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【情報センター後編】「THE DAY」 1989.1.7 何を考え、何をしていたか?

アメリカのある新聞社が、1988年国民に「あなたはジョン・F・ケネディ暗殺の時、どこで何をしていたか憶えていますか?」とアンケートをとったところ、90%がはっきり憶えていると回答した。暗殺から25年目だった。
今、日本人は「1989.1.7」は、何の日か聞かれても正答率はどの位だろうか?33年目、おそらく1%に近いのではないだろうか。では、4.29の祝日は何の日?これは正答率は高いだろう、「昭和の日」。そう、昭和天皇が十二指腸がんでお亡くなりになられた時。宮内庁報道は「崩御」を使用したが、労連などは報道において使用しないように申し入れたりして、「昭和」時代への様々な思いが相乱れた。

TOKYOでないと意味がない

情報センターは、この日この時を「写真」で記録することに総力をあげた。もちろん、出版局が中核。取材地は東京。冨田社長は「取材地は国内であればどこでもよいとは考えない。日本の中の東京、いや世界の中のTOKYOでなければ意味はない。できるだけ多くの人がいてほしい」と言った。「昭和」という元号で区切られた時代の中身、みんながみな同じ哀しみ方をしたわけではない、国内外の映像で映し出される「悲しみの街」の報道の奥行きが十分でないであろうことを指摘した。企画意図を引用しましょう。

世界の国々と相互理解を推し進めなければならないとき、わたしたちは一方的な表現のされ方を恐れる。一億二千種以上の個々の日常は、先に概念があって描けるほど単純ではなく、ずっとずっと新鮮で生々しいものである。それをはっきりさせるためにも一人ひとりが、1月7日に「何を考え、何をしていたか?」を記憶にとどめ置く必要があるだろう。

「THE DAY IN TOKYO」冨田耕作 あとがき 情報センター出版局
「THE DAY 」 (株)情報センター出版局発行 1989年

「取材地は東京」とはいえ。この日の前に、星山さんからのメッセージが大阪の方へも届いた。この企画は、歴史的にも記録される日となるため、京都・大阪の写真を撮って出版局へ送ってほしいという依頼だった。もう記憶が薄いが、営業がインスタントで撮影して回った。結果、それが活用されたかどうかわからないが、京都御所・梅田・新地・曾根崎・道頓堀・心斎橋・ナンバ・戎橋筋の写真が掲載された。

1989.1.7 私は何を考え、何をしていたか

大阪福島区の印刷会社で、情報誌の遅くなった最終の校閲を行っていた。ラジオから美空ひばりの歌が聞こえてきた、曲は忘れたけれど、誰かリクエストしたのだろう。はぁ、これで「昭和」が終わりかと思っていた。目の前の最終ゲラチェックが大事で、特に感慨はなかった。今頃、営業の一部は走り回っているだろうなとは思っていた。
長く社会的矛盾と全体主義信奉の相剋の時代であった。87歳、在位は過去最高の62年。新元号は「平成」となった。大日本帝国を率い敗戦、GHQの思惑で、戦争責任を便宜的に免れ、新平和憲法下の「象徴」。「象徴」とはどういう生き方をするのか、これが次の平成天皇(明仁さん)の終生の課題となった、「昭和」から架せられた十字架であった。それは平成天皇のみではなく、多くの無辜の民も同様であった。原爆被害者、沖縄戦の犠牲者、空襲被害者、無残な特攻犠牲者、アジア太平洋の現地民の被害者と残された者達。高度成長の経済優先政策に伴う公害被害や貧富の差や勝ち負けの排除の論理。昭和において解決されない課題が、平成へと持ち越された。どう考えてどう生きるのか。下版したあとは、ゆっくりそういうことを考えた。
1月7日、8日は自粛。ネオンは消え、催しものは自粛、半旗掲揚、日雇いの仕事はなくなった。報道は、皇室話のみ、娯楽番組自粛。全く味気ないものになった。

次へ

しばらく経って花博が終わり、それから役員に呼ばれ、再び営業へ戻ってこいと言われた。しかし、稼ぎは期待できなかったので、次の収入の道を探し、情報センターを去った。
バブルは曲がり角を回る時であり、求人誌の束(ツカ)も時代を受けその後だんだん薄くなった。この後、情報センターも出版局も働いている皆も大変なことになったが、詳細はわからない。

しかし、「昭和の十字架」は、平成がおわり、令和まで持ち越される結果となったな。この問題は、別に書評として書きます。
大阪も、70年万博のすぐ後にはオイルショック、花博のすぐ後にはバブル崩壊、時代のながれにことごとく裏切られている。流れを読めないことを横においておいて、そのたびごとに政界・経済界は「関西の起爆剤」と口にして税金を使うがうまくいったためしがない。次の万博後はどうなるか。
「昭和」は良かったな、では終わらないよ。


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