藤原章生講演録:ブッカー賞作家、J.M.クッツェーとアフリカ (「アフリカの心をよむ 」-1- 於 渋谷パルコ、2001年7月7日 )


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 (C) Akio Fujiwara, Namibia

 自分のことをまず紹介させていただいた後、南アフリカの曲を流しながら、南アフリカの写真を見ていただこうと思います。その後に、きょうの本題であるクッツェー(J. M. Coetzee) とアフリカについてわかりやすくお話ししたいと思います。
 おそらくアフリカというより、J.M.クッツェーのファンという方もおられると思うので、文学論になると私自身もよくわかっていないし、難しくなってしまいますので、後半のクッツェーの部分についてはなぜクッツェーを取り上げたかについてお話ししたいと思います。
 まず、自分を紹介するところから始めます。きょうのテーマであるクッツェー氏の最初の作品が「ダスクランド」ですが、ダスクというのは夕暮れという意味ですが、タイトルはダスクランド、夕暮れの国といった意味でしょうか。これは彼が34才のときに発表したものです。彼は20代のときには全く小説を書いていなくて、32~33才のときから突然書き出した作家なのですが、その最初の作品でこう書き出しています。

"My name is Eugene Dawn. I cannot help that. Here goes."

 このユージーン・ドーンというのは、物語の語り手になります。日本語に翻訳しますと、「私の名前はユージーン・ドーン。だけど、こればかりはどうしようもない。さあ、始めよう。」こういうスタートです。彼は3年に1回ぐらいの割合で作品を発表してきました。この書き出しを真似して私も講演の冒頭に同じように言ってみます。
 「私の名前は藤原章生。だけどこれだけはどうしようもない。とにかくやるしかない」ということになります。
 この書き出しがどういう意味か、私なりに考えたのは、「とにかくそこからスタートするしかない。もう変わるわけにはいかない」ということです。生まれたときからいろんなものを背負っている。両親の遺伝子というか血を受け継いで育っているわけだし、社会の中でたまたま運良くその時代に生まれてきたがために、いい教育を受けられたとか、たまたま比較的平等な社会に生まれたから、自分が少しでもがんばれば目指すものに近づくことができたとか、そういう社会とか親から受け継いだものがあって、自分というものが今ある。それを突然別の人間にぱっと変わることもできないので、まあそればかりはどうしようもないという、この作家の宣言のようなものだと思うのです。
 私自身もこういうところで、きょう、恥を忍んでしゃべることになったのですが、ここまで来てしまった以上はしょうがない。とにかくやろう。皆さんとこういう場で一時間半を共有し、10年、20年経ってから、あんなこともあったなと一瞬でも思い出せるような場にできればいいなと思っています。
 いま、「恥を忍んで」と言いましたが、こういうふうに言うと聞こえがいいような気がしますし、ちょっとかっこつけた表現だと思いますけれど、私自身は緊張するとかっこつけるタイプで、本当はもっと崩れた方なのですが、どうしてもこういう表現を使いがちになります。
 先ほど、そうは言っても自分を変えることは出来ないと言いましたが、実際のところ自己紹介する上であえて言いますと、10才の夏ごろから、自分を変えたいなあと思う段階が何度もありました。たとえば、もう少し他人から好かれる人間になりたいとか、じくじくしないでさわやかな人間になりたいとか、ひねくれたところのないまっすぐな人間になりたいとか。ある段階では意味もなく明るくてバカみたいな人間になりたい、あまり何も考えない能天気でいい奴だなと思われたいと。ある時点では,がさつで何事にも無頓着で、いい加減な「野人」なんて呼ばれてみたいと思った時期もあります。
 そういうことを思いつつ、周りの環境がぱっと変わったときに、それ以前の人に会わないですむような環境に移ったときに、できるだけ変えてみようとしました。が、今思うと、表面的なところでは、かなり細工は出来たと思いますが、核心部分の内面というのは、そう簡単には変えることができないのではないかということに気づきました。
 たとえば親から受け継いでいる嫌な部分。たまたまそのときに受精したがために、突発的に起きたいろんな部分もあると思いますが、とりあえず、この脳味噌がその時点でできてしまって、これだけは自分の意志で変えてみたいと思っても、どうしようもない。これでいくしかないのではないかということ。それが先ほどのクッツェーの「ダスクランド」の最初のところに、宣言というか開き直りみたいなものとして打ち出されているのです。私自身、いまそれに同感しています。

 気取ったことを言ってみても、結局はばれる。何か不自然だなあというふうに、どこかの動作で出ます。人をよく見てきている人には「この人、なんか嘘ついて、かっこつけているなあ」と、ばれますので、できるだけ正直に自分が思ったことを語りたいと思います。
 先ほど10才の夏と言いましたが、なぜ10才の夏かと言いますと、そのころから自分の記憶がそれ以前に比べると、かなり鮮明になってきた年令だからです。それ以前の3~4才ごろから嫌だなあと思っていたのですが、まだそのころは意識的に自分を変えようなどとは思っていなくて、10才頃からそういうことを思うようになりました。それからちょうど30年が経ちましたが、どう変わったのかなと思うと、実のところあまり変わっていないというのが実感で、結局のところ、うじうじしているのです。
 昨日も何をしゃべろうかなあと、最後の最後までうじうじしていたところがあるのですが、それでいて人から何か、「あなた、いいことやったじゃない」と誉められると、舞い上がる方です。自分で認めてしまうのはいいのですが、人から指摘され、お調子者のように言われ、見抜かれているとギクッとすることもあります。こういう開き直った言い方をしているのにも、計算ずくのところもあるのです。先ほどから「実のところ・・・」と何度も言っていますが、英語で "to tell the truth,"と言いますが、そこにかすかな嘘が込められているのじゃないかという気もします。実のところ、とまた言ってしまいますが、嫌だなあ、とときどき思ってしまう自分の部分というのは、唯一変わらない部分で、常に起こっております。
 2年ほど前、マスターといわれるような芸術家に会いました。その人がこんなことを言いました。「自分のことを大事に思おう。自分を好きになろう。自分が好きになれなければ、どうして他人を好きになれるのですか」と。私にはその言葉が真実かどうかはわからない。でも、仮にそれが真実だとすると、私自身は他人を思いやったり、好きになったりするということが実際のところできないのではないかと思うのです。でも、生きている以上、少しは今より良い人間になりたい、そのとき自分を好きになれるようになれればと思います。つまり、変えようと常に試みているという点では同じです。先ほどの一文で、でもこればかりはしょうがないのです。

 講演のタイトルは少し大げさですが「アフリカの心をよむ」とあります。きょうから何度か話すのですが、あれほど多くの国がある世界とその人びとを、「アフリカ」と一つに総まとめにすること自体、嘘がある気がします。しかし、便宜上、「アフリカ」、あるいは「アフリカの人びと」という形で語ります。それを語る以上、語られる人もそうですが、語る人間がどういう人間かということが大事なのではないでしょうか。語る人間によって全然違ってきます。そういうわけで、長々と自己紹介したことをご理解ください。
 私は95年から南アフリカという、アフリカの中でも良い部分も悪い部分も極端に出ている特殊な国に暮らしてきました。そこを拠点にアフリカ各地を回ってきました。それ以前にアフリカに深く関わることはほとんどありませんでしたが、アフリカと関わる人びとを見てくることはありました。
 そういう人たちを見ると、自分と違うタイプの人たちではないかなあ、善人だなあという感じを持ちました。「なぜ誰もアフリカに目を向けようとしないのか」とか、「人びとが飢えて死んでいくのにあなたは平気なのか」とか、そういうことを言われることはめったにありませんでしたが、なんとなく「アフリカ」と聞けば、そこでがんばっている、「ああご苦労さま」という形でそういう人たちを見てしまうところがありました。がんばっている人たち自身も、自分たちは善人なのだなと認識する。今思えば、アフリカの政治家や人権団体の人たちの常套句だと思いますが、そういう言葉を聞くと、95年当時の私にはいたたまれないというか、居心地が悪いというか、自分にはどんなに掘り下げていってもない善意が見えて、非常に重苦しく感じられました。ちょっと失礼したいなあ、というような気持ちになったものです。
 そういう自分がこういう場に来て、えらそうにアフリカを語ろうとしている。それを例によって嫌だなあと思ったのですが、しかしそういうのも、たまたま偶然、運良く、幸か不幸か、自分に課せられた試練ということで受け止められるようになりました。その試練を乗り越えれば、何かまた少し変わるかもしれないなと思いつつ、普通の原稿を書くという慣れてきた作業とは別に、こうやって人前でしゃべるということをできるだけ真剣にまじめに取り組んでいきたいと思ったわけです。
 15年前の私は、自分がものを書いて給料をもらうということは考えてもいませんでした。ましてや新聞記者になると考えたことはありませんでした。当時の私は自分の将来についてぼんやり考え始めた頃で、大学には6年半もいましたが、目先のことを思いつくままにやって生きていけたらいいなと思っていました。山登りばっかりやって6年半が過ぎ、大学を卒業しました。その頃、ひょんなことから、ある中米音楽を聴いていて、中米に行きたくなって、かなり衝動的に中米に行き、ぶらぶら旅しました。しかし、その後も一貫性はなく、帰国して大学の先生に薦められて、試験を受け、エンジニアになりました。工学部にいましたので、エンジニアリングに就職しやすかったのです。私がエンジニアとして優れていたというわけではなかったのです。
 ところが、27才のとき、些細なきっかけから新聞記者への道に進むことになりました。そのときなぜそう思ったかは、いまだに分からないのです。その頃働いていたのは鹿児島県の山奥の金鉱山で、5月の連休で東京に帰省していた折、中学校時代の友人に会い、お酒を飲みながら、とりとめもない話を延々としました。その友人は職業というものに敏感な人で、職業について語り合うことがよくありましたが、その彼から「おまえがエンジニアになるとは思わなかったな」と言われた後、「おまえ、ジャーナリストになったらいいのじゃないか」と言われ、「ええっ!」と思っただけでした。その晩は親の家に帰って寝たのですが、翌朝起きてみると、なんだか空気が違う、何かが違っていました。それでとにかく新聞記者になろうと思ったのです。(会場笑い)
 実のところ、それまで新聞なんてまともに読んだこともなくて、もともと理科系の関心が中心でした。もちろん、おもしろい小説は次々に読んでおりました。つかこうへいとか、筒井康隆という類のものです。そんな人間がジャーナリストにというのはいかがなものかと考えたのですが、そのときのエネルギーのようなものに押されるように、その道に進んでいったのです。
 88年当時、バブルの時代でしたので、新聞社も多めに採用してくれていたのが幸いしました。職場の上司に、「辞めます」といきなり言ったら、「なに言ってるんだ、おまえ」と本気にされませんでした。職場長のような立場にいた私は、部下が十何人もいましたから、急に辞めるだなんてできるか、という反応でした。しかし、課長であった上司も私が本気ではないかと思いはじめ、「そう言ったって、受かるもんじゃないよ」と忠告してくれました。「もしダメだったら、まだいていいから、僕の胸のうちにしまっておくからね」と言われました。それで、しんどい仕事ではありましたが、働き続けながら、試験のための勉強をしました。そうしたら受かりました。ですから、思いつきとか衝動で記者になったわけです。幼い頃から胸に秘めた志のようなものはなかったのです。そうしてしばらくして、95年にアフリカに行くことになったのです。
 アフリカ行きが決まった頃も、貧しい人びとを救いたいとか、本当に心の内から使命感のような気持ちが湧き出してくるということはありませんでした。忘れられたアフリカのような大陸にどうして皆、目を向けないんだ、なんていう想いもありませんでした。アフリカに滞在した5年半の間、こんなひどいことがありましたとか、こんな変な人が住んでいますとかはよく書きました。自分もよくびっくりしていましたし、特に最初の1、2年はなんでも驚いていました。戦争が起きると、アメリカの記者などが大挙して来るのですが、初めてやって来るアメリカの女性記者なんか、キャーキャーと何に対しても驚いているから、3、4年経っていた私は、自分もそうだったなあ、なんて思ったりしました。
 こうしなければならないというような記事はあまり書きませんでした。書けなかったのでもありますが、ましてや、先ほどの話と重なりますが、アフリカを総体で語る、いわゆるアフリカ論がありますが、アフリカ論とか貧困論というものを、できるだけ避けて通ってきたところがあります。とは言っても、サラリーマンですから、私の前任者とか長くアフリカに腰を据えて仕事してきている人たちから「本当は君がやらなくちゃいけないのは、アフリカの行く末を書くことだよ。そういうことを大いに語ってもらいたい」というような意見をいただき、それはやらなくてはと思いつつ、その方向に関心が向かいませんでした。

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 (C) Akio Fujiwara, South Africa


 鉱山に勤めたことがあったので、金とかダイヤモンドがどうなっているのか、それで誰が得をして誰が損をしているのかということなどについては丹念に書いたりしました。現在でも残る社会制度、つまり実質上の奴隷制についても書きました。ただ、アフリカに対して、世間の人はこう反応しなくてはいけないとか、最近の問題ですと、エイズや貧困問題に日本人は目を向けろよというようなことはなかなか書けないのです。
 なぜかというと、原稿を書くとき、読者というのをあまり想定していないのです。エンジニアの仕事に比べて、切れ目のない仕事で、次に書くもののことを常に考えている。そういう状態が長く続いて、やっと出すという状態なのですが、そういうときに読者というものを想定していません。
 あえて想定するとしたら、95年以前の、アフリカのことをよく知らない自分に向けて書いている。アフリカのことをよく知らなかった当時の自分と同じ程度の人間に、いま自分が感じていることをわかってもらいたいという気持ちで書いていたのだと思います。先ほど言ったような、もっとアフリカに関心を持とうというようなことを書いてみても、そこに自分がいると思うと、それで心を動かされるということはないとわかったからです。なぜそんなふうに思うのかと問われれば、先ほど言いましたように、こればかりはどうしようもない、というところに行かざるをえません。

 「それではいったい、5年半も何をしてきたの?」とたずねられれば、いつも友人を捜していたと答えます。誰一人として知り合いのいないところにパッと行き、たまたま助手やスタッフもいないところに行ったものですから、本当に欲得なく付き合える友だちが一人でもできたらいいなと思って、あちこちせわしなく回っておりました。
 欲得なくと言いましたが、本当は欲もあるのです。自分はあまりにもアフリカについて無知だし、さまざまな先入観を持ってやって来ている。それを克服するには、本なんかで克服することもありえるでしょうが、気持ちや心理がわかった友人の目や、彼自身の心を通して世の中を見れば、少しはわかるような気がしました。そういう友人をほしいなあと思って、友人を得るためには、社会集団、そこに住んでいる人のことがわからなくてはならないと思いました。相手の心がわからないとしても、洞察しなくてはいけない。それがなければ何も始まらないのではないか。そういうことで「アフリカの心をよむ」というタイトルにしました。アフリカ人が実際何を考えているのかは、たぶん私自身がずっと思ってきたことですし、見てきたものを通して語ることができると思うからです。

 本題に入りますが、本題に入る前に、たくさんの人にここに来てもらっているのですから、南アフリカについて、どんなイメージをお持ちなのか、この中には何度も行かれた方もいらっしゃるでしょうが、一字でもいいですから、たとえば「マンデラ」だけでもいいですから言っていただきたい。皆さんに言っていただくと私も話しやすくなります。その後に、私が5年半に撮った写真を音楽と共にお見せします。その後に本題に入りたいと思います。

(聴講者の一言:人種隔離政策、アパルトヘイト、美しい自然、白人の支配する社会、英国系の人とオランダ系アフリカーナの人たち、むきだしのところ(欲望など)、少数の人の豪華な暮らし、野生植物、ヨーロッパナイズされた都市、ソウェト蜂起、金、サッカー、唯一開かれたアフリカの先進国、遠い夜明け、気候の良さ、快適な生活、大都会)

 (南アフリカの写真のスライドショー放映)

 新聞ではどうしても白黒写真が主体になってしまいますので、こういうカラー写真を見せる機会はほとんどなかったのですが、今の写真を見ただけで、南アフリカのイメージが変わった方も中にはおられるのではないかと思います。私自身も向こうに行くまでは白黒のイメージでした。「遠い夜明け」というのは良い映画だったのですが、それとは別の映画を少し見たのですが、非常にすさんだ都市の灰色のイメージがありました。知っていることも数少なくて、アパルトヘイトとマンデラだけですんでしまう。
 メキシコに留学していたことがあるのですが、メキシコも不平等な社会で、そこの先住民の人たちが蜂起した時期で、学生同士で議論をしたとき、「そうは言っても、もっとひどい世界、南アフリカがあるではないか」と語る人が何人かいました。そのときは、南アフリカ=アパルトヘイトで、それ以上に議論は進まない。そこに比べればメキシコはましではないかということに落ち着いてしまう。
 実際、どんな世界なのか。一般化して言うのは気が引けますが、あえて言うなら、多分化社会と言えるでしょう。その"ぶん"というのは文化の"ぶん"ではなくて、分かれるという分離の"ぶん"。多くに分かれた社会。たとえば黒人と一口に言ってもさまざまな言語があります。部族または民族という言い方をしますけれど、少なくとも代表的な部族だけで11もあります。そうは言っても、反アパルトヘイトで一緒に闘ってきたのだから一緒ではないかと言いますが、実はそうではなく、かなり仲の悪いグループもありますし、アフリカ人たちが押し込められて住んでいた、広いソウェトというところでも場所によっては部族ごとに分かれていて、そのボーダーラインでときどきいざこざが起こることもありました。
 そういう中で、うまくどこの部族でも渡り歩いている部族がいます。それはシャンガーンと言います。シャンガーンというのは、どの部族からも差別されている。ですから、橋渡し的な役割をする。そのシャンガーンよりも、もっと差別をされている人たちがいたとすれば、それはモザンビークから来たシャンガーンとか、モザンビークから来た別の部族の人たちです。そういう人たちが最初にどこに入るかと言うと、シャンガーンのところです。シャンガーンの人たちを通して商売をしたり、仕事に就いたりして、だんだん上がっていくという、そういう社会もあります。それは都市の黒人の社会で、田舎の黒人の社会と言えば、先ほど写真でご覧になったと思いますが、まさにアフリカのへき地です。

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(C) Akio Fujiwara, South Africa

 「南アフリカに住んでいても、アフリカはわからない。なぜなら、南アフリカはアフリカではないからだ」と言う人がいますが、私はそうではないと思います。南アフリカには他のアフリカがかかえているものが常にあります。一番端っこまで行けば、先ほど見たようなアフリカ人たちの村社会、村落共同体がきちっと残っています。そこでは族長あるいはチーフ、彼らの下にきちっとしたヒエラルキーができていて、それで秩序を保っているのです。そういう人たちは、常に都市につながっていて、都市に出かけている黒人たちとお金のやり取りもしますし、自分の息子がある程度いい年になったら、都市にいる叔父さんのところを訪ねて、鉱山の仕事などを与えてもらい、出稼ぎに行きます。だから、つながってはいるのですが、社会の秩序は都市と田舎ではくっきりと違います。
 次にもう一つあえて分けるとすれば、白人の社会があります。白人と言ってしまうと白い人たちばかりなのかと思いますが、正確に言えばアフリカ系でない南アフリカ人という言い方が正しいかもしれません。というのは、アジア人もいるし、インド人もいる。そういう人たちも白人と私が言うのは、アフリカ人がアフリカ人以外の人を見るときに、彼らの言葉で「umlunguまたは mlungu(ウムルングまたはムルング、白人の意)」と言うからです。
 私は何年か住んでからは総称ではズールー語の「白人」と呼ばれ、時に「中国人」と見られていました。中国人と受け止められるのは、自分としてはうれしかったです。
 それは、あの土地に長年住んでいると思われることでもあるからです。中国人は何世代にも渡って住んでいます。マンデラさんが着ているようなシャツを着て取材をしていると、だいたい皆が中国人だと思ってくれます。するとこちらは、国民、住人として認められた、ツーリストとして来ているのではないと見てもらえた、彼らの中に入れてもらっているという気がするのです。あくまでもマイノリティとしてですが。
 白人の世界も、都市に住む白人と地方の白人では全く違います。先ほどの写真で見た原野のようなところにポツンと一軒だけ家があり、そこには下働きの人たちと一緒に暮らしている。気候はいいのですが、夏になりますと、すごい雷がきます。スコールがきて、どしゃぶりになり、夜7時か8時になるとパッと晴れ渡る。そういう中に一軒家で暮らしているような人は都市の白人とかなり違います。
 都市の白人は、言語によって文化が大きく違います。アフリカーナー、アフリカーンスという言葉を話す白人と、英語を話す白人がいます。英語を話す白人たちはもっぱらヨハネスバーグ(という、私が住んでいたヨハネスブルク)の近郊に多く、アフリカーナーの人たちは、英語も話すことができますが、プレトリアやそのさらに北の方に多く住んでいます。それはアパルトヘイトの影響です。
 アパルトヘイトの時代、手に職のない人たちでも優遇政策があったので官僚になることができました。一方、英語系の白人は、役人になるという面ではさほど優遇されてはいませんでした。ただし、彼らは本土とかなり強く結びついていますから、実業家やエンジニアなど技能を持った人が多かった。
 彼らはアフリカにずっと住んでいる白人であって、ヨーロッパ人とは明らかに違います。見た感じも、考え方、普段の仕事面などで、大きく4つくらいに分かれて社会を築いています。
 白人と言っても、ギリシャ人もスウェーデン人も白人です。ヨーロッパ人の場合では、それなりのコミュニティ社会を築き、壁を隔てているわけではありませんが、集まりやパーティーにでてみるとそれぞれ全く違うのです。本当にリラックスしてポルトガル料理を食べる会ではポルトガル人が多い。そういう人たちは最近到来した例えば東欧の人たちと違って、日本でいえば江戸時代ぐらいからアフリカに住んでいる。つまり、明治維新のずっと前からたまたま、そこに生まれ、そこに暮らし、そこが気に入っている。そういう人たちに「ヨーロッパ人は帰れ」と言う黒人のナショナリストは多いのですが、私には彼らがどこかに帰ることなど想像できません。
 1920年代、30年代ぐらいに生まれ、先祖はもっとさかのぼったころからそこに住んでいて、現地の言葉を使い、同時にポルトガル語を維持しているわけです。アフリカに住んでいながら、たまたま色が白くて、たまたまヨーロッパ系の血が混じっていて、ヨーロッパの身内が多いもので、いざとなれば逃げ帰る場所があるという点はあるとは思います。しかし、そこに生まれ、先ほどの写真のような原野で幼少時代を送っている。
 いずれ南アフリカについてもう少し詳しく説明しますが、今日の本題であるJ.M.クッツェーになぜこんなにこだわってきたかと言いますと、文学論をやるつもりはないのですが、ごく噛み砕いて言えば、簡単なことかもしれないのですが、結局人間は一人で生まれて、たった一人で生きて、死んでいくということを言いたいからです。
 周囲には家族もいますし、もう少し広げれば、身内、村もあり、さらには世間、社会があります。その社会が動かすものとして、政治があります。きれいごとで流れ、現実を描いていない政治、それにまつわる暴力や戦争が起き、ひどい目に遭う人も潤う人もいます。が、たった一人で生まれてたった一人で死んでいく一個人が、どこまでそういう周囲、環境、社会から自由でいられるかというのが、常に彼の作品の中に流れているテーマではないかと私はあるとき思い至ったのです。
 クッツェーの作品はいくつか南アフリカに行く前に読んでいきましたが、南アフリカに住み始め、「そうか、クッツェーは南アフリカに住んでいたのだ」とあらためて気づいて、また読み始めたのです。彼の小説、彼の描く世界から離れたくないという気持ちで赴任当初、次々に彼の作品を読み続けました。
 ちょっと横道にそれますが、作家というのは特殊な人たちだと思います。文章を通じ、自分独自の世界を創るのです。
 以前、南アフリカに暮らした英国人と日本の作家、村上龍と村上春樹の話をしたことがあります。僕は村上龍の作品はそんなに好きではないのですが、村上春樹の作品だと、内容はどうあれ、なんとなく最後まで読んでしまいます。どうしてそんなに好きなのかと言えば、彼の文章を読むと、「風の歌を聴け」を読んだ高校生の頃に感じた、彼の世界みたいなものにパッとすぐ入れるのです。最近の作品でも、あっ、この人の世界だなあと。村上龍の方は物語はおもしろいのですが、作品ごとに違う世界があります。著者名を隠されていると、誰のかわからないという作品がけっこうあります。村上春樹の場合は、数行読めば彼の語りだとわかり、「この人は作家なのだなあ」と思わせてくれます。つまり、自分の世界を提示しているのです。
 主人公の語りや情景描写などいろいろありますが、読んでいる私自身がその世界に棲みつくような感じがするのです。だから、数年後にもう一回読んでも、ぱっとかつてそれを読んだときの自分に戻っていける。クッツェーの作品にもまさにそういうところがあります。
 私自身が南アフリカを知らず、アパルトヘイトの黒人、白人がどうのこうのと考えていない時点で読んだ作品に「敵あるいはフォー」があります。本橋哲也さんの翻訳で読みました。設定はロビンソン・クルーソーが離れ小島で暮らしていて、フライデーという召使も一緒に暮らしています。フライデーは舌を抜かれているので、しゃべることができませんが、二人で暮らしています。最初の場面で、ある船の乗っていた中年女性が罰を受けてボートで船長と一緒に追いやられる。ブラジルからヨーロッパに帰る途中の船ですが、そのボートの上で船長は死んでしまいます。そこで彼女はひとりでボートに乗って、ようやくの思いで島にたどり着く。その島が、ロビンソン・クルーソーが暮らしている島だったのです。そこに描かれるロビンソン・クルーソーは、それまで私がいだいていたイメージとはずいぶん違っていました。
 彼女の独白が延々と一冊の本として続くのですが、最初の数ページを読んだだけで、その独特の着想とその女性の語り口がすぐに頭の中に定着してしまうのです。忙しくて、しばらく読まずにいて、思い出してまた読み出しても、すぐに戻っていける。もう一回読み直す必要もない。それはなんでだろう、と今でもよく考えてますが、私自身、文体研究に時間を割くことをしていないので、いまだにわかりません。言えるのは、非常に上手に書かれているということです。
 その後、彼の他の作品を読みましたが、全部でだいたい6冊か7冊しか出ていません。1940年生まれですから、今は61才ですね。南アフリカのケープタウンに生まれて、幼い頃、先ほどの原野みたいなカルーというところ、火星みたいなところと表現されるのですが、本当に何もない原野に近い土地で幼少期をずっと過ごすわけです。母親は常に彼が長男だから大事に育て、父親は彼に言わせると「嫌なやつ」です。途中から、酒におぼれだして、職にあぶれて死んでしまうような父親だった。そういう環境で育った人です。南アフリカで代々何代も住んでいた。先ほどの四つの分類で言いますと、地方に住む白人、あるいは都市に住む白人の両方をかかえているような生い立ちの人です。詳しく知りたい方は、後でコピーを配ります。新聞の6回のシリーズで、クッツェーの言葉とともにアフリカで考えるという企画をやりましたので、後で読んでいただければと思います。

199705クッツェー先生

J.M. Coetzee   (C) Akio Fujiwara, South Africa

 この世界にもう少し浸っていたいということで、彼の古い作品を全部英語で読んでいきましたが、決して古くはならない。アパルトヘイト時代の話や、それ以前の舞台だとか、あるいは全く架空の帝国が舞台になっています。その帝国のイメージというのは、砂漠の中に雪が舞い降りてくるというようなイメージなのです。昼間は暑くて、夜は雪が舞い降りてきて、一面雪の世界になって、朝になると消えている。そういうところを舞台設定にして、帝国の一番最先端のフロンティアにいる行政官の独白という形で延々と続く。彼はボーダーにいるものですから、帝国の側にもついていますし、同時に帝国から奪われる側の先住民あるいは原住民の側にも心が動かされているという、そういう立場の人間の独白が続いていく。たったひとりの人間がずっと語り続けているわけです(「夷狄を待ちながら」)。
 別の作品で一番好きなのは、J. M. Coetzee, "Life and Times of Michael K" という作品です。これは日本でも翻訳されていますが、ある朝、衝動的に翻訳したいと思いました。3時間くらい、翻訳に没頭しました。だけど、次の日にはもうエネルギーが続かなくて、それっきりだったのですが。その最初に訳した部分だけでも読ませていただきます。皆さんも、原文を辞書を引きながらでも、読んでいただければと思います。素晴らしい英語で、短いセンテンスです。最初の部分の翻訳を読ませていただきます。
 <マイケルKを母からこの世界に送り出すのを手伝ったとき、助産婦が最初に気づいたのは、彼の口唇裂だった。唇はかたつむりの足のように反り返り、左の鼻の穴は剥き出しになっていた。母にその子が見えないようにして、助産婦はその子の小さな口を突きあけ、口の中がしっかりしているのを見つけると、感謝の気持ちをいだいた。助産婦は母に言った。「あなたは幸せですよ。家に幸運をもたらすと言いますからね」。だが、母アナKは初めからその閉まらない口と、剥き出しの生々しいピンク色の肉が好きになれなかった。彼女の中で何カ月もかけて育ってきたものを思うと寒気を覚えた。その子は乳を吸うことができず、空腹のため泣いた。哺乳瓶もためしたが、それも無理と分かると母はティースプーンで乳をやり、その子がむせ、むずがり、泣くたびに、耐えられないような苛立ちを覚えた。「その口、大きくなれば閉じるようになりますよ」。助産婦は言った。だが、口は閉まらず、いや十分には閉まらず、鼻もまっすぐにはならなかった。母は仕事場にその子を連れて行った。乳児期を過ぎてからも、そうした。子どもたちの笑い、ささやきに傷ついた母は、その子を他の子に近づけさせなかった。来る年も来る年もマイケルKは毛布に座り、母が他人の家の床を磨くのを見ていた。そして、黙って過ごすことを覚えた。その奇形と頭の回転の遅さから、マイケルはすぐに学校に行かなくなり、フォーレにあるノレニウス園に引き渡された。国の出資でできたその園で、マイケルはさまざまな苦しみを抱えた不運な子どもたちとともに子ども時代を過ごし、読み書き、計算、掃除、床拭き、ベッドメイク、皿洗い、籠作り、木工、穴掘りなどの基礎を学んだ。15才の年、マイケルはノレニウス園を去り、ケープタウン市行政の公園庭園部に庭師三級Pとして所属された。そして、自分の手を見つめながら、ベッドに横たわって過ごしたニコヨン期間を経て、クリーンマーケット広場の公共トイレの夜勤という仕事を得た。ある金曜日の仕事帰り、彼は地下道で二人組みに襲われ、殴られ、時計と現金、靴を盗まれた。腕を斬られ、親指を脱臼、あばら骨を二本折られた彼は、気絶し、倒れた。事件を機に夜勤を辞めた彼は、公園庭園部に戻り、時間をかけて庭師一級となった。その顔のせいで、Kには女友だちがいなかった。一人でいるときが一番楽だった。公共トイレの白タイルを照らし、影のない空間をもたらす蛍光灯がうっとうしかったものの、二つの職を経て、彼は孤独に慣れることができた。彼が好きだったのはタカヤ松ノ木と紫クンシランの薄暗い小道のある公園だった。土曜にはときどき、正午の号砲を聞かないまま、一人で午後中働いていることもあった。日曜の朝はゆっくりと起き、午後になると母をたずねた。31才の年の6月のある遅い朝、デワ―ル公園で落ち葉を掻いていたマイケルKに伝言が届いた。二人の手を渡って届いた伝言は母からのものだった。母は退院したので、彼に引き取りに来てほしいということだった。Kは仕事の道具を放り出し、バスでサマーセット病院に向かった。母は玄関の前の、陽の当たるベンチに座っていた。母は外出着に着替え、外出用の靴を脇に置いていた。息子を見ると、他の患者や訪問客に見られないように手で眼を覆い隠して泣いた。>(注:録音からの書き起こしのため、段落なし)
 これは最初の3パラグラフです。皆さん、それぞれいろんな印象を持たれたと思います。このような語り口で延々作品が続いていきます。このマイケルKを主人公にした作品には、黒人とかカラードとかは一切書いてありません。母親が人の家の床を磨くという仕事を一生やって死んでいくわけですけど、その子どもで、しかも障害を持っていて、ずっと孤独のままの、ひとりの男。この男を主人公にして物語は進んでいく。彼自身が自分から進んで何かを変えていく、あるいは社会に関わっていくことはなくて、たったひとりで穴倉のようなところで生きていくことを夢見ているわけです。ところが、周りの社会というのは、アパルトヘイトの時代ですから、山の中などにひとりで住んでいると、ゲリラではないかと疑われ、逮捕されるのです。
 そんな中、いろんな人が彼を可哀想だと思って目をかけてくれる。彼自身はそういう哀れみだとか施しのようなものを一切拒否している。沈黙という形で拒否する。その彼が最後の最後には死ぬのですが、たったひとりになれて、誰からのしがらみもないまま、ひとりで死んでいく。クッツェーの作品はほとんど、主人公によるひとり語りの世界が多いのですが、結局最後は皆死んでしまう。たったひとりの人間が死んで、それでページが閉じられて終わるという作品が多い。
 それで、一粒の砂の中の砂のように埋もれて結局死んでいく個人たちの運命を描こうとしているのではないかなと思ったものですから、彼に会ったとき、非常に寡黙な人で、こちらが何か質問すると、ずっと黙っていて、その質問の意味を考え続けているような人なので、そのうちこちらもだんだん居づらくなってきて、何で自分はそういう質問をしたのかなと思わせてしまうような人なのです。それでも、非常に誠実な人で、こちらの思いを汲んで、言いたいことを的確に、まるで作品を書くように、無駄のない英語の言葉遣いで答える人で、「そういう個人の運命みたいなものを描いているのではないのですか?」と聞いたら、「そうです。私は個人の運命を描いているのです」と答えてくれました。それが1997年当時です。
 それから彼には毎日新聞にコラムをずっと書き続けてもらっています。その間、彼は二度目のイギリスのブッカ―賞を受賞し、日本でも「少年時代」という、彼自身は「メモワール」と言っていますが、一冊の本を発表しています。彼に会った当初、私は何ごとにも驚きながらアフリカを回っていた頃なのですが、その頃から、ちょっと考え方が変わりました。彼の影響かと思いますが、アフリカに生きている個人の世界を描こうと心がけるようになりました。
 最初の読み手は東京の、95年時点の私と同じようにあまりアフリカのことを知らない人です。その人がいろいろ直すのです。「それでどうしたの」と言われる。「それをどう一般化できるの?」とか、「見出しどころはどこなの?」と言われるのです。しまいには「何を言いたいの?」なんていうことも言われました。それでも比較的我を通して、できるだけ長いインタビューをしてひとりの人間のことを描くということをやっていたのです。結論みたいなものがないものですから、ときどき東京の方で結論を入れたりするのです。
 例えば「ここにも一つのアフリカの悲劇がある」とか、そういうふうに加えられて、それが見出しになったりする。だけど、そうなると、なんとかしてほしいという思いがあったのですが、そうは言っても不完全なものを出したのはこっちなので、文句を言えない。だけど、「ここにも一つのアフリカの悲劇がある」と言ってしまったとたんに、その個人が生きてきた軌跡と言いますか、一言で語れないものがそこにはいくらでもあるのに、そういうものが全部薄っぺらくなってしまって、しかも最悪の場合、無と化してしまう。あるいは虚構の世界、虚構と言いましても、こういうクッツェーの虚構の世界ではなくて、いわゆるありがちな"結論ありき"みたいなストーリーになってしまう。

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(C) Akio Fujiwara, South Africa


 しかし、先ほど写真でお見せしたように、南アフリカにいますと、弧絶された中で、たった一人で暮らしているような人がたくさんいますから、私自身もそういう社会でよそ者として入っていって、ひとりで考えることも多かった。そのときに、クッツェーの作品にどれだけ助けられたかと言いますと、彼が割と簡単に言い切っているような言葉でずい分救われたなと思います。南アフリカのアパルトヘイトの歴史をどう清算するかというテーマが当時のブームのようなものとしてありましたから、それについて少し触れたとき、「あ、それは政治の話ですから」と言ってはぐらかされました。結局、政治では本当の部分は描けないのではないかということを言おうとしていたのかという気もしました。
 日本にも共通点があると思いますが、アフリカは政治で語られている世界と現実の剥離、落差がある。おそらく日本よりその落差ははるかに大きくて、政治で語れば、停戦合意ということになりますが、それから15年ぐらい経っても、停戦なんて全く成立していないのが現実としてある。そうして結局、政治から離れていって、そういう現実の中で、たまたまアフリカに生まれた個人が、どんな人生を送り、どんな死に方をするのかということに興味をもって、もっぱらおじいさんみたいな年配の人に話を聞くことが多かったです。   
 だけど、そこにはそんなに深いものはないかもしれないとも思います。でも、もともとそういう個人の生活が知られていないものですから、私から見ると、とても深いものなのです。掘っていけば、掘っていくほど、話を聞けば聞くほど、どんどん最初にいだいていた偏見が崩れていく。
 実際、日本でもそうでしょうが、たった一人の人間を理解するというのは、短いインタビューでは難しいですし、長年つき合っていても、そういうところはあると思います。やはり何かの言葉で、この人はこういう悩みを持っている人だったのだなと理解することがあると思うのです。それをその人の言葉で書いたりしたときに、また最初の読者で編集に携わる人などが、「と怒りを込めた」というふうに書き加えたり、書き換えただけで、彼が言わんとしていることが逆転してしまう。まったく違うものになってしまう。実際のところ、当人は全然怒っておらず、淡々と欧州人のこととか、欧州植民地主義に対することとかを言ったりするわけですが、その「怒りを込めた」というところに積年の恨みを語ったような意味合いが込められた途端、嘘になる。実際には、そんなことのない人びとがかなり多いのです。
 とりあえずはひとりの人間の話をじっくり聞くところからしか始まらないのではないかな、と私は思い始めました。そこに性急な意味を見出さない方がいいのではないかと。だから、この人は反アパルトヘイトの代表として語っている人ですよと紹介するのではなく、その人の言葉にどんなものが込められているのか、できるだけ言葉を提示するように心がけました。
 クッツェーの作品そのものも、変な修飾はなくて、ただ淡々と描かれているのです。そうすることで個人の心理にだんだん近づいていくわけです。そんなことをどうして一生懸命するのかと言えば、きっとそれをやらない限り、その社会も国のこともわからないのではないだろうか。そう思うからです。
 たとえば、地震などが起きたとき、緊急援助などがありますが、しかしこの貧しい人たちの生活の底上げを図れ、救え、というようなことを言ったとしても、どのように救うのか、どのように人びととかかわるのかは、個人を知らない限りわからないことです。
 クッツェーには政治的メッセージもありません。時にははっきりとした結論もないまま、すっと消えるように終わる。けれども、20年も前の作品を今読んでも決して古びないのは、その当時のムードで流れていた政治性を打ち出していないからだと思います。
 人びととの連帯という考えがあります。人びとが共に一つの思想の下に運動して、人間の生きている社会を変えていこうとする考えです。そうできれば、それに越したことはないし、革命もそういうものだったと思いますが、本当にそういうことで変わるのだろうかと、ある時期から疑って考えるようになりました。
 それより、ひとりが、個人がすぐ目の前で暮らしている人間とか、そこにいる人間をどれほど理解するかというところで、段々とその人がどうなっていくべきかということに、ようやく思いが至るのではないかと思います。つまり、アフリカを総体で捉えてアフリカはどうあるべきかと考えるより、そこに暮らしている人、つまり個人の運命というところに行き着くのです。
 それで実際にアフリカ人たちがどのように考えているのだろうかというところは、次回、7月21日になりますが、そのときのテーマに引き継ぎたいと思います。
 
(以上、講演に参加した読者の方による録音書き起こし)