早川書房に見捨てられた三部作たちについて

 アメリカ人はとにかく三部作 (Trilogy) が好きだ。とくに SF やファンタジーの長編は三部作として計画されているものが非常に多い。売れたから続編を出す、というようなことではなく(そういう場合もないわけではなかろうが)、作家も出版社も三部作として長編を計画する。猫も杓子も三部作で、いまどきの作家のウェブサイトとかみにいくと、既刊一覧のページでは Trilogy では "ない" やつが Stand-alone novel として別に記載されていたりするくらいだ。

 ここでいう三部作というのは、設定やキャラクターを共通するが(その共通の程度はいろいろあるけれども)、基本的には別の起承転結を持ったみっつの長編小説のまとまりのことを指す。たんにひとつのストーリーが三巻に分割されているものは三部作とは呼ばない(とはいえこの区別は厳密なものではなく、境界例もあることだろう)。

 なぜ三部作か。いろいろな理由を聞いたことがある。世界観構築に手間がかかる SF やファンタジーでは、せっかく作った世界観で何作か書いたほうが費用対効果がよい。読者のほうにも慣れ親しんだ設定やキャラクターでちがう物語が読みたいというニーズがある。かつ、ミステリであれば新しい事件を起こせば原理上無限にシリーズを続けられるが(三部作のミステリも多いけど)、たいていの場合この世界の秘密が暴かれる!とかこの世界の危機が!みたいな大げさなことをいう SF やファンタジーでは、続けられても三作が限界になってくる。三冊あれば導入、展開、結末に割り当てられる(アリストテレスじゃないんだから……)(ていうか一冊でやれよ)。あとは、SF やファンタジーの文字数は基本的に配本の形態に影響される(昔はパルプ雑誌に掲載されてたから短篇が主体で、次第にまともな書店に並ぶようになってハードカバーが出るようになるとある程度の単語数が必要になり……みたいなやつですね)が、いまは電子書籍がメインだからいくらでも文字数を盛れる。 とかなんとか。たしかに昔の SF は短くて面白かった。いまの SF はダラダラしててけしからん。喝!

 けっきょくのところ、小説はある程度以上長くないと売れないが(短篇小説なんか好んで読むのはクソキモのオタクだけである)、シリーズ化して長くなりすぎると売れ行きの予測が立たないし、作家としても質を担保するのが難しいだろうし、途中で読者の好みや流行も変わってしまうだろうということで、売り上げの期待値を最大化しつつプロジェクト管理の手間が釣り合うあたりが長編みっつ、ということになるのだろう。

 で、わたしは三部作という形態がきらいだ。そもそも個人的な好みとして、小説は原稿用紙五〇枚から二〇〇枚くらい(文庫本でいうと三〇から一五〇頁くらい)がいちばんいいと思っている。というより、これ以上の長さの小説は根本的になんらかの複雑さ――ふたつ以上の起承転結、サイドプロット、テーマの組み合わせ、とか――を含まざるを得ないが、その複数の要素の組み合わせはなんらかの計算に基づいているべきであって、その計算ができる作家ならともかく、ただただ長編小説の体裁を整えるためだけに単なる足し算をする作家があまりにも多いのだ。で、三部作は長編がみっつなわけだからより悪い。しかも、三部作ともなれば人生のうち一〇時間とか二〇時間をその作品に登場するキャラクターたちと付き合うことに費やさなければならないが、そんなに長い時間を共にしたいほど好きになれるようなキャラクターがほとんどいない。三部作という形態ありきで、物語にそうする必然性があんまりない場合が多い。一作目がつまらなくても三作目まで読むと面白い場合があってめんどくさい(その逆もまた然り)。続刊が出るまでのあいだに話や設定を忘れてしまう(これはただのシリーズものでもおなじだが……)。一作目は一作目で起承転結を備えた一冊の小説として成立しているのに、三部作ぜんたいで帳尻を合わせるためにそこでは明かされない設定があったりしてイライラする。そしてなによりムカつくのが――これは翻訳ものに特有の現象として――訳された一作目を読んだのに一向に続きが訳されないことがある。は?

 本国でまだ出てないならしょうがない。一作目を訳してから本国で二作目が出たけどそんなにクオリティが高くなかった場合も紹介を控えるのはわかる(レベルが低いものまでわざわざ訳す必要はない)。でも、一作目を訳したときにはすでに本国で続刊が出ているのにそれを訳さないっていうのは……どういうわけ?

 いや、(とくにミステリの)シリーズものでもぜんぶ訳されないのはよくあることじゃん、というのもわかる。でも、シリーズものは基本的に終期が確定していないから、途中で事情の変更があったり、本国でも打ち切りになったりして、やむを得ず紹介が途切れてしまうのは理解できる(ぎゃくに完結済みのシリーズを紹介するときにその一部しか紹介しないのはよくいみがわからないが)。ミステリのシリーズならそれぞれの独立性が極めて高い(であろう)から、面白い巻だけ紹介するというのもわかる。でも、一定以上のまとまりを持っていて、たいていの場合きちんと三冊出て(そう、三部作を計画する作家ってだいたい完結させる。これはえらいことだと思う。)、っていうことが明らかな三部作を、なぜ一作目だけ紹介して放置するのだ?

 そんなん一作目訳して出したけどぜんぜん売れなかったんだからしょうがないじゃん――出版社はそういうであろう。出版だって慈善事業ではないし(待遇面からすれば作家も翻訳者も慈善みたいなもんだが……)、もちろんそうなってしまうのはわからないでもない。でも、一作目をわれわれが買わないのは――どうせ出版社が続きを出さないと予測しているからなのだ。三部作の一作目を買って、もしそれが面白かったら、でもあんまり売れなくて続きが訳されなかったらどうする? そんな哀しい思いをするくらいなら買わないほうがよい。さいわいにも出版点数は増大し続けていて(業界の規模は縮小してるのにね)、読む本は選び放題だ。

 さらに腹立たしいことに出版社は三部作の一作目だけを訳すときにあらすじや近刊案内でそれが三部作の一作目であることを明記することはあんまりない。読んでからあれ……なんかこの話中途半端じゃない?と思ったら、あとがきで訳者が「本作は ~~Trilogy の第一作で、本国ではすでに第二作の~~が出版されており、今年 n 月に物語を締めくくる第三作が刊行予定だという」みたいなことを書いているのだ。ハァーッ。三部作って明言したら買い控えられるのをわかってるとしか思えない。三部作と明言せずに一作目を出してみて、売れたら続刊も出そうかな♪みたいな姿勢やめてくれませんか?(でもウエスターフェルドやティドハーが売れたとは思えない(周りで読んでるひともあんまりいなかったし、あんまり面白くなかったから……)のにかれらは三部作完結まで翻訳されているので、事情はぜんぜんちがうのかもしれない。)

 そういうわけで以下では早川書房が翻訳出版した SF の三部作のうち、紹介が途中で止まっているものを挙げる。わたしが知っている限りなので、網羅的なリストではない。とくに、タイトルに宇宙軍とかなんとか艦とか書いてある系は守備範囲外なのでまったくわからない。三部作じゃないやつ(四作以上とか、三作だけど三部作じゃなくて分冊とみなせるやつ)は外しているが、このへんは主観的な判断だ。たんにまだ翻訳されてないだけでたぶん続きが出そうなやつも挙げてない。これも原著刊行年とかから妄想した希望的観測だ。

 なぜ早川書房がやり玉に上がるかといえば、かの出版社が翻訳 SF とファンタジーをよく出している(そして三部作の途中で紹介をやめる)からであって、なぜ東京創元社がやり玉に上がらないかといえば、けっきょくさいごには『ブルー・マーズ』を訳してくれたからだ。まぁ創元も創元で『墓標都市』とか『時を紡ぐ少女』とか続刊を出さなかった三部作はわりとあるのだが。

ハンヌ・ライアニエミ『量子怪盗』『複成王子』
→The Causal Angel (2014) が出てない。
・そもそも量子怪盗の時点で造語が多すぎてストーリーがぜんぜん頭に入ってこなかった。訳されても読まないと思う。

マデリン・アシュビー『vN』
→iD (2013), reV (2020) が出てない。
・ぜんぜん面白くなかったから訳されても読まないと思う。ふゆの春秋の絵は好き。

パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』『シップブレイカー』
→The Drowned Cities (2012) が出てない。
・面白かったから訳されたら読むと思う。

ジョン・スコルジー『星間帝国の皇女 ―ラスト・エンペロー』
→The Consuming Fire (2018), The Last Emperox (2020) が出てない。
・読んだことない。でもスコルジーだから平均点的に面白いんだろうな。

フォンダ・リー『翡翠城市』
→Jade War (2019), Jade Legacy (2021) が出てない。ほかに短編集と前日譚もある。
・中華風ヤクザやさん抗争ファンタジーで、面白いかといわれるとひまつぶしってかんじだが、出たら読むと思う。でも好きキャラが一巻で死んだんだよね。

マーク・フロスト『秘密同盟アライアンス』『秘密同盟アライアンス 2』
→Rogue (2015) が出ていない。
・出してくれ! なろうナイズされたハリポタってかんじ。同盟アライアンスはマウントフジサンじゃん。

デレク・クンスケン『量子魔術師』
→The Quantum Garden (2019), The Quantum War (2021) が出てない。
・読んでない。ライアニエミとタイトル被ってるが原題通りなのでしょうがない。

フランチェスカ・ヘイグ『アルファ/オメガ』
→The Map of Bones (2016), The Forever Ship (2017) が出てない。
・読んだ記憶があるのに手元のメモに読了記録が残ってなくてなんだっけと思ったらそういえば途中で読むのやめたんだった。オメガバースは関係ない。

ラメズ・ナム『ネクサス』
→Crux (2013), Apex (2015) が出てない。
・上下だから買ってなかった。面白いのかな。

チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』
→The Scar (2002), Iron Council (2004) が出てない。
・わたしが一番許せへんのはこれ~~~!! Trilogy の定義に当てはまるかはやや微妙だが……(Bas-Lag シリーズは世界観は共通しているがストーリーはたぶんつながっていない)。

 こうやってみると新銀背がとくに迷走している。シオドラ・ゴスもどこまで出すんだかわからないし、ンネディ・オコラフォーもどうだか。おなじハヤカワでも FT 文庫はかなり面倒見がよく、シリーズを途中でほっぽり出すことがすくない。邪空の王とかは打ち切りだけど……。これはファンタジー読者のほうが SF 者よりもお行儀が良いから……ではなく、ファンタジーの三部作とかシリーズものは SF より連続性が高いことが多いからだと思う。NV の軍事サスペンス系とかはよくしらない。でも官能小説とミリタリーのオタクは中身とかあんま気にしないでお金払ってそうだし、きっとシリーズもの耐性も高いのではないか。

 今回は三部作に話を限ったが、シリーズの最初しか出してないやつ(いっぱいある、ウェン・スペンサーとかウィル・マッカーシィとか蒲公英王朝期とか。てかボーンシェイカーってあんなに続いてたんだね)、途中しか出してないやつ(ジャック・ウォマックのアンビエントシリーズとか。これは黒丸尚が生き返らないと無理だろうが……)、二部作の最初しか出してないやつ(火星夜想曲とか)……うーん。まぁこのへんはもういっても仕方ない。翻訳文芸ってそういうものだ。

 そうはいっても完結してる三部作もいっぱいあるわけだし(でもピーター・トライアスみたいなゴミを完結させてどうするんだよ)、そもそも訳されなければ続きがでないみたいな嘆きすら出てこないわけで、……と思ったけど、それはそれとして三部作であることを隠して続刊の保証なく出す手法だけはほんとうにやめてほしいと思った。売れ行きによって続刊を出すかどうか決める戦略を取られると、周囲の読者とのあいだで囚人のジレンマが発生することになり不愉快だ(わたしが買い、まわりも買うことで続刊が出るのがベスト、わたしもまわりも買わないことで続刊が出ないのが次点、わたしだけが買い、まわりが買わないために続刊が出ないのが最悪のシナリオ)。

 以上です。とくにオチはないです。わたしがいちばん好きな三部作はチャタヌーガ三部作です。次点でウィルスン・ウー三部作。それではみなさまごきげんよう~。







 以下はおまけ。素人の聞きかじりだから情報が正確ではないと思う。
 
 アメリカでは 1979 年に Thor Power Tool Co. v. Commissioner という裁判が行われた。これはどういう裁判かというと、売れ残りの在庫を売れ残ったからという理由で棚卸資産評価減を行っていた会社が「いや欠陥があったりするわけでもないのに評価を下げるのはおかしいっしょ」とアメリカの国税庁から怒られたというものだ(税務と財務の違いみたいなあれなんですかね)。ようするに出版社は節税のために売れ行きの悪い在庫はさっさと処分しなければならなくなったということだ。書籍は原価に比べて売価が高いので、そんなものをあまり長く在庫してても損になってしまう(棚卸資産にも課税される?ため。州にもよりそうだが……)。というわけでそれ以来アメリカの出版社は多様な本を少部数、低価格で長期間在庫からちびちび売るよりは、少数の売れ筋を高額でサッと売る戦略に切り替えたというのだ。

 こうしてアメリカの出版社は売れっ子作家の Trilogy やシリーズものに注力し始めたというわけ。ほんとかどうかはわからないがやや説得力がある。とはいえアメリカのオタクも「数百ページ × 3 巻のシリーズに手出すのは勇気いるよ~」とか「嵩増しの描写がない本を読みたいよトホホ」みたいな泣き言をいっているのでかわいそうではある。