別府とAPUと私の4年間。
2018年3月16日、私は4年間在籍した立命館アジア太平洋大学(APU)を卒業しました。
2018年3月18日、私は4年間住んだ街別府を去りました。
時は4年前、大学受験シーズンの頃。私は実家のある東京近辺の大学の受験を検討していました。高校2年生から日本初の高校生の長期インターンシップを勝手に始めた私は、仕事を続けながら、高校生のキャリア教育について学びを深めようと思っており。
そんな中、私は九州に一人で学校を早退して足を運んだ。理由は福岡いる友人に会いたかったということ、そして別府にいる友人に会いたかったということの2点。簡単に言うと受験の息抜きでした。
その時は数ヶ月後から別府に住むなんて1mmも考えていなかった。
色々端折りますが、この時に別府に来て夕食をどこで食べるか迷っていた時に小さなお店の店主に「どこから来たの?」と聞かれて「東京です」と答えると「うまいもん食ったか?」と聞かれて「まだです」と答えたら「じゃあうちで食ってけ」と言ってもらい、人生で初めてフグを食べさせてもらいました。
お代を払おうとした時に「将来立派になったらもっと払ってくれ」と一言。ありえない破格の値段で私たちに食事をさせてくれました。
他にもバス停でバスを待っていた時に声をかけてくれたおばさんなど、人の魅力にどっぷりとハマり、帰りの飛行機で「ここに住む」と決意していました。
幸運なことにAPUにはAO入試で合格を頂き、2014年3月末から別府に住み始めました。
まあ、合格もらって引っ越すという話になりお母さんと史上最恐の言い合い諸々をしたのは今だから笑い話にできる(小声)
東京で18年間育って来た私にとって別府での生活は本当に天国のような生活で、周りからは「田舎で何もなくて不便でしょ」と言われ続けましたが、全くそんなことはありませんでした。
温泉、海、山、豊富な食べ物、美味しすぎるお酒、そして素敵な人々が溢れている町でした。
そんな中でもAPUに通えたことは私にとってとても大きな転機になっていました。
正直英語には興味ない、外国人にも興味ない、海外に行きたい願望ない、そんな私がAPUに入学をするなんて、高校の時の先生は全力で止めに入りました。先生、あの時止めに入って職員室で怒鳴り合ったけれど、私は4年間しっかりとやり切れました。
入学してすぐにASA(APU Student Ambassador)と言うものに選んでもらい、学長室直属でAPUに来た企業の方や官公の方々などをキャンパスツアーしたり、取材を受けたりすると言うことをしていました。
しかし、そこに選んでもらえたのは良いものの、研修は日本人アウェー、そして全員英語でベラベラ喋っており「あ、来る場所間違えた」と真剣に思いました。そして私は家に帰って大泣きしながらお母さんに電話したのを覚えてます。
完全なるスランプ襲来。
ただそこでお母さんが「やめたければいつでもやめて良いよ」と言ってきまして、「え、ちょっと、私は頑張りなよ、もう少しやれるよみたいな言葉欲しかったんだけど?!?!」となって、その言葉に反発するかのような感情がふつふつと湧いてきました。
お母さんのそのあっさりとした言葉が無ければもしかしたらAPUをやめてました。やめようと思ったのはたった1回、1回生の5月の話でした。
甘やかさない姿勢で育てた母親、グッジョブ。
高校時代、インターンをしていると言う理由で勉強なんか特別してこなかった私はみんなに追いつくために必死に勉強しました。本を読むのはあまり好きじゃない、英語わからない、できることは文字をつらつら書き連ねることだけ。
それでも深夜3時まで課題に取り組んだり、土日も学校にこもって勉強したりしてました。
誰が大学生は人生の夏休みと言った?大学生は人生で一番好きに沢山勉強できる毎日テスト期間みたいな感じでした。
他にも大学では映画製作やCM製作を行わさせてもらいました。
どちらも大分のPRを目的とした映画でしたが、映画はプロデューサー、CMは脚本とディレクションをやらせてもらって、どちらも沖縄国際映画祭に出品され、CMはコンペで決勝まで上がらさせてもらいました。
今まで色んなことを0ベースから作ると言うことはありましたが、目に見えて形に残るものを作る事の楽しさは間違いなくここで覚えました。
めっちゃ大変でした。
そもそも製作メンバーが日本人だけではなかったので会話するのも一苦労、地域や行政と提携をするのもまた苦労、とにかくめっちゃ大変で、製作しているときは「二度とこんなことをこのメンバーでしてやるか!」と思ってましたが、今思うとこの時期が一番充実していたし、このメンバーは最高に大切なメンバーです。不思議。
ただ、大分に住みたいという理由4年間を捧げると決めた私にとって皆さんに魅力をお伝え出来たのは最高に幸せでした。
この4年間、本当に本当に色んな経験をさせてもらいました。
一人暮らし、死ぬ気で勉強、外国人の友人とchill(APU生が使いたがる言葉ナンバーワン)、紳士服屋や別府海浜砂湯や宴会のバイト、TA、旅行、映画製作、CM製作、サークル、論文執筆(2本も共同論文書きました)、ちょっとだけ恋愛とかとか。
あー、こんな生活は東京にいたらできなかったんだろうなとつくづく思います。
女手一つで育ててくれた母も私には姉と弟がいるものの、一人大分に旅立たせてくれて、沢山心配かけたと自負してます。
それでも卒業式に来てくれて「大分に住んでよかったね」と心から言ってくれて、私の4年前の選択は間違っていなかったと思えました。
地震で被災したり、腫瘍が見つかって突然入院と手術したり、声帯が4年間で2回潰れてしまったり…と、たしかに楽なことばかりではなく、正直日々壁が立ちはだかり、それを飛び蹴りしてでも崩して越えるくらいの勢いで生きてましたが、良かったですよその生き方。周りの人に「人生楽しそう」って言ってもらえるのが何よりの幸せでした。
別府は温泉が沢山あります。山の上から海の方に下りる感じで温泉巡りをすると肌がスベスベになります。0円から1000円程度で沢山温泉楽しめます。
別府は食べ物がとても美味しいです。とり天が有名ですが、お店によって全然味が違うので食べ比べて欲しいです。あとりゅうきゅう食べてください。
別府は山が綺麗です。鶴見岳は是非登ってください。「ここ住みたい」ってなります。あと雪の時期に行く場合は雪山登る覚悟で行かないと九州なのに痛い思いをします。
別府は海が最高です。泳ぐことはあまりオススメしませんが、夏と冬の花火大会を海で見るのは圧巻です。ありがとう別府JC。
別府は飲み屋が超面白いです。居酒屋はもちろん、スナックで飲むのすごく楽しかったです。正直働いている子は友人ばかりでしたが、私が全力で酔ってもみんな助けてくれました。ああ優しい。
別府は意外と便利です。ユニクロもGUもありますし、世界のデパート トキハ別府店にはみんな大好きファッションセンターしまむらがどどどんと店を構えています。スーパーも安くてあちこちにあります。
別府はちょっと交通手段が不便です。車がないとちょっと不便。バスの本数も決して多いわけではない。山道が多いので歩くのもきつい。そんなときはタクシーを!タクシーの運転手さん、走り出して数百メートル経ってから基本的にメーター押して、目的地よりなかなか手前でメーター切るので、コスパいいです。
別府のお店は基本的に外国人が働いてます。でもここは日本なので日本語OKです。ただしマクドナルドに行くと沢山のバングラデシュ人とスリランカ人が働いていて、コーラをLサイズ頼みたくなってしまうくらい日本のマクドナルドにいる気分が無くなります。日本人以上に超丁寧な接客です。
APUは外国人ばかりです。日本語が全く話せないで来る学生ばかりです。だから英語が全く話せない子も心配しなくて大丈夫、みんなで支えてみんなで伸びます。
APUは変な人しかいません。変な人と言われることに対して笑って「そんなことないし!」と言ってしまうあなた、ようこそAPUへ。
APUは日本人にとってはなかなかアカデミックな環境です。外国の大学のようなスタイルを取っているので、他の日本の大学に比べたら卒業は簡単じゃないと思います。(国際生にそれを言うとAPUはちょろいと言われる)でも勉強するの楽しいですよ。みんなでパンゲアという勉強するスペースに集まって終バスまで勉強するの、なかなか楽しかったです。
APUは学食が充実してます。なすの揚げ出し、チキンステーキ、レバーの甘辛煮、グリーンカレー、冷やし担々麺(全く辛くない)、オススメです。店長がめちゃくちゃ料理が上手い方です。
APUは学生と教職員との関係が良い意味でも悪い意味でも近いです。だから色んな相談は出来るし、何ならめちゃくちゃ先生や職員さんと飲みに行きました。でも悪いことしたらすぐにばれます。みんなしちゃだめ。
APUは最高の大学です。話し出したら止まらないくらい沢山の思い出があります。卒業した後もすぐにAPU生と東京でSay hi!(APU生が使いたがる言葉ナンバースリー)しちゃってます。
私にとってこの4年間はかけがえのない4年間。親元を離れても沢山の大人に支えてもらい、沢山の友人に恵まれ、本当に幸せでした。
そして沢山の東京の友人が大分に遊びに来てくれました。ありがとう。
語りつくせない日々、書ききれない思い出、がむしゃらにやってきたからこそなので、後輩たちはこれからもがむしゃらに突き進んでね。
私が居なくなってなかなか大きな穴を別府にあけてきたのは自負しているので、みんなで埋めてね。(それくらい別府では色んなことさせてもらってました。お世話になりました。)
さあ、学生ブランドを捨てるときが来たようです。大学院にいつか行けたらいいなって思ってることをここに記して、別府とAPUと私の4年間は締めたいと思います。
みんな、しんけんありがとう!4年間ほとんど大分弁うつらんかったけど、大分に対する愛は誰にも負けてないけん、必ず帰るけん待っちょってな!
2018年3月31日。