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映画は、光を浴びる時間


10年前に、自宅の一室にシアターを設けた。
壁にスクリーンを提げ、本棚にプロジェクターを据え、スピーカーから音を出す。あとはDVDプレイヤーやインターネットを繋ぎ、横たわれるソファを置けば完成だ。
初めて映像がスクリーンに投射されたときには、ちょっとした感興を覚えた。テレビ画面とは比較にならないサイズ感、光が部屋を横切る物理的な手ざわり、ズンと胸に響くスピーカーの重低音。これはもう「れっきとした映画館」だった。

初期費用として数十万円を投下したけれど、最初の数年で1000本以上の映画を鑑賞したので、十分元は取れた気分だった。(今ならもっと安価なプロジェクターが出ているので、ずっと手ごろにシアター構築もできると思う)
家にシアターをこしらえなければ、ここまできちんと映画を観ようとは思わなかっただろう。大人になってから、それだけの時間を持てたことは純粋に喜ばしい。

ホームシアターは、家に「人を呼ぶ理由」にもなりえる。
物珍しさに加えて、アルコールを片手に自由に映画をシアター環境で観られることは大きい。(いつでも気ままに一時停止もできるし、喋りながら観ることもできる)
友人たちにはあらかた声をかけ、おすすめの映画上映会もずいぶん執り行なった。映画の愉しみは空間も含んだ「イベント」としての総体にあるとつくづく感じさせられた。

そして、「映画館」とは、スクリーンサイズよりもまず、「光が部屋を通過する」ことが第一義ではないかと気づかされた。
たとえどんなに巨大なディスプレイがあったとしても、その表面だけで光って瞬いているかぎり、それはあくまでも「大画面」に過ぎず、「映画館」という感じはしないだろう。

映画は発光なのだ。
所定時間、画の前にいて「光を浴びる」行為に他ならない。
スクリーンに青い海が映し出されるとき、鑑賞者は青い光を全身に照射されている。全身でそれを感知するためには、発光体(スクリーン)が自分自身の肉体よりも大きい必要もあるように思う。

『歩いても歩いても』の晩夏の陽光。『パルプ・フィクション』のLAのギラギラした光。『気狂いピエロ』の地中海の燦めく青。光を浴びるということ自体に、(内容以前に)映画としての満足感が備わっていると言うのは、言いすぎだろうか。
ぼくは、部屋に特別な光をもたらしてくれる映画を求めて、今日も作品を探している。


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