで作られた、これまたつまらない街に置き換わった。そこにはなんの変化もないように見受けられた。
 都市は「祈り」だと、彼は言った。
 ローマの時代よりはるか昔から、都市はドラッグで、舞台装置だった。支配者達にとって都合のいい世界観が作られ、市民は見事に染まっていく。ローマに征服された土地にはローマの建物が建てられた。エジプトには大きな三角形の墓が建てられ、人々は否応なしに文明のイメージに支配される。近代ではナチスとか、ソビエトとかがこぞって、ディズニーランドでも作るように、自分たちの考える世界観を作り出そうとした。アメリカやイギリスのテーマパークは少しだけ成功した。都市は人から自由を奪う支配者の祈りだ。市民の幸福のためには、都市の提供する文明のイメージが、市民を包括することが必要となる。どれだけ孤独でも、大きな物とのつながりを得られるから。大道具ハードウェア脚本ソフトウェア

 だけど、でかい街に住んでるからって、自分がでかくなったわけじゃない。都市に長いこと住んで、でかいビルに通ってるようなエリートはそこを勘違いしちまう。関わる人間の種類とか、住んでる場所によって、本来の自分を見失ってる。根無草のほうがいくらかマシだ。
 ウェルビーイング・ムーブメント以降、幸福について多くの知識人や似非知識人が一家言を呈して来た。脳内物質なんかで幸福を定義するんじゃない。幸福とはもっと文化的な活動に根ざすものなのだ。この進化心理学者め、などなど。ある保守派の学者は言った。幸福に必要なのはシンボルと、それに伴った様式スタイルだ。
 宗教を信じよう。典型的な家族を持ち、日々の生活を送ろう。幸せな恋人であれば、ロマンチックなデートをするだろう。幸せな家族は週末に公園に出かけるものだろう。あらかじめ社会に内包されたスタイルをなぞる。イングランドの優れたパパになりなさい。写真を取り、いかに自らが定められたスタイルにそって生活しているか証明しなさい。場違いなスタイルを採用するのはご法度だ。このようにすれば演者たちは幸福を自覚できる。幸福とは、社会的に要請されたスタイルに自身の生活や行動が合致した時の、脳のバイタルだ。それぞれに合った幸福など、犬にでも食わせろ。スタイルがなくなった時、社会的な生命は終わる。だから、生態が幸福を分泌できなくなったのであれば、形をなぞろう。我々の理想的な世界観を維持しよう。
 理想のデートスポットは?今一番住みたい街はどこ?どんな服がイケてる?そんなネットの記事を読み、価値観を並列化し、エミュレートしよう。戦争のことなど考えるだけ無駄だ。学者の言葉は、ある意味では正しかった。
 だけど俺はそんなのはごめんだった。俺は俺のスタイルを維持しようと思った。だけどそういう考えを持った人は大勢いて、結果的にはそれが優勢になった。産業構造の変化がそれを後押しした。自動生成プリントによって作られた製品の数々が、都市が、思想の苗床になった。そして現在、パーソナライズ過剰が問題視されはじめた。統一された様式のない、それぞれの様式の中に閉じこもる平穏。

 だから、俺もそんな凡夫の一人として、生きてしまっている。そうでなければ、こんなところでホットドッグを頬張ってはいない。街が壊れたら、次の街へ。自分を孤高だと思い込みながら街に寄生することでしか生きられないフリーライダーだ。人が多ければ、チャンスがあるように思われた。でもそれは幻想だった。都市広場は猥雑だった。5秒広告を断続的に放映するフードプリンターに囲まれ、俺は一人、先のことを考えないように情報量に身を捧げる。きらびやかな街のどこにも俺の居場所はない。どの建物も俺を格納するには大きすぎ、豪華すぎた。街を歩いても意味はない。狭くて暗い小部屋スタジオに戻れば現実が押し寄せてくる。金がないという現実だ。

 暇を持て余し、中古のホロデバイスを操作して、フィードを開いた。フィードには大量のポルノが流れてきた。なにか新しくて、刺激的なものが見られるかもしれないと思い、ポルノを見始めるが、どれも似たりよったりで、同じような部位にこれまた同じような部位を突っ込んで、似たような流れで似たような動きをしている。これではまったく面白くない。すべてのホットな動画を、あなたに。お決まりの文句。動画は勝手に再生されて、十秒で終わった。スワイプすると、次のショートポルノが流れてくる。すべてのホットな動画を、あなたに。俺はとりあえずブックマークした。もう見返すことのないブックマークの群れ。映っている男女の総数はもはや群衆と言える。その六割は生成物で、四割はしぶとく生き残っている本物だ。彼ら彼女らは性病リスクと引き換えに、俺たちにポルノを届けてくれる。結構、結構。しかし、すぐにポルノに飽きたので、チンポがぶちこまれている動画が際限なく流れるウィンドウは閉じずに、その横に、別のコンテンツを表示する。そちらのフィードでは兵士の額に弾丸がぶちこまれていた。すべてのホットな銃弾を、あなたに。

 戦場で撮影された映像は即座に賭博屋ブックメーカーのSNSにアップされる。殺戮はみんなにとっての娯楽だ。
 だけど、そのような動画は生モノではけっこう地味で、つまらない。だから派手なBGMと過剰なエフェクトがかけられ、賭けが盛り上げられる。戦場のボロボロのベンチに腰掛けて、馬鹿笑いしていたドイツ兵たちが、パパパという軽い破裂音がなった途端、気がつけば脱力人形プッシュパペットよろしくパタパタと倒れていく。誰かの死を最大限に盛り上げようとする編集はインターネットの醍醐味だ。チャットではドイツの人々はブンデスリーガの泥試合を見るかのごとくブーイングをし、軍師気取りのナードたちが講釈を垂れていた。そういう光景を気分良くシェアしているのが我らが英国フーリガンだ。そんな彼らも、次の動画では一気に口汚くなる。だらだらと歩いている英国兵が爆発に飲まれたかと思えば、煙が消えた頃には死体になっていた。それは誰かの脳に繋がれたブレイン・ボンバーによる空撮記録だった。安全地帯から見る戦争はフットボールのようだった。わざわざ十八禁サイトにアクセスして、かわいそうなメキシコ人が残虐に殺される動画で気分を悪くしていた時代も今は昔。今や人間のささやかな残虐性は無数のインターネットポルノの隣で我々にレコメンドされる。30秒の残虐映像。スライド。すると次の残虐映像。よくもまあ飽きないものだ。兵士が生首で見事なドリブルを披露する。
 一説では、フットボールの起源は敵の首を蹴って転がしたことにあるらしい。どうも人類の娯楽は一周回って本来の輝きを取り戻したと言える。本物のフットボールの時代。本物の剣闘士の時代だ。
 かつて剣闘士は命がけで戦い、市民から喝采を浴びた。平和な都市の消費活動はやがて世の中の全てをコンテンツにしてしまう。平和と戦争の境界線を踏み越える体験には金を払う価値がある。辺境から連れ去られてきた剣闘士は、ローマの真ん中でふんぞりかえる連中に力いっぱいアドレナリンを提供し、歓声と罵声の中死んでいった。帝国の引力は彼らの故郷から多くを吸い尽くしたが、それでも彼らはかっこよく死んだ。画面の中の彼らはかっこよく見えているだろうか。画面の中の「いいね」と「悪いね」は、剣闘士を褒め称えるにはお手軽すぎるように思われた。
 奇しくも画面の中で戦場となっているロンドンにも、ローマ時代には円形闘技場が存在したという。ギルドホールのあたりだ。長い間栄華を極め、一時には世界を統べる帝国の首都にすらなった都市の残骸は、今ではかつて世界中から集め回った幸福の搾りカスを精算するように、都市全体がスタジアムになって、ネットの向こうから見守る世界市民にオキシトシンを輸出している。
 こうなってしまってはあの街もお払い箱だ。当初、新首都はバーミンガムとなる計画だったそうだが、BBCのある方、というのは俗説で、実際にはただロンドンから遠い方の街という理由で、このマンチェスターが首都になった。
 廃墟と化した戦場で延々と繰り返される残虐行為を見ながら、透過されたマンチェスターの街並みを眺める。今ここ。この賑やかな都市風景は、戦場なんてどこにも存在しないかのように振る舞っている。だけど、この街はポルノと惨劇によって作られている。都市はどこかの廃墟の写し鏡だ。俺は娯楽でこれを見ているわけじゃない。摘出してしまった記憶の断片が、そこにあるかのように思われたのだ。ポルノと惨劇の中に。
 そんなこんなで、もう一つのポルノウィンドウをチェックすると、男に跨ったまま、女が腸を引きずり出して絶命していた。男の方も、負けじと盛大に脳をぶちまけてイっている。ポルノとスナッフムービーの境界線は、もはや存在しない。

「ようアイザック。楽しそうじゃねえか」
 オーガズムと銃声に重なって聞こえた中年男性の声にうんざりしながら、ホロを切る。そこには今最も見たくない顔があった。山高帽を被った、いつもの借金取りだ。
 ジョナサン・マクラウドはかつての仕事仲間だった。奴とは長い付き合いだ。
 レッドカラーは個人事業主だが、多くの場合、利益のために徒党を組む。生存戦略だ。それぞれの得意分野で欠点を補い、報酬を山分けする。死亡率もぐっと下がる。数百人の規模を誇る大グループになることもあれば、俺たちのような少数チームもあった。銃を持って立っているだけのつまらない仕事からデカい祭りまで、俺たちは日々ハイエナのように死に群がり、仕事を奪い合っていた。
 俺はいつも一人だったが、稀に例外があった。それがこの男と、バキルだ。
 マクラウドの首には、ネックレスがかかっており、シリンダーがぶら下がっている。シリンダーの中にはバキルの死体が入っていた。
「クソが、マクラウドかよ。トラッキングしやがったな。俺のIPをどこで知ったんだ?」
「そう警戒するな、レッドカラーさんよ。お仲間から聞いたのさ。暇そうにしてるやつ、知らないかってな」
「白々しいぜ。糞の詰まったレジ袋め」
「相変わらず下品な野郎だ。なあ、今日は相談があって来たんだ。一仕事やらないか?アプリには出ない仕事だ。まだプラチナ評価だろ? あんたにうってつけだ」
「悪いが、今は店じまいでね。どっか行けよ。今月分の金は振り込んだはずだぜ」
「金はいい。いるのは人手だ。思いあがった若造でも、お前は使える。ゴールドラッシュだ。たんまり稼げるぞ」
「店じまいだ」二度も言わせるな、と手で追い払う。
「こんなチンケなところで永遠に燻ってるつもりか?あんたも囚われてるんだろ?慢性的な、不幸せってやつによ。だったら、そいつを打破するには、俺の仕事を受けて、突き進むしかねえぞ」
「悪党め。突き進んだ者の末路は死だ。あんたもそれを十分見てきただろう? キモいネックレスなんてつけやがって」
「そうか。では他を当たるとしよう。だがお前はチャンスを逃したぞ。お前の負債は帳消しになる」
 俺はすぐに、誘惑に負けた。この男は俺の性格を熟知している。即断即決。家に帰ってから、やっぱり金がいるなんて思いなおしたって後の祭りだ。金は欲しい。ため息をつく。
「待てよ、配当額は?」
 待ってましたとばかりにマクラウドはニヤけ、ゆっくりと指で数字をつくる。俺がこの男から借りた金を返し終えてもなお、釣りが来る額だった。
「ある人物がお宝を持ってる。俺たちは奴を追って、隙を見て宝を奪う」
「随分とざっくりしてるな」
「まずは、アプリの仕事を隠れ蓑にしろ。施設警護だ。クライアントによれば、三日後の12時から21時まで、ある国際機関で会談が開かれる。そこに要人が来る」
「その要人がカモか?」
「その通り。わかってるじゃねえか。詳細は後日だ」
 取引成立だ。もちろん握手はしなかった。

 その後、マクラウドと別れ、ジョークトイに寄った。ジョークトイはチャイナタウンの路地裏にある、少しアングラな武器専門のプリントキオスクだ。そこで、権限にロックがかかった武器のかわりに、新しいプリント・ゴーストを出力した。違法コピーに頼らなくても、銃の基礎データはECサイトに転がってる。そこから、手の形や筋肉量、身体つきに合わせて、調整が施される。
多くの製品はパーソナライズされている。プリンタから生産される物品の数々はその全てが個人に合わせて調整が施され、その形状が被ることはない。玄人の刑事にでもなれば、モノの形を見ればおおよそ持ち主のパーソナリティを見分けることが出来る。だが、もちろん、多くの人は玄人刑事になる必要はない。マイクロレベルで刻みつけられた装飾によって、どこの誰が出力したのか、簡単に識別出来るからだ。ホットドッグから銃弾に至るまで。追跡は容易だ。
 幽霊銃というのは、もともとはシリアルナンバーでの追跡を回避するために代替パーツをプリントしたのが始まりだったそうだ。プリントが普及した頃、幽霊銃の蔓延が問題視された。銃のオブジェクトファイルをアングラサイトで手に入れれば、あとはプリントするだけだ。出所不明の銃が市場に溢れた。だから、どこで誰が出力した物なのか、追跡する技術が求められた。しかし、自動生産される物の数々に、ICチップの識別子を埋め込むわけにはいかない。だから、出力される形そのものを識別子にしてしまうほうが合理的だった。だから、俺達は一人一人が、専用の模様を持っている。
 識別子のパターンを作り出すのは、思想、考え、意識。つまり、コネクトームだ。ニューラルマップこそがもっとも確実な個人認証形式だ。あの事件以降、もっとも進んだテクノロジーは脳に関わるものだった。多くの予算が投じられ、科学者達がこぞって脳の問題に取り組んだのだ。ニューラル票紋はその副産物だ。
 コネクトーム解析の普及こそが現在のパーソナライズ過剰をもたらしたと言ってもいいだろう。個別のニューラルパターンからなる個人票紋により、セキュアなやり取りが実現した。手の甲に印刷された個人票紋をかざし、決済する。
 自分だけのかたち。自分だけの祈り。その紋様が機械的に承認されることに、安心感を得られる。
 俺の祈りはただこの面倒ごとを終わらせて、金を手に入れることだ。


3.

 強い雨がボンネットを打っている。止むことの無いノイズは車内を完全な沈黙に追い込むには十分すぎるほどだった。俺にはそれがありがたかった。彼らのお喋りは不快だった。ガラスには大量の水滴が斜めに走り、我先にと窓辺に競争している。大きな水滴は小さい水滴を吸収しつつ、一番にゴールしていく。
 雨粒はフィルターとなり、世界と俺達を隔離しているかのように思えた。目を凝らすと、かろうじて、アーウェル川の波止場でずぶ濡れの男達が貨物船に乗り込んでいくのが見えた。彼らは狭い船室でぎゅうぎゅうに押し合いながら、悪態をつき、次第にそんな元気も消え失せ、静かに再開された運河を揺られていった。
 最初の行き先はかつて三角貿易で大量の奴隷を輸送したリヴァプールの埠頭だ。その後、海を回りながら各拠点を周遊する。似たような境遇の者が詰め込まれ、船内はさらに窮屈になっていく。ツアーの最後には河口エスチュアリーからテムズを遡上し、幸福工場へとたどり着く。船から降りた男達はほっと一息。そして労働が始まる。幸福工場とはかつてロンドンと呼ばれていた都市のことだ。都市を取り囲むM25環状線は今や巨大な壁となって、内外を隔てている。ロンドンとこの世界をつなぐ緩衝地帯DMZは封鎖されているから、失業者とか貧乏人が大半を占める労働者は、あの粗悪な棺桶で仕事場に向かうことになる。彼らの姿は外から極力見えないようになっていて、道行く紳士達は自分の世界と隣接する不潔さには一切目もくれない。あの船に比べれば葉巻の匂いが染みついたマクラウドのBMWでさえ天国のように思えた。
 労働者達はドナーと呼ばれている。たいていの場合どこかの業者に雇用されていて、フリーランスはめったにいない。さっきの連中はおそらくイギリスドナー軍British Donation Armyの一個小隊といったところだろう。国に忠誠を誓ってるような奴らじゃない。おおかた、仲介業者に騙されて連れてこられた連中だ。
 ドナーにはいろいろな銃が支給されるが、M4カービンの排出機構を学習したゴースト・プリントが一番人気だ。なにしろ、この仕事道具は扱いやすい。道具選びは大事だ。工場に送られたら最後、この銃を使って命が尽きるまで幸福資源フェリキタスを採掘する地獄が待っているのだから。

「昔の職場が懐かしいか? 」とマクラウド。
「バカ言え、覚えてなきゃ、感情はついてこないだろ」
「ドナドナを眺めてたな。憂鬱か? こいつを使え。効くぞ」
 フェリキタス。俺はカートリッジを受け取って一気に吸い込む。フェリキタスは粉末サプリメントで、ドナーによって採掘された”レアメタル”が含有されている。吸いそこねた粉煙が宙を舞った。粉塵は薄紅色。まるで薄れた血のようだった。
 鬱状態がデフォルトの俺たちでも、フェリキタス吸入後は半日ほど幸せな気分でいられる。あんただって一度はCMを見てるはずだ。ほら、ノーザンクォーターの落書きを覆い隠すように、あんなにデカい看板まである。
「フェリキタスでハッピーライフ! ブラウニー・インダストリー」
 妖精ブラウニーの贈り物は死によって賄われている。世界の本当の姿を知っていても、俺は他の奴らと何ら変わりなく、フェリキタス中毒から抜け出せない。企業の寒々しいキャッチコピーを横目に、俺たちは売人から粗悪なブツを仕入れる。
「どうだ、ハッピーになってきたか? 俺のは特別なところから仕入れてるんだ」とマクラウド。そして、俺の手にあるカートリッジを指す。
「フェリキタス。そう、まさにそいつが、お宝なのさ」
「工場勤務でもしようってのかい?」
「いいや。違うね。もっとデカいことをする。この数ヶ月のうちに最高純度のフェリキタスが出回ってるのは知ってるか。なんでも、ある特定の個人からしか抽出できないって話だぜ。それを俺たちは、甘露涎スイートグリスって呼んでる。0.1mgで五千ポンドの代物だ」
「眉唾だな。そんな話、一度も聞いたこともない」
「そりゃあ、秘密だからさ」
「混ざりっけのないオキシトシンは、今ではめったに出回らない嗜好品だ。だから、こういうブツにはこぞって高値がつく。その中でもスイートグリスは別格だ」
「だけど、それをどうやって手に入れるんだ? 運搬車でも襲うのか? 」
「違うな。蛇口から出てくる水を手に入れたって意味がねえ。俺が欲しいのは水源。つまり権益だよ。スイートグリスを分泌できる特定個人。そいつの所有権を手に入れる」
「それじゃ、まさか」
「ああ、特定済みだ。そいつを誘拐する」
 少し間が空いた。彼が何を言おうとしているか、よく理解した。
「あんたは忘れちまったようだが、俺たちは死ぬまで“あちらさん”だぜ。屠殺されるか乳を搾られてヒィヒィ言うしか能のない牛だ。それを今更、農家に回れって? 冗談じゃない」
 あの病院で俺の来歴は聞かされていた。
 ああ、つまり、俺もあの工場にいたのさ。
 俺はドナー兵として、壁の中で大勢の人間を殺したらしい。束の間の幸福さえもが誰かのための商品で、その多幸感は摘出キットで吸い出されるまで続く種牛のオーガズムだ。
 ドナーから抽出された血中オキシトシンからは、結晶が精製される。驚くことはない。19世紀には既に、日本人によってアドレナリンの結晶化が成功しているのだ。オキシトシン、セロトニン、ドーパミン、エンドルフィン。結晶化された、様々なホルモンの混合物。それが幸福資源の正体だ。
 オキシトシン結晶はブローカーを通して市場に出回り、企業によって加工される。そうしてクリーンな製品に生まれ変わる。点眼式のオキシトシン溶液などが作られたが、結局、吸い込み式に落ち着いた。
 店頭に並んだそれを買うのは、一般の消費者だ。一人が購入できる量には制限があるけど。
 戦場で分泌された幸福資源は、家庭に出回る。リビングでくつろぐ家族の身体に出回る。肺胞から体内に吸収されることで受容体に到達し、報酬系に作用する。ドナーが分泌した幸せホルモンは巡り巡って彼らのものになる。
 燕よ燕。あの人達に幸せを届けておくれ。Amazonの配達員やドローンによって、紛争資源は家庭に出回る。

 なんでこうなったのかは誰も知らない。
 一つだけ明らかなのは、俺たち人類の神経分泌の機序はあの天啓の日を境にぶっ壊れたってことだけだ。オキシトシンは俺たちが失ったものを代表するシンボルとなった。9つのアミノ酸で出来ているホルモン。この神経伝達ペプチドは様々な刺激によって視床下部のニューロンで産生され、血中に放出される。その産生のトリガーとなる刺激とは、かつては他者との緊密なふれあいだった。その機序が失われ、今では鬱と自閉のオンパレードだ。それが今でも、オキシトシンを分泌する方法がある。それはある意味では人類が到達した、最も緊密な触れ合いだった。どういうわけか人類は、殺人によってオキシトシンが分泌される体になってしまった。

 オキシトシン戦争。それがドナー兵たちが従事する大事業の名前だ。幸福を生産する戦争。各国の利権を巡る資源争奪戦争。あの年に起きた暴動が、収拾のつかない同時多発紛争に拡大し、結局はそういう形に収まったのだ。
兵の脳髄で生産された多幸感はどちらかの国の資源になる。恨みっこ無しだ。
 だから、壁の向こうの住人は殺人者だ。つまりは俺も、紛れもない殺人者だ。かつてその意味は一部の国では死刑になるほどに重かったという。俺たちの誰も、その実感は持ち合わせていない。その罪さえ奪われて、後に残ったのは経済を回すシステムだけ。
 オキシトシン戦争を最前線で回しているのは誇り高い軍人じゃなかった。移民、難民、貧困層チャヴや前科者。内臓を切り売りするか......あるいはその分泌物しあわせを売るしか選択肢のなかった最底辺の労働者たちだ。
 だから俺は、殺人が合法化された特別区域でせっせとオキシトシンを分泌し、日銭を稼いだ。
 八年間も、ずっとそういう生活をしていた……と記録にはある。だけど俺にはそんな日々の記憶は抜け落ちていて、パーソナルデータには自分が社会の落伍者であった確かな烙印だけが残された。そう、たった今マクラウドが眺めているタブレットの中に。忌々しいことに、奴のデータバンクには全ての債務者の情報が詰まっていた。
「解離性遁走は今時珍しくない」とマクラウドは楽しげにいびってくる。
「極限のストレスに晒された者が、気がつけば数年間の記憶が抜け落ちた状態で別の場所に立ち尽くしている。今までとはかけ離れたまったくの別人として、異なる人生を送っていた微かな痕跡だけが残されている。こんな時代だ。よくあることなのだろう」
「慰めの言葉か?ずいぶんと優しくなったな。てめえのアナルにキスしてやりてえよ」
 俺が睨み、マクラウドは首をすくめる。
「過去は言い訳にはならねえってことだ。仕事はこなしてもらうぞ」
「あそこで起きた戦闘データは記憶まで含めて企業連合体の貴重な財産だ。だから、没収されたんだ」隣で寝ていた男が起きた。ジェフリー・ヴァージ。初めて組む男だ。
 マクラウドは、うなずく。
「確かに、一部の企業は戦闘員の記憶を知的財産と見なしている。ニューラルリムーバーは容赦無く従業員から記憶を吸い出していく。運よく退役できたドナーも自分が自分であるという微かな確証を代償にPTSDとは無縁となる。そんな奴らが性懲りもなく戦場に戻っていくんだ」
「手術は俺の意志だぜ。俺が向こうでの日々を忘れ去っているのは事実だ。だけど企業は関係ない。たぶん俺は忘れたかったんだろうな。あの糞の街を、綺麗さっぱり。それで新しい自分になれたってわけだ」
「可哀想なやつだ。忠告しておくが、お前だけが悲劇を背負っているわけじゃないぜ。お前が俺たちの仕事にケチつけるってんなら、特別にいいニュースを教えてやろう。ざっと見積もって人口の15パーセントだ。人を殺したことがあるやつなんて、その辺にゴロゴロいるぜ。もちろん、俺もさ」
 ヴァージがウィンクする。
「多くの大人や、若者が殺人を犯した。それで何かを得られると思ったからな。壁ってのは象徴なんだ。罪を向こう側に追いやるための。向こう側なんてものがあるように思い込ませちまう。実際には、みんな同じなのさ」
「確かにな。俺たちはみんな閉じ込められているのかもしれん。人の一生は刑務所の中での生活のようなもんだ。みんな何かに熱心に取り組んでいるのは、死ぬまでの時間を潰すためだ。それに気がついたら、ごまかしが効かなくなる。やることは一つだ」マクラウドが言った。
 あの日、あの運命の日、確かに俺は退屈していた。
 かつて俺たちを包んでいた永続的な停滞は、終わりの瞬間まで途切れることはないように思われた。しかし、どんなに停滞していても小さな結節点を経て一気に全てが加速する。それは人の一生で確かに起こりえることだった。老人達にとって、人生を加速させる燃料といえば愛や憎しみだっただろう。だけど、俺たちはそんな骨董品は一切持ち合わせていなかった。愛も憎しみも他人に関心を払う準備が出来ている者にしか許されない感情だ。他人に関心を持ち得ない俺たちには代替キットが用意された。虚無、そして執着。俺たちの心はいつもその二つの間で揺れ動いていた。かつて人類がさいなまれた愛と憎しみの逃避行は終わった。執着は虚無に変わり、虚無は執着に変わる。その繰り返し。だから俺も虚無から逃れようと、手を伸ばした。
執着。燃料が注がれると否応なしにスピードが上がった。もうブレーキはかからない。そして思い知らされるのだ。壊れたように繰り返したあの無意味な時間がいかに牧歌的な無垢に塗れていたのかを。
「なんであれ、アプリに感謝することだな。お前らみたいなドナーあがりが飯を食えてるのもアプリ様々ってわけだ。ここの給料は多くは無いが、危険手当もある。家賃くらいなら払えるだろう」マクラウドが言った。
「だけど社会保険は?年金は?生きてるだけで罰金みたいに金がかかるんですよ。毎月あなたに金だって取られるんだ。このままでいいはずがないでしょう」もう一人、車に乗っていた痩せた男が言う。彼の名は、忘れた。これまた初めて組む男だ。
「律儀に年金なんざ払ってるのか」ヴァージは鼻で笑う。
「好きに生きりゃいいのに。どうせ俺たち、40前にはくたばってんだからよ」
「こんなことをやり続けて惨めに死ぬんですか。社会が動いてる時も蚊帳の外だ。でかいオフィスで、でかいプロジェクトを動かしてる本物の大人たちの残飯を漁ってる。糞みたいな社会のゴミだ」男が悲観する。
「俺達はピンカートンさ。立派に仕事してる。スト破りに要人警護。社会に必要とされてるさ。そのついでにちょっと稼がせてもらえりゃそれでいい。なあ、確かに俺たちは危ない橋を渡ってる。だがこんな仕事、いつまでも続けるわけじゃねえ。ただの腰掛けだ。だろ? この仕事をしてると、あんたみたいな奴をよく見かける。しょぼくれた面して言うのさ。こんなはずじゃなかったって。だが俺はまだ何も諦めちゃいねえぞ。目的がある。だから、金と信用が必要なのさ」
 ジェフリー・ヴァージはふふんと鼻を鳴らし、べらべらとまくし立てた。英雄譚の始まりだ。
「シティ・オブ・ロンドンの金融崩壊の後、多くの銀行がこの街に移転しただろ。んで、金融街に幸福銀行が現れた。金持ちは台湾産のオキシトシンを大量保有してた。だが、それには税がかかる。だからよ、やつら飛ばしたんだ。オフショアにな」
「タックスヘイブン?バカな。幸福資源の海外への持ち出しは条約で厳重に制限されてる。海外との先物取引だって議論の土台に乗ったばかりだぜ」
「ああ、だけどいくらでも抜け穴はある。そんである時、記者が金持ち連中の脱税に気がついた。そこで俺の出番ってわけだ」
「驚いた。正義の味方には見えないが」
「もちろん、金の味方さ。貧乏記者のお守りをする道理がどこにある」
「記者を黙らせたのか」俺が嫌悪感を表すと、また鼻をならした。
「殺しちゃいないさ。少し匂わせただけだ。恐喝、尾行、嫌がらせ。いつものやつさ。大抵の人間には家族がいて、そいつが弱点になる。企業は俺の働きに感謝して、たんまりと貰ったよ」
「ほら、あなたは糞に群がる糞ですよ」
男が苦々しく言う。
「それはお互い様だろう?結局、世の中がどうなっても、金があって、クラブに入ってるやつが元締めになって全部を動かしてる。少なくとも俺達の仕事はそういうのに取り入るってことだ。そんな事実がいやなら転職活動でもすればいい。だがな、知ってんだろ。人手不足、なんて言われて応募してみりゃ、二言目には、あなたのような糞垂れが欲しいわけじゃありません、だ。奴らが求めてるのは低リスク労働力だ。俺らみてえのはゴメンだとさ。なあウォルターさんよ、人口は減ってるが雇用は増えてる。完全に合法な仕事は世の中に有り余ってるのさ。問題は俺たちのところには降りてこないってこと。絶対にだ。だけど、俺は上に行くぜ。まともなルートが駄目なら、そうじゃないルートを使えばいい。奴らに取り入って、いつか運転席に座るのさ」
マクラウドは吹き出した。
「そういえばあんたがまだ新人の頃だったか。あんた言ってたよな。いやいや、良いんだ。あんただけじゃない。みんなが言う。仕事がないからアプリを入れたってな。そいつは嘘だ。本当に選ばなければ働き口なんていくらでもある。清掃員でもなんでもやればいい。お前はそれを惨めに感じて、アプリを選んだ。そっちに逃げた。お前は平穏な世界では生きられないんだ。戦場から逃げた挙げ句、別の戦場を探している。アプリに登録するのは決まってそういう奴だ。そうやってママゴトをしながら、過去の行動を反復して、自分が何者であるかを定義づけて、安心を得ようとする。ん?違うか?」
 ジェフリー・ヴァージはマクラウドを怪訝な顔で見るが、マクラウドはお構い無しだ。
「だから、デスクワークを掴み取ったってなんにもならないだろ。エクセルでも弄りながら一日過ごしてチンポぶっこく暇もねえ。そんなんで一生を終えるのか? 少なくともここにはスリルと、生モノのフェリキタスがあるぜ」
「アイザック、あんたはどうなんだ? こいつより、俺と組んで、企業に行かねえか」
「しょうもねえ。死んだほうがマシだ」
「もったいないな。お前、腕は確かなんだろう。だったら、どこぞの企業のお抱えにだってなれたはずなのに」
「でけえ組織に所属して、でかくなった気になってたって何にもならねえよ。そうやって、ただの糞からマシな糞になったと勘違いした野郎が世界を動かしてるつもりになってんのさ。あんたみたいな野郎だ。俺はそうやって自分の目を曇らせるくらいなら、俺自身の中でデカくいることを選ぶね。つまり、ずっとソロでいるってことさ。お前ら……マクラウド、お前もだ。お前らとは、それまでだ」
「地道だな。いつまでかかることやら」
「分かってないのはあんたのほうだ。ジェフリー・ヴァージ。企業様の小綺麗な会議室からなんかじゃ、本当に新しいモンは生まれねえのさ。そんなところにはチャンスはねえんだぜ。じゃあどこで生まれるかって、地下さ。ジェフリー。薄汚え、カビと小便の匂いが立ち込める地下室だよ。規制も前例も関係ない、無法の楽園さ。地下で蠢く混沌の胎動こそが未来だ。スーツを着てちゃ混沌の海では泳げねえ。群れていても駄目だ。だから一人で地下に潜んのさ」
 ジェフリー・ヴァージはきょとんとした様子で言った。
「俺の名前はキリアン・ジンクスだ」
 マクラウドは肩をすくめた。
「いいねえ。若えのが、揃いも揃って、でけえ口叩いてやがる。うめえモン吸って、今日一日生き延びられりゃこともなしだろうに」

 トンネルに入ると一瞬世界が暗くなる。防弾ガラスに反射する青白い顔は、まるで冥府から這い上がってきた住人のようだった。すぐにトンネルを抜ける。
「さあ、諸君。見えてきたぞ、悪の総本山だ」
 BMWを降りると、建物に足を踏み入れた。
 その建物は国会のすぐ隣にあった。国際特殊資源開発機構ISCO総本部。それは見事にプリントされた構造体だった。ガラス質が丸い輪郭を描き、ダイオード質はオレンジ色の光を放っている。ISCOは幸福資源の開発、貿易を目的とする共同体だ。オキシトシン戦争を仕切る主体となり、莫大な利権を握っている。それが今日の仕事場だ。

 政情不安に、金融市場の封鎖による経済危機。様々な危機が重なり、国は疲弊していた。暴力が手を出しやすい手軽な手段となったとき、領土問題を抱えていたアイルランドは爆発寸前となった。地獄の七〇年代の再演だ。テロリストによって二〇人が次々と殺害される同時多発テロ〈返り血の一週間〉を経て、アイルランドを飛び出して国中で紛争が始まるかに思われた。この国だけじゃない。人間が住んでいるところは、どこでも火薬庫だったのだ。
 帝国が植民地から資源を吸い取るように、幸せな者が不幸せな者から幸福を吸い取る。そんなことはあってはならない。世界には安全弁が必要だった。世界中の愛と注目が全て自分に向かっていて、愛されていることを疑うこともしない人たち。その愛が地獄に変わったあの日以来、みんなが努力した。構造は見えないようにしなければ意味がない。あの日、幸福であった人たちに突きつけられた抗いがたい選択肢は、ハグより殺人を選ぶということだった。そんな状態に突き落とされても、みんな相変わらず今までの生活を続けようとした。
 だから、マンチェスター協定によるM25の内側の割譲宣言は僥倖だった。割譲の相手は国じゃない。各国の合意のもと設立された国際機関だ。そして世界中のみんなのための戦争が始まった。合意した全ての国家は事実上の無国籍地帯を戦場として、軍事展開を許される。世界中のあらゆる戦場は、世界に散らばるこのような地域に凝縮されていった。欧州リーグは今のところ、ロンドンやブダペストがメイン会場だ。
 多くの国々が指定された地域で戦争をおっぱじめる。平常時ならどう考えても理屈が通らない。しかしマンチェスターの裏にいた誰かが見抜いていたのだ。今起きている世界中の紛争の原因は土地でも思想でもない。それらは単に、暴力を正当化する理由でしかない。その目的はたったひとつの資源の採掘。そう、二〇人を殺したあのテロリスト達の目的は北アイルランドじゃなかった。そもそも犯人はアイルランド人ですらなかったのだ。目的はただ殺すことにあった。殺して、幸せになること。
 幸福資源によって多くの問題が解決する。鬱病による自殺者の増加を防ぎ労働人口の減少に歯止めをかける。生産性を向上させる。イングランドはドナー兵の通過とパイプラインの安全を保障する見返りとして、戦地で生産される幸福資源の輸出に10パーセントの税を課している。幸福は新しい時代の資本であり、戦略的資源なのだ。
 幸福は嗜好品じゃない。生きるのに必要な必需品だ。それができない者の多くが鬱病で死んでいったのだ。だけどそれは止められる病気だ。そのためには贄が必要だった。そうやって壁の外側の奴らは徐々に幸福に依存し、そして内側の俺たちは不幸に依存した。


4.

「成金め」
 マクラウドが小さく毒づいた。
 ガラスケースに保護され、エントランスには一枚の絵が飾られていた。
 キャプションには、「カルタゴを建設するディド」と書かれていた。
「ウィリアム・ターナーだな。かつて、ナショナルギャラリーに飾られていたものだ。それが、ロンドン崩壊のゴタゴタに紛れて闇市場に流出。運良く見つかった際にISPOのお偉いさんが買い取ったって話だ」
「詳しいな。絵、好きなのか」
「実はオークションを護衛してたんだ」
「皮肉なもんだな。世界のあちこちに廃墟を作ってる連中が、街の建設者気取りかよ」
「そうでもねえさ。カルタゴは世界で一番の建設者達にぶっ壊されたんだ」

 見惚れるような絵だ。画家は美しく街を描いた。都市には軍事的な機能が二つ存在する。あいつはそう言っていた。一つは防衛機能だ。そしてもう一つは意匠の美しさによって征服を効率的に進める機能。人々に認知を植え付け、世界の捉え方に致命的な一撃を加える。
 街は記号の集まりだ。
 多くの人が素晴らしい人生に憧れてこの街に来る。マンチェスターは有数の文化都市だ。多くの作家が暮らし、世界一有名なフットボールチームがあり、おまけに素晴らしい図書館もある。
 しかし、街で数ヶ月も暮らしていれば、憧れを持ったその街が、ただそこにある物質の集合体にすぎないと気づくだろう。ふと周りを見渡せば、どこまでも続く単調な物質の海をクロールしている。群衆はいったりきたり。街の本質はA地点とB地点の往復に過ぎない。それに気づいた時、魔法は解ける。魔法が解けないようにするには、記号を供給し続ける必要がある。意味の依り代が。
 そして記号の大海で人は溺死する。
 それは、人を勘違いさせるには十分な質量だった。
 高級感のあるオフィス。軽妙なBGM。サヴィル・ロウで仕立てられた上等なスーツを着れば、みんながジェームズ・ボンドだ。ロックスターになりたいなら、ライダースジャケットでも着ればいいだろう。舞台の上では反逆者ですら、記号の奴隷にすぎないのだから。敵もまた記号に身を包んでいる。
 パターン認識の戦い。記号によって氏族は団結し、記号によって優れた文化を決する。そんな戦いが、石器に描かれたぐねぐね模様の時代から、現代に至るまで続いている。武器や船の彫刻で敵地の精霊を威嚇するか、個人票紋エングレーブの刻まれた幽霊銃で周囲を威圧するか。俺たちは殺人を犯した脳が生み出したパターンを身にまとい、殺人という記号を背負っている。
虚飾が過ぎれば過ぎるほど、本質のグロテスクさが増す。レッドカラーはまさにそんな本質を純粋に楽しむことが出来る職業だった。ある地点からある地点に行き、指定の時間だけ立ち、元の地点に戻る。警告という記号そのものに身体を変化させる生きた標識だ。制服のおかげで、シットジョブにも耐えられる。
 記号に身を包みながら、記号に殉じようと事件を起こす主義者を殺す。
 記号のために、人は生きることも死ぬことが出来る。思うにそれは記号が、生に直結しているからだ。一個体としての生ではなく、社会的動物としての生に。

「じきに始まる」とマクラウド。俺達のやることは、警備員として会議に紛れ込み、目的のもの……すなわち、スイートグリスの所在を突き止めることだ。
 その会議が行われるのは、開発支援部門の一室だった。
 エントランスのあるA棟を抜け、広い構内を急いだ。
 部屋は詰所から見える位置にあった。
 俺たちはそぞろ歩き、持ち場につく。
 俺とマクラウドは棟の東に配置。俺がジェフリー・ヴァージだと思っていたキリアン・ジンクスは北側の裏口。ウォルターと呼ばれていた名前をよく覚えていない男は、内部に入っていった。
 棟の扉の前に立っていると、やがてスーツ姿の男達がどかどかと入っていった。
 黒服が二人がかりで特大のジェラルミンケースを運んでおり、ガタイのいい男がくっついて目を光らせていた。それは厳重に守られていた。マクラウドの目つきが変わったのに気がついた。
 彼らが手の甲をかざすと個人票紋認証によって、一時通行手形が発行される。誰も俺たち施設警備には目もくれないが、それは好都合だった。俺は事前にマクラウドがよこしたイヤホンをつけていた。

 高密度カーボン積層の構造壁は防音性能に優れており、一切の音を通さないはずだった。しかし、20フィートほどの高さに、ガラス繊維強化プラスチックFRPのグレーチングがあった。気の利いた建築オペレーティングシステムが採光のために空けたのだろう。俺たちはその窓に向かって集光器を向けた。集光器は、照明ダイオード質に声の振動がぶつかることで出来る、微弱な光の揺らぎを検知し、リアルタイムで計算をかけていく。すると、光の揺れは音声情報に変換され、俺たちの耳に届けられた。

 まだ会議は始まっていないようだった。俺たちは警備しているふりをしつつ、耳を傾けた。
「エマニュエル・スレートだ」
「スレート少佐。開発支援部門のアーノルド・マッケンジーです。ストラスブールでのご活躍は聞いています」
「よろしく、マッケンジー君。あの事件で入院していた外相は先週息を引きとられたよ。だが朗報もある。先週、実行犯の一人を拘束した」
「結局、欧州議会でのIPPRに関する議論は平行線に終わったようですね」
「あの取り決め自体は、EUから抜けた我が国にはほとんど関係の無いことだがね」
「ああ、少佐。こちらは善意の声Vox of Goodnessの党首、サドラー氏です」
「スレート少佐。会えて光栄だ。これから会議のようだな。残念だが、私は失礼するよ。私の用事は終わったのでね。ああ、そうだ。マッケンジー君、例の書類は暗号化してから送ってくれ」
「はい、お疲れ様です。ミスター・サドラー」
「大物ばかりだな」とマクラウド。
「IPPRってのはヨーロッパの規制だったよな。経済関連で影響があるのは分かるが、なんだってうちの国から人がいってるんだ」キリアンのとぼけた声が聞こえてくる。
 キリアンの無知は置いておいて、君もIPPRについてはあまり聞いたことがないだろう。ニュースを読まず、ポルノばかり見ているからな。
 でも、ヘンテコな建物が火を吹いている映像はSNSで見たことがあるはずだ。フランス、ストラスブールにある欧州議会連合議事堂ルイーズワイス。ブリューゲルのバベルの塔が現代建築の姿を借りたような建物だ。その建物の中でIPPRについての議論が行われた。
 聖象略奪イコノパイラシー防止規制。西欧諸国を中心に議論された機械学習に関する規則だ。
 議論の発端は、機械学習と環境制御・構築ソフトウェアの普及にある。そのソフトウェアは都市や建物に付随する情報を記録し、あらゆる意味の振り幅を関数として定義する。機械によって想定され、網羅された情報の塊だ。ものに意味を投影するという、人間の機能を機械が肩代わりする。例えばそこに糞が落ちているとする。君はそれを「汚い」と思う。そうしたニューロンの発火はブレイン・マシン・インターフェイスからサーバーに送信され、図鑑に書き加えられるってわけだ。それが次のプリントに活かされる。意思が形を作り、形が意思を構築する。
 そこで、カトリックの人たちが震え上がった。例えばキリストの像が学習にかけられて、三次元データとしてのイメージがクラウド上に構築される。データはオンラインを周遊し、別の人々のキリストのイメージと混ざり、ある日突然、プリント教会に出現する。キリストの肌は黒か?白か?あるいは黄色かもしれない。ローマのペドフィル神父達のおかげで、キリスト教に冒涜的なイメージが紐付けられているかもしれない。可能性は無限だ。だから「機械がイメージしたキリスト」の存在は宗教の権威をおとしめる可能性がある。議題はそんなところだ。なんてことはない。偶像崇拝の連中のたわごとだ。
 想像してみよう。俺様はイエス・キリストだ。そして街がある。上等な街だ。金融関係の機関や国内有数の大企業がこぞってオフィスを借りてる一等地。いい案配に上等にプリントされた装飾や彫像が、街の全てを上出来にしてる。そして、上品さで飽和した街角に、どういうわけかチンズリこいてる俺様参上ってわけだ。笑えるだろ。
 だから万が一の可能性すら許すべきではない。無軌道な学習は聖の価値をそこなう。それは緩やかに、人間の精神のあり方を変容させてしまう。

 マクラウドはキリアンに懇切丁寧に説明してやっていた。立哨というのは、基本的に暇なのだ。
「IPPRってのは、規制派の発案だ。だけど、逆の立場の人間も呼ばなきゃフェアじゃないだろ?その中に、イングランドの研究者がいたんだ」
「イコノパイラシーは、声の大きな宗教関係者が憂慮しただけの、些末な問題だ。だけど世論的にも大きな分かれ目だったんだ。エイドス計画ってあっただろ」俺も話に割り込む。
「ああ、確か。幸福になるために、パターンに従おうってやつだ」
「そうだ。楽土の根源パラダイス・オリジンと名付けられたパターン生成のソースコードが開発されていた。あらゆる宗教的なパターンを学習し、すべての人間が等しく神聖だと思えるようなパターンを生み出す。人はあらゆるものに神聖なイメージを投影するようになる。認知科学的なリバースエンジニアリング。人間の脳はどのような形状に、どのような意味を見出すのか?そのメカニズムを科学的に分析し、再現性を掴み……統一する。まさにバベルの塔さながらってわけだ」
 少し話を止める。物音がしたような気がしたからだ。こんな会話をしながらでも集中はしている。特に会議室に変化はないようだ。
「人が信じるものは本来ばらばらのはずだろ。世界は複雑になりすぎた。民族も宗教も信念も異なる人々が一つの街に押し込められている。そこには必ず軋轢が生じる。群衆を一つのシンボルでまとめあげることはできず、都市の政治的機能は機能不全に陥る。だから、人々を統一しうる新たな形状が必要だった」
 ナチスが意匠を持って群衆を催眠にかけようとしたみたいに。かつての偉大な文明が、ピラミッドやエンタシスの装飾によって世界の定義を試みたように。その制御に成功した時、人は本当の意味で幸福になるってわけだ。幸福とは、誰かとの繋がりだ。社会への居場所。役割。人と人を繋ぐには媒介が必要となる。建物の様式が、街路にちりばめられた模様が、個人と民衆を、民衆と権力者を繋いでいる。
「つまり、様式を変えれば人の心まで変えられるってわけか?」
「もちろん、パターンは万能の催眠術じゃない。大昔の呪術師だって模様を描いて、はい終わりというわけではなかっただろう。大道具小道具を作っただけじゃ、単なるハリボテだ。そこには脚本がなければ意味はない。世界のあり方を決定するのはいつだって物語だ。だけどそんな物語さえ、プリントすることができるとしたら?」
「悪夢だな」
「だが、彼らはそういうことを本気で考えていたんだ。宗教権力と結びついた規制推進派と、妄想に取り付かれた研究者が議論を繰り返し、ようやく先月の26日に、イコノパイラシー防止規制IPPRが策定されようとしていた。そこをドカン」
「バベルの塔が崩壊した」
「実行犯はハルスペクスと名乗る武装集団だった。奴らはまんまと議会に侵入し、その場にいた全員を虐殺した。フランス警察の特別介入部隊RAIDが突入したころにはもぬけの空。ゴースト・プリントの手製爆弾IEDのおまけつきだ」
 そんな事態を収拾したのが、あの部屋の中にいるスレート少佐だ。この会議に参加していた科学者の中には、タイム誌の表紙を飾った著名な物理学者がいた。手遅れながら、地球に飛来した宇宙線に見事名前を付けるという偉大な功績を残した、あのカミンスキだ。研究内容に賛同してエイドス計画に参加していたらしい。邦人保護の名目で、スレートはフランスに飛んだ。そして実行犯がイングランド国内のグループだと判明した時、次々と拘束したのだ。


 しばらくして、ようやく会議が始まった。
「指針ではフェリキタス、およびジェネリックの幸福食品において、1mgあたりオキシトシン20パーセント、セロトニンが40パーセント、ドーパミンが40。トリプトファンやロイエンケファリンは基本的には配合しておりません」
 ISCOの一人が話している。
「供給は持続可能かね?」おそらく役員だろう声を拾う。
「先日、オキシトシン不足で死亡した赤ん坊の画像が出回っていました。このような犠牲を生んだのは供給をコントロール出来ていない我々の落ち度だと」
「通常、母親には優先的にフェリキタスが支給されている。母親が吸入し、授乳時に母乳に溶け出したオキシトシンが子供の体内に移動する。調べによるとその母親は粉ミルクを使っていたそうじゃないか。母親の授乳拒否に関しては我々の問題ではない」
「ですが世間はそうは思いませんよ。それに、幸福資源が枯渇したら赤ん坊一人じゃすまない」
 役員は唸った。
「現在の供給には問題は少ない。ブラウニー社のロビー活動によって与党の大半は規制緩和を推している状態だ。しかし、事実として、このまま採掘を行えば、幸福資源は2040年には枯渇するだろう。労働者がいなくなるからな」
 そこに、スレートははっきりと通る声で発言した。
「2040年問題への懸念はもっともだ。だから、こうして話し合っているのだ。実のところ、今日は皆さんに提案があってきたのだ」
「提案ですか?」
「ああ、ここで合意してくれとは言わない。一度持ち帰って、サインは後でもいい。紛争に頼らない持続可能な採掘を実現する。その道筋を導き出した」
 少しだけ沈黙があった。やがて小さなざわめきがあった。
「ロンドンでの採掘行為を終わらせると?しかし、行為を伴わなければ、幸福資源は生産されないのでは?」
「それとも治療法があると?」
 スレートは言う。
「いや、カミンスキ線後遺症はすでに我々を蝕んでいる。治療法はない。ところでマッケンジー君、私がストラスブールの事件からとある犯罪組織を追っていたのは知っているね」
「もちろん、存じ上げています。ハルスペクスですね」
「実のところ、それは、彼らが保有する情報を求めてのことだ」
「情報、ですか?」
「彼らについて、いくつか引っかかっていたからだ。彼らはなぜ、人類の身体機能の変異について正確に把握していたのか。なぜウェルビーイング・ムーブメントを引き起こしたのか」
 その言葉を聞き、鼓動が早くなるのを感じた。俺の人生の全てが狂った夜をまだ覚えている。
「カミンスキ線放射の影響が問題視され始めた頃だった。2013年11月5日、SNSに一つの動画がアップロードされた。それを投稿したグループは自らを古代ローマの呪い師になぞらえ、臓卜師ハルスペクスと名乗った。そのリーダー格と目される男が発表したのは、オルターグレイスと名付けられた暴動計画の声明だ。その動画は削除されたが、複数のサーバに転載されて今でも見ることができる。これはその一部を切り取ったものだ」

 諸君。ようこそアルカディアへ。
 君たちは「愛し合う」という神からの祝福を失ったと嘆いていることだろう。
 だが祝福は失われてなどいない。我々にはもう一つの手段がある。
 オルターグレイスだ。
 生まれ持った祝福は別の形に変質した。それだけだ。
 ハグでもキスでもセックスでもない。心を通わせる必要などない。我々に備わったのは殺人キルによるオキシトシンの分泌作用だ。
 地上に降り注いだ天啓は全人類の機能を書き換えたのだ。より優れた形に! 諸君、目を覚ませ。人を殺せば、幸せになれる。
 ウェルビーイングが始まった。ウェルビーイングな時代が。だから、殺し合おうじゃないか。
 11月5日を忘れるな!

 彼らの目的は不明だった。ガイ・フォークスの日に打ち上げられた花火は、個人が個人を虐殺する、最悪の時代の狼煙となった。
「皆も知るとおり、カミンスキ線飛来から数ヶ月後、徐々に後遺症の影響が報告された。人は従来の触れ合いでは幸せホルモンを分泌できなくなっていたのだ。多くのものが抑鬱症状に苦しんだ。そこに、この動画だ。殺人だけが幸福を得るための唯一の方法だと、人々を煽った。それでも当初は、こんなものは誰も信じていなかった。カルト集団の一種だとな。ところがどうだ、それから数週間が過ぎ、殺人事件は異様な増加を見せる。被疑者たちの証言により、その内容が真実であると知られることになる。なぜか、彼らはその影響を知っていたのだ」
 グラフを見たことがある。テレビに映された異常なグラフ。レポーターの表情までくっきりと覚えている。殺人件数のグラフは指数関数的に増加していた。あの日を境に世界地図は真っ赤に染まった。SNSにはまるで吸血鬼のように死体から血をすする男の動画が拡散された。血。たくさんの血が街路を濡らしていた。俺が住んでいたランベスは、まさにそんな殺戮の渦中だった。
「実際のところ、彼らの煽った暴動で世界が壊滅したわけじゃない。ご存じの通り今でも人々は、理性を保っている。だが、それでもオルターグレイス宣言は一部の人間の背中を押したのだ。全世界の主要都市では快楽殺人が跋扈するようになり、いくつかの都市は完全に統制を失った」スレートが言う。
「人間は他者と触れ合わなければ生きていけないわけじゃないですから。それと同じように、人を殺さなくたって生きていける。だからこんなもの、理性さえあればなんでもないはずです。だけど、一度殺人の味を知った人々はその虜になってしまう。あらゆる快楽行為は、絶対になくなることは無い。だから殺し慣れてしまった連中からしてみれば殺人は性的快楽となんら違いがなくなった」マッケンジーの声だ。
「だから、あなたがたは制度化された紛争という策を提示した。あなたがたは、かつてロンドンがあった場所に自由殺人特区を設置した。石油や土地のためではなく、快楽のためだけの戦い。まさしく現代のヴァルハラだ。殺したいやつは目の届かないところで好きなだけ殺し合えばいいというわけだ」と、スレート。
「苦肉の策だ。スレート君。そのおかげで世界のほとんどは今まで通りだろう。殺人者を特定区域に押さえ込むことで平和が実現し、"オキシトシン戦争"によるギリギリの均衡の上に世界秩序が築かれている」これは役員の一人だ。
「だがそれにより、世界は二つに分断された。殺人者の世界と非殺人者の世界。もはや別の種族と言っていい。今は我々が権力を持っているが、時代が進めばいつ権力関係が逆転してもおかしくない。我々のこれまでの対応は結局のところ、問題の先送りにすぎない。ゴミをベッドの下に隠すように、切迫した問題を目に見えないところに追いやっただけだ。地獄を封じ込めておけば、自分達は安全圏で暮らしていけるとな」スレートだ。
「だからオキシトシン戦争を終わらせると?」
「各国の合意の上でだ。事態は複雑だ。国際法上れっきとした"戦争"と位置付けられている。だから、戦争終結には政治的な駆け引きと手順が必要となる。問題は国同士の資源争奪戦だ。自立したホルモン生成の機序を失った我々は“物質化”された幸福なしには生きていけない。幸福は資源になった。必要不可欠な。オキシトシンやセロトニンを殺人によって生産し、管理し、配分する。戦前は幸福度ランキングなんてものがあったが、今では本当に国同士で幸福の総量を奪い合っているというわけだ。現時点で、彼ら労働者が人を殺さずに幸福資源を分泌することは不可能だ」
「我々はそれを仲介する。だから壁の中の殺人者にはこう考えるものもいる。我々は自分達を窮状に追いやって、自分の手は汚さずに甘い蜜だけ吸っているとね」
 俺は頷いた。ああ、まさにその通りさ。
「それで、オキシトシン戦争を終結させるとは? 具体的な道筋は?」
「あなた方は、心配しておられるようだ。パイを食べられてしまうと。その心配は無用だ。あなた方のパイを奪いはしない。これは信頼の証だと思ってくれ。あなた方に“これ”を見せるのは、実績を信頼してのことなのだから」

 盗聴装置は、息をのむ音を拾った。
「なんとまあ、美しいな」
「スイートグリスと呼ばれている。ハルスペクスが嗅ぎ回っていた代物だ。リーダー格の男、ピーター・ナサニエルはカミンスキ線飛来のはるか前からこれを探していたのだ。目的は分からんが、用途は明白だ。だがまあ、彼らの吐いた情報のおかげで先に見つけ出すことが出来たがね」
「スイート・グリス……聞いたことがあります。最近出回っている、高濃度の幸福資源ですね。彼女は死んでいるのですか?まるで生きているように見える」
「厳密には仮死状態にある。ほとんど死体だがね」
「ずいぶん古めかしい服を着ていますが」
「一六世紀末に死亡し、以来ずっとこの状態だ」
「ご冗談を」
「いいや、グラストンベリーの丘の地下洞窟で眠っていたのだ。世界で唯一、人を殺さずに、高濃度の幸福資源を産出し続ける脳サンプルだ。そしておそらくは、死亡時に高濃度のカミンスキ線を浴びている」
「彼女の脳サンプルを利用して、同じようなドナーを量産するつもりですか。そうすれば、人道的な幸福工場を作り出すことが出来ると」
「ああ、これで我々は暴力から解放される」
 少し、違和感があった。なぜ、スレート以外の声が、すべて同じに聞こえるんだ?
その疑問について頭をひねる間もなく、ふいに、獣が唸るような低い笑い声が響いた。
「なるほど、ここに彼女が。あなたは今まで水源を隠しおおせてきたわけだ」マッケンジーの声が言う。
「マッケンジー君?」
「マッケンジー君、そうマッケンジー君だ。マッケンジー君など最初からいない。私の名前はあなた方が一番よく分かっているはずだ。ほら、よく考えて」
「だが……しかし……」
 相当困惑しているのだろう。スレートの声は消え入るようだった。
「君はこの会議が始まった時から、ずっと一人だ」
「お前は、まさか」
「周りをよく見なさい。ここには、私と、あなただけだ」
「ピーター・ナサニエル……」
「私はあなたの目的に気づいていた。我々の壊滅を望んでいるにしては、行動に一貫性がなかった。何かを探ろうとしているのは明白だった。スイート・グリスの在処の情報を手に入れようとしているとね。私達は場所を知っていたが、どうしても手に入らなかったのだ。私達にはその資格がなかった。だがそれも、あなたが解決してくれた」
「くそ野郎……」
「もう遅い。あなたもすぐに死ぬ」
 そして沈黙があった。それはスレートの死を意味していた。そして、その男、ピーター・ナサニエルは言った。
「警備員さん、聞いているのだろう?そこは寒いだろう。中に入りなさい。どうぞ、遠慮せず。認証警報は機能しない」
 イヤホンからは何も聞こえなくなった。
 俺たちが急いで棟に入ると、内部は異様だった。真っ白な空間に夥しい血が混ざっている。中にいたレッドカラーや職員は無残に殺されていた。その中の一人に、見覚えのある顔があった。一緒の車に乗ってきた名前の知らない男だ。
 会議室の中の人間も全員息絶えていた。
 死体、死体、死体の海だ。死体は冷たく、死後一時間以上は経っていた。その中に、首が切り取られた死体が見えた。まるで中世みたいな服を着た死体だ。
「畜生、こいつはスイート・グリスだ。野郎、もっていきやがった」マクラウドが毒づく。
「行くぞ。下手すりゃ俺たちが指名手配される」キリアンが急かす。
 女の首のあっただろう場所に、一枚の血まみれのメモ用紙が置いてあるのが見えた。それを拾い上げる。
 アイザック、約束を果たせ
 メモにはそう書いてあった。

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