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憂いの瞳

午後のニュースを目にして、愕然とした。
それは、若い俳優の死を報じるものだった。

「粗末にすると、バチが当たる」
その最たるものは、「命」である。

真相をよく知らないのに、とやかく言うのはどうかと思う。死を選択するほど、追いつめられていたのだ。もうそっと安らかに眠らせてあげたらどうだ、と言う意見もあるだろう。

それなら、なぜ、死の状況まで報じる必要がある。自死というだけでも、そのニュースを知り、ショックを受けるのだ。状況を報じることは、故人を軽んじていないか。そして、それを見聞きした人は、想像してしまう。彼の深い悲しみや、苦悩を思いやる前に。真相が報じられないなら、状況も含めて伏せて欲しかった。

私は熱烈なファンというわけではない。
けれど、彼は数多くの映画やドラマに出演している。最近は、バラエティにも出演していた。美しい彼の容姿にピタリと嵌った番組だった。


「何でもないですよ」とでもいうように、 にかっと人懐っこい満面の笑みを浮かべる。
けれど、それも束の間のこと。
また、瞳は憂う。濃い長い睫毛は、瞳と共に彼の心まで隠してしまう。
同年代の俳優の中でも、その繊細なイメージは、群を抜いている。

 もしかしたら、そういうイメージが先行し過ぎていたか。
 役をいくつも演じているので、そのイメージで見られることに、ギャップを感じていたか。
 反対に、役を演じるのではなく、憑依し、役の人生を生きていたか。
 逆に、役になり切れないのは、役と自分との考えが違うからと思っていたか。
 また、違うからとドライに割り切れない。役になり切れない自分を責めていたか。
 それとも、仕事とは全く別のところで、悩みがあったか。
 鬱傾向にあり、死をふらりと選びそうになり、踏みとどまっていたか。

 彼には、彼なりの世界があり、感性があり、考えがあり、痛みがあり、誇りがあり、自負もあり、それらの感情が渦巻いていたかもしれない。
 悩みに押しつぶされそうになり、逃げ出したくなったかもしれない。
 眠れなくて、気の休まる時間が無くて、安息の時間が欲しいと切望したかもしれない。
 凡人には、彼の思惑など、計り知れない。ましてや、近しい人間ではないのだから、うかがい知ることはできない。
 それでも、なのだ。
 ゲームではないのだから、再起動は無い。
 こんな影響力のある人は、なおさら、その選択をしてはいけない。
 それが、人前に出る人間の約束なんだ。

 なぜなら、命は預かりものだから。
 与えられたものだから。
自分勝手にしてはならない。

 彼の周りには、信頼できる人がたくさんいると思う。
 なぜ、助けを求めなかったのだ。
 恥ずかしくてもいいから、外聞など気にせず、頼れば良かったじゃないか。
 人生なんか、いい時もあれば、悪い時もある。
 どん底に思えたら、這い上がればいい。
 それが、人間の厚みになり、俳優としての味になっただろうに。
 きっと彼の友人は、助けられなかった、信頼に足る人間だと思われなかったと、忸怩たる思いを持ち続ける。
 今、辛くても、それが笑い話にできる時が必ず来たはずなのに。 

 願うことは、もうただ一つだけだ。
 安らかに。心安らかに。

 きっと今、あの長い睫毛が、おおっている。
 そのまぶたは、二度と開かれることはない。
 心を知ることもできない。
 麗しい顔《かんばせ》は、もう映像でしか見ることができない。
 そうか。彼の憂いの瞳は、ある意味、永遠になったのか。
 いや、そんなふうに思ってはいけない。
 彼には是が非でも生きて欲しかったというのが、私の本音である。 
 

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