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In Padisum 〜 イン パラディズム

物語をつづる若き友に捧ぐ

1.

 ここしばらく、初夏の陽気が続いている。
 湿度はまだ低い。
 日中は急に暑くなったりするけど、夕方になると、風が渡って気持ちがいい。

 私は近頃、この公園のベンチで過ごすのが好き。
 林は木々が生い茂る、鳥のサンクチュアリだ。
おしゃべりな鳥たちが、さえずりを交わす。
『ききみみずきん』を持っていたら、何て言ってるのか、わかるかな。

 ベンチの前には、クローバーのじゅうたんが広がる。シロツメクサが咲いてる公園なんて、どこにでもある。でも身近すぎて、誰も気にとめないんだろうなと思う。 

 私はしゃがんで、スマートフォンを構える。
ガシャッと撮影音がする。
 フレームに収まった画像を見て、ふふふと微笑む。

『白いぽわぽわ

 ちょっとだけ足を止めて、見て。
 シロツメクサの白い花が、
だんだんと妖精に見えてくるの。
 風が吹くと、
 ふるふると頭を揺らしてるみたいだから』

 コメントを付けて、SNSに投稿する。

 私のハンドルネームは千花《せんか》。
 小学校の時、幼なじみで大好きだった男の子が、千《せん》という名前だった。
 それに、自分の名前が撫子《なでしこ》という花の名前だから、組み合わせて付けた。
 私だけの秘密だ。

 私は、自分で小説を書く。千花の名前で、小説の投稿サイトに作品を投稿している。
本を読むのも大好きだ。それは、千くんの影響だ。
 千くんは、本の虫だった。学校の行き帰りに、よく自分が読んだ本の内容を身振りを交えて語ってくれた。頭の中には、ドラゴンや魔法使いがびゅんびゅん飛び回った。私がおもしろがるものだから、千くんは次から次へと、違う本を読み、披露してくれた。そのうち、私も読むようになり、2人で話が盛り上がった。

 中学に入る頃に、千くん家は郊外に新しい家を建てた。それで、中学も別々になってしまった。すっかり疎遠になり、高校も違ってしまった。今頃、どうしているかなと、時々、思い出したりする。

 SNSのアイコンに、赤い丸が付く。
 さっき投稿したシロツメクサを誰かが見てくれたのかな。
 開けて見ると、最近交流のあるtrillionさんだった。

『本当に、妖精たちが、くすくすと笑っているみたいですね』

 口元が思わず緩む。私の考えが認められたみたいで、嬉しくなる。
 フォローしている人も、フォローしてくれている人も、創作をする人ばかりだ。だから、こんな妖精の例え話をしても、誰も笑ったりしない。
 
 そして、trillionさんは、よく反応してくれる。
 どうやら私と同じ高校生の男子らしい。彼も小説を書く。そして小説投稿サイトで、作品を公開している。
 読んでみると、異世界のファンタジーが多い。
 でも私は、彼の現代の高校生を描いた作品が好きだ。何気ない日々の様子なのだ。友達と気になる女子の噂をしたり、でもどうにもならなかったり。毎日、これでいいのか? とため息をついたりする。
 更新されると、すぐに読む。等身大の悩みや切なさが感じられる。

2.

 空に浮かぶ雲が、黄金色に染まり始めた。
 trillionさんの小説の中に、こんな空の描写があった。
 あんな描写がしたい。
 そしてtrillionさんに私のことを書いてもらいたい。

 そろそろ、帰らないといけない。
 リュックを背負って立ち上がると、くらっと立ちくらみがする。
 すとんともう一度、ベンチに腰をおろす。息を整える。

 近頃、ものすごく疲れやすくなった。
 吹奏楽部を辞めたのもこのためだ。
 大好きなクラリネットと離れるのは、辛かった。
 でも、息が続かない。一曲吹き終えると、めまいがする。

 吹部仲間の早紀ちゃんに辞めると打ち明けると、目を丸くした。
「高校って、2年生の終わりまでだよ。来年になると受験勉強だし。いっしょに金賞目指そうよ」
 引き留めてくれて嬉しかった。もしかして、続けていけるんじゃないかと希望を持った。それでも、みんなとの差は歴然だ。足を引っ張るわけにはいかない。

 それに、今に部活中に具合が悪くなって、みんなに知られる。
 それは嫌だった。
私の望みは、高校生として、みんなと同じに生きることだ。
 私は、ただ体調が悪いからと告げて、部活を辞めた。

 私は白血病だ。
 2年前に発症した。
 初めは長い間入院した。治療は辛くて、何度も吐いた。髪も抜けた。
 それでも効果があり、去年は他の子と同じように高校生活を送れた。
 レベルの上がった勉強に四苦八苦しながらも、クラスメイトと電話し合って、課題をこなした。

 部活は、地区大会では銀賞だった。その時は気落ちしたけれど、イベントに参加して、野外で演奏するのは新鮮だった。野球部の応援で、スタンドから演奏したことがあった。カンカン照りの中、汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、演奏して声援を送った。
「やあん、うちらめっちゃ青春してるぅ!」
 早紀ちゃんと、日に焼けて赤くなった鼻を笑い合った。

 私は、このまま病気とさよならできるかもしれないと楽観した。体力がついたのだと、自信を持った。
けれど、今年に入って調子が崩れてきた。冬に、風邪をこじらせたのがいけなかった。先月からは、微熱が続いている。

 考えたくないけれど、考えてしまう。
 私はやっぱり『死』の近くにいる。
 嫌だ。まだまだやりたいことがある。

 「死にたい」と、軽々しく弱音を吐く人たち。
 「死ね」と平気で口にする人たち。
 そんな人たちを目にすると、憤りを感じる。

 簡単に死ぬとか言わないで。
 軽々しく命を扱わないで。
 怖いことに耐えて、必死に生きてる人がいることを忘れないで。

 生きることって、案外難しいんだから。

3.

 trillionさんが新作を公開した。
 ケーキ屋さんの娘、ゆっこが本を読むと、その物語に入り込み、騒動に巻き込まれるという内容だった。ケーキの名前をタイトルにした、連作だ。

 私の家でも洋菓子を作っているので、すぐに作品に引きこまれる。
 店内の様子や、ケーキの彩りは、目に見えるような描写だ。
 出来上がったケーキをケースに並べる、パティシエのお父さん。
 お客さんに笑顔で接する、お母さん。
 そして、特筆すべきは、匂いだ。
 工房から漂う香り。甘いバニラやシナモン。エキゾチックなクローブやカルダモンのスパイス。濃厚なチーズやミルク、バター。香ばしいナッツ。それらが、混然一体となって、鼻をくすぐる。言葉だけで、香ってくる。

 物語に入り込む状態は、まさに千くんが読んだ本を語ってくれた時とそっくりだった。
 ゆっこがパニックになりかける。すると、いっしょに巻き込まれている少年、タケルが知恵をふりしぼって、道を開く。
 そして、元の世界に戻る鍵はいつも、あのケーキ屋さんの香りなのだ。

 私は、trillionさんに感想を送る。

『いつものファンタジーに、温かみが加わった感じがしました。
 ケーキ屋さんの様子は、目の前に見えるようです。
 そして、本の中に入り込む感覚! 
 そう! まさに、この通りです。
 登場人物といっしょに体感するのです。
 きっと、trillionさんは、本をたくさん読んでいて、物語を読む楽しさをよく知っているのですね』

 すると、trillionさんから返信があった。

『楽しんでもらえて、とても嬉しいです。
 この作品は、なぜが次から次へとアイデアが湧いてくるのです。
 それで、始めは短編一作のつもりでしたが、連作にしました』
 
 また書いてくれると知り、嬉しくなる。

『それでは、これからもお話が続くのですね。
 ワクワクします。
 最近、怖いことばかりが胸によぎります。
 でも、この作品を読んでいる間は忘れていられました』

 送信してから、しまったと、焦り出す。
 怖いことなどと書いたら、何だろうと思われる。
 どうにかして、削除しようと奮闘していると、返信がきてしまった。

『何を怖がっているのですか?』

 それには返信出来なかった。
 私は、スマートフォンの電源を切る。

 うつむくと、また涙がこぼれた。

4.

 もうずっと分かってたことなのに、何でこんなに怖いんだろう。
 
 最近気に入って聴いている曲をまた再生する。
『インフェルノ』だ。
 歌詞をノートに書き出してみる。

『永遠は無いんだと、無いんだと云フ
 それもまたイイねと笑ってみる

 輝けばいつかは光も絶える
 僕らは命の火が消えるその日まで歩いてゆく』

 書いてみてわかる。

 限りがあるからこそ、今を輝かせたい。

 私は、患者としてではなく、普通の高校生として生きることを選んだ。
 病気を治す治療より、1人の人間として日常を送ることを優先させたのだ。
 そのため、私に残された時間は、きっと長くない。
 でも、簡単に残りの時間を無駄にしたくはない。

 書こう。書きたい。
 私の作品を読んで、感じてくれたら嬉しい。
 今、書かなければ。
 先送りにしている時間は無い。

 命の火が消えるその日まで歩いてゆく。

 生きてゆく。

 夜中の3時、猛烈に書きたくなって、作品を仕上げる。
 大好きな、親友の話だ。

 真保ちゃんには、障害があった。
 小学校に入ると、心無い人たちから、からかわれた。
 人を見た目でいじめる人たちが許せなかった。
 私が立ち向かっていこうとすると、真保ちゃんは「いいの」って止めた。
「私には、ちゃんとわかってくれる友だちがいるからいいの」
 そう言って、冬のお陽さまみたいに笑った。
 
 真保ちゃんは、家の中に入ってきた虫もそっと外に逃がしてあげるような優しい子だった。 
 花の名前も鳥の名前もよく知っていた。
 博士みたいだねと、私が目を丸くすると、真保ちゃんは恥ずかしそうに照れる。
「だって、名前がわかると、友だちになれるもん。道に咲いてる花も、名前を呼んでもらったら、私のことしっかり見てくれたんだって嬉しくなるでしょ」
 その時の真保ちゃんの言葉が、ずっと胸に引っかかってたんだ。

 真保ちゃんが引っ越してから、手紙をやり取りした。
 始めは1週間に1回は手紙が来たのに、間が空くようになった。
 私もうっかりして、返事が遅くなったりした。

 ある時、真保ちゃんのお母さんが家にやってきた。
 真保ちゃんが、引きこもってしまったって。心を閉ざしてしまったって。
「真保ちゃん、私を信じて。みんながそっぽ向いたっていいじゃん。世界中の人全部の想いより大きい気持ちで、真保ちゃんのことが大好きだよ。ねえ、お花の名前教えてよ。私、全然区別つかないんだから」
 長い時間がたって、真保ちゃんの部屋のドアが、そろりと開いた。

 入力して読み直していると、大きなあくびが出た。
 背伸びをして、ベッドに横になる。穏やかな眠りの波にのまれる。私は満足して、大海原で大の字になった。

5.

 入院することになった。
 検査をしてみて、私は納得せざるを得なかった。
 最近の不調は、体が訴えていたのだとわかる。

 病室の窓から見える風景が、唯一の慰めだ。
 雲の形が変わっていくのを横目でぼんやりと眺める。
 時間と共に、空の色が移ろっていく。

 夕方、ピンク色になった空にハッとする。
 いつもは、もう少し赤に近かったり、もう少し夜に近くて紺色だったりする。
 それが、今日の空は、赤と紺色が透明水彩のように混ざって溶け込んでいる。ちょうど中間の絶妙なバランスだ。

 自然てすごい。
 作為的でないのに、こんな色を見せてくれるんだもの。
 
 身を起こし、ベッドから立ち上がる。頭に重心があるように、ふらあっと傾ぐ。
 窓を開けると、柔らかな風がサラリと吹き込んでくる。
 スマートフォンを構えて、空を写す。
 色味が違うように感じる。カメラの性能が上がってきても、やっぱり人間の目で見る色が一番なのかもしれない。

 それでも、今投稿すれば、誰かと共有できるはず。
 この空に気付いてなかった人も、空を見上げるかもしれない。
「私も見てるよ!」って、その風景を見せてくれるかもしれない。
 早くしないと、空の色が変わってしまう。
 自分の操作をもどかしく思いながら、投稿のボタンをタップした。

 投稿して、間を置かずにtrillionさんから返答があった。
「僕も今、空を見ています。空は朝、昼、夜と時間の移り変わりに合わせていろんな顔を見せてくれるので、飽きません。特に今日の空の色は絶妙なピンク色ですね」

 彼も今同じ空を見ているのだと思うと、胸が熱くなる。
 ささいなことなのに、同士を得た気がする。
「そうなんです! 赤と青が溶け込んだ、絶妙なバランスの色ですよね」
 すると、すぐに返信が届く。
「これは、撫子色です。英語で撫子のことをピンクと言うのです。実は、小学校の時好きだった女の子の名前が、撫子でした」
 
 え……?
 撫子なんていう名前は、よくある名前かしら。
 花の名前だと、桃とか百合はよくあるかもしれないけど、周りに撫子はいない。
 きっと、よみがなが4文字になるからだ。でも向日葵とか、桜子とかはある。

 私は、何て返信しようかと考える。
「名前がピンクって、いいですね。大和撫子って言いますしね」
 返信が来ない。ピント外れだったと落ち込む。

 でも、もしかして……と考える。
 自分のことかもしれないと、うぬぼれる。
 もしかして、trillionさんは、千くんじゃないだろうか。
 好きな女の子と書いてあったのを思い出し、頭がかあっと熱を帯びる。
 私は慌てて『trillion』の意味を調べる。『一兆』だ。
 すると、千くんが昔、言っていたことがよみがえる。

「『千』て、中途半端だろ。千円札なんて、少年ジャンプ買ってアイス買ったら、小銭になって、あっと言う間に無くなる。親もさあ、どうせなら『一兆』ぐらいの名前つけろって」

 千くんだと考えると、小説のエピソードの一つ一つがすとんと腑に落ちた。
 ケーキ屋さんの様子をよく知っているのは当たり前だ。
 よく、いっしょにお店番したもの。

 今度はtrillionさんが写真を投稿していた。
「これは、僕の大好きな景色です」
 坂道の写真だった。その中に見知った看板をみつける。
 私は、あっと声を上げる。そこは、千くんと毎日歩いた、通学路にある坂だ。私は返事を入力し、想いを込めて送信する。
「これは、だらだら坂ですね」
 千くんなら、きっと気付いてくれると思った。
 

6.

 体調は思わしくなかった。
 吐き気はするし、足には力が入らない。
 意を決して入院したのに、どういうこと? となじりたくなる。
 実際、イライラして、お兄ちゃんに当たってしまった。

 ベッドに横になって、SNSのつぶやきを読む。
 私は、この間から決めていることがあった。
 フォロワーさんが100人になったら、大切な告知をする。
 そろそろ、今日あたり100人になる。私は、文章を考えた。

『いつも私の作品やコメントを読んでくださっているフォロワーの皆様に、大切なお話があります。
 私は、2年ほど前から「慢性リンパ性白血病」を患っております。
 病気のことは、家族しか知りません。公開を決断するのには、時間と勇気が要りました。けれど、この先も前を向いて生きていくために、この秘密を公開しようと決めました。
 小説が好きで始めた執筆活動が、今では私の大切な居場所となっています。そして同時に、小説を通じて私の想いを皆様に伝えたいという気持ちも強くなってきました。私は、残りの時間をこれまで支えてくださった方への恩返しに使いたいと思っています。
 皆様にお願いがあります。病気のことを公開しましたが、今までと変わらずに、接していただきたいのです。私もこれ以降、話題にするつもりはありません。
 私は、執筆活動を続けます。作品を読んで、何か一つでも私のメッセージを受け取ってくださると嬉しいです。これからもよろしくお願いします』

 深呼吸して公開する。どんな反応があるか、ドキドキする。
 けれど、みなさんは、とても優しかった。
「想い、ばっちり届いたよ」「すごく勇気がいったね」「小説待ってるね」
 たくさんのメッセージをもらった。その一つ一つが心に響いた。
 素敵な人たちと出会えて、本当に良かったと感謝した。


7.

 病室のドアがノックされる。それは、遠慮がちな音だった。
「どうぞ」
 引き戸が静かに開いて、入ってきたのは長身の男の人だ。ぎくりとして、一瞬身構える。けれど、すぐに力を抜く。
 その人は緊張しているのか、青ざめた表情をしている。面長になったけれど、目元は子どもの頃のままだ。
「千くん?」
「ああ……うん。久し振り。えっと……何て言うか……」
 椅子をすすめると、うん、と言って座る。千くんは、何度も手を組み替えている。昔からそうだ。何から話そうか考えている時の癖だ。
 偶々うちの店に来て、入院しているのを聞いたわけじゃないだろう。千くんはやっぱりtrillionさんで、私が千花だということを知っている。でも、あえて聞いてみる。
「どうしてここに来たの? 入院してるって、誰にも言ってないんだけど」
 千くんは、下唇をかんでいたけれど、目線を上げて話し出す。
「えっと……僕はtrillionて名前で小説を書いてる」
 やっぱりそうなんだ。
「うん」
「前から千花さんの作品は気になってた。つぶやきにも注目してた。何だか撫子が重なるなって、ずっと思ってた。それでこの前、ピンク色の空の写真を見た時、撫子の名前を出した。坂の写真も投稿した。返事がきて、やっぱり撫子だって思った」
「……何でわかったの?」
 自分の声が、震えていると思う。千くんは、身を乗り出す。
「坂の名前、本当は椿坂っていうんだ。でも、だらだら続いて、歩くと汗がだらだら流れるから、だらだら坂だろって、僕が言ったんだ。そしたら、撫子もそうだそうだって、うなずいて。だから、あそこをだらだら坂って呼んでたのは、僕らだけだ」
 その時のことは、ちゃんと覚えている。
 
 千くんの表情が改まる。
「告知を読んだよ。びっくりして、撫子ん家に行ったんだ。始めは真吾さん、とぼけてたけど、告知文を見せたらわかったって言って教えてくれた」
 ああ、お兄ちゃんには黙ってたのに。
「ずっと撫子のことは、忘れていなかった。小説は、撫子をモデルにして書いてた。これからも力になりたいんだ」
 千くんも忘れないでいてくれた。
 目の辺りがじわりと熱くなる。
 でも……でも。
 trillionさんが千くんかもしれないと思って、千花は私だと気付いてほしかった。会いたかった。告知をすれば、trillionさんが知ることはわかっていた。
 でも……でも。

 私は涙が見えないようにぬぐう。
「私はね、trillionさんを利用したかっただけ。あんな素敵な物語を書く人なら、私の小説を書いてくれるだろうって。選んだ理由はそれだけ」
「書くよ。毎日だって、ここに通って書く」
 私は、考えを巡らす。
「撫子色に染まった時の空を切り取って、ベールにして持ってこれたら、ここに来てもいいわ」
「撫子色のベールだな。見つけてくる」
「見つけてくるんじゃ、だめだよ。本当に空を切り取らないと」
 千くんは、困った顔をする。
「そんなこと、できないだろ」
「できないんだったら、帰って」
 私は横になり、掛け布団を頭から被る。
 そのままじっとしていると、しばらくして、靴音と静かにドアの閉まる音が聞こえた。

8.

 右目が見えなくなった。心因性の網膜剥離だった。
 でも、大丈夫。まだ左目がある。
 今のうちに綺麗なものをいっぱい見ておこうと思った。
 SNSで呼びかけると、みんなが思い思いの写真を送ってくれる。
 それを一つずつ、じっくり見る。想いが伝わってきた。

 千くんが小説を書いてやってきた。
「ベールは?」
「ちゃんとある」
 私に原稿をくれる。読み始めるが、片目では辛くて読めない。
 すると、昔のように、千くんが語ってくれる。
 それは、私の物語だった。

「撫子からの執筆依頼は、もう何年も前にもらってたからね」
「え? 私、そんなこと頼んだ?」
「覚えてないのか? そもそも、僕が物語を書き始めたのは、撫子に言われたからだよ」
 ああ、あの時のことね。記憶がよみがえる。

 あの日、いつものように帰り道のだらだら坂で、千くんが本の話をしてくれていた。
 それが、いつになく途中で止まってしまった。
「あれ? この続きって、どんなんだったかな」
 千くんはうんうんと悩み始める。
 どうせ私は知らないんだし、違う続きにしたっていいじゃないか。
「ねえ、千くんが考えた続きでいいよ」
 千くんは、何言ってんの? とばかりに、きょとんとした顔をする。
 それから、手を横に振って、ダメダメと言う。
「お話を勝手に変えたら、ダメだよ。それに、そんなの思いつかないよ」
「どうしてえ? 私にだけなら、いいじゃない。それにあんなにお話読んでるんだから、ちゃちゃっと思いつくって」
 私は早く聞きたいのと、汗が流れてきたので、ぞんざいな言い方になる。
「お話作るのって、大変なんだぞ。撫子こそ作れるだろ。作文得意なんだし」
「えー! 私も?」
 そんなやり取りをしているうちに、我が家のケーキ屋の看板が見えてきた。
 そこで、ハッと閃く。
「千くん、ちょっとお店で待ってて」
 私は、ただいまーと言いながら、工房に顔を出す。
 お父さんは、おかえりと私の顔を見て、また作業を始める。
 お母さんもやってきて、手を洗ったの? ほら、向こうに行ってと、工房から追い立てる。
「ねえ、お店に出すチーズケーキを一切れほしいの」
「千くんに? おやつなら、奥にあるわよ」
「違うの。それでないと。お金は、私のおこづかいから引いてくれていいから」
 私はできるだけ、まじめな顔をする。お母さんは私が何か企んでいると察したのか、わかったと言って、お皿にチーズケーキをのせてくれた。

 私は千くんを奥へ招き入れ、目の前にチーズケーキを出す。
「うわあ! チーズケーキ! でもこれ、お店のでしょ?」
「いいの。今日は特別なの。食べて」
「うん……いただきます」
 千くんは始めこそためらっていたけれど、だんだんと一口が大きくなる。
「千くん、おいしい? チーズケーキ大好きだもんね」
「うん。特に撫子ん家のケーキは大好き」
 千くんは、とろける笑顔になる。
 私は、全部食べ終わったのを見計らって切り出す。
「食べたよね。それは、私がおこづかいで買ったケーキなの」
「え!? 少年ジャンプと同じくらいするんだよ!」
「そうだよ。だから、千くんは私のお願いを聞かないとダメなの。千くんは、お話を書く。それも、私を主人公にして、書くんだよ」
 千くんは、えー! っと大きな声を出してのけぞる。
 お母さんが、戸口で大笑いしていた。

 私は思い出して、ふふっと笑う。
「ああ……チーズケーキね」
「そうだよ。僕はチーズケーキ1切れで、買収されたんだ」
「もお、人聞きの悪い。正式依頼って言ってよ」
 律儀な千くんは、それから物語を作るようになった。それでも、まだ見せられないと言って、なかなか処女作は拝めなかった。
「ほんとに書いてるの?」
「書いてるって! 嘘じゃないって!」
 すると、創作ノートを見せてくれた。鉛筆で書いてある。二重線で消したり、矢印で引っ張ってあったりした。
 その苦労しているノートを見ていると、ムズムズとお腹の底から力が湧いてきた。
 その日のうちにノートを買い、私も物語らしきものを書き始めた。
 千くんが執筆を始めたきっかけが私なら、私が始めたきっかけは千くんなのだ。

「チーズケーキって言ってたら、お父さんの食べたくなった」
「ああ、おじさんのチーズケーキは絶品だもんな」
「想像するだけで、匂いがする」
「しみついてるんだろ」
 そう。記憶に刻み込まれた、あの豊かな香り。いつだって思い出せる。

「撫子の話、もっと書くよ」
「みんな読むね」
 千くんの書く物語の中で、私は生きる。
『永遠はない』と歌っていた。
 けれど私は、永遠に不滅になる。
 これからもみんなの中で、私は生きる。

「ところでベールはどこにあるの?」
「目をつむって。顔をこっちに向けて」
 千くんが私の頭を持って動かす。
 すると、まぶたに光が透けて、ピンクに見える。
「ああ、見えたよ。千くん。うん、ちゃんと見える」 
 それは、私に血が通って、生きている証だった。



私はどうなったのだろう。
初めは夢の中だと思った。
けれど、どうやら違うらしい。
だって、そばにいる人の背中には大きな翼がついているもの。

輪になって歌う人たちの背中にも、翼がある。
その清らかな歌声に、心は穏やかに凪いでいく。

私は今、天国にいる。

In paradisum
deducant
angeli

Finis

 

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