『わたしたちの怪獣』その他

中西鼎『たかが従姉妹との恋。 2』(ガガガ文庫)
 キャラが多すぎる!
 一巻ですでに年上の従姉妹、同い年の従姉妹の双子、とくに従姉妹というわけではない同級生の女子がヒロイン候補としてでてきたのに、二巻で年下の従姉妹と年下の女子小学生の従姉妹を増やすやつがおるか? しかも年下の従姉妹たち、2 巻ではあんまり話に絡んでこないし……。
 キャラやシチュエーションを用意してから継ぎ接ぎして話を作っているようにみえて、物語全体としての結構が整っているようには全く思えない。著者はラノベ畑の出身ではなく、そのため改めてラノベの文法を勉強してこれをやっているそうだが、過学習なのではないか。
 

青木知己『Y 駅発深夜バス』(創元推理文庫)
「Y 駅発深夜バス」
 犯行計画に無理がありすぎる!
 幻想的な謎を用意するとこまではよかったが、解決も動機も無理があるくせに陳腐でちょっと興ざめだ。
「猫矢来」
 これも登場人物たちの行動にハテナが浮かびすぎる――だってそれはぜったいに教えてあげた方がいい――とはいえ、小説としては気分よくオチてるからまあいいか。
「ミッシング・リング」
 この犯人当てのどこが面白いんだ……? 木製の王子しょぼい版みたいな。しょうもない謎がしょうもないロジックで解かれてしょうもないツイストが二回あった、以上。というかんじ。
「九人病」
 やや面白かった。現代のインターネットで流行ってるミステリの文脈と技法で書かれたホラー(オモコロとかでよくやってるやつだ)と親和性がある。
「特急富士」
 やや面白かった。まあまあ笑える。

 ぜんたいにアマチュア感が強すぎる――地味なのに破綻が多いという意味。

久永実木彦『わたしたちの怪獣』(東京創元社)
「わたしたちの怪獣」
 怪獣をそのまま怪獣として扱うのは難しくて、(というか、怪獣のコアイメージに「人知を超えている」が含まれている以上、)たいていの怪獣フィクションではそれを「原水爆の危機」だとか「戦没者/被災者の無念」だとか「こんな日常ぶっ壊してやりたいと願うわたしたちひとりひとりの小さな攻撃性」だとかに矮小化しないといけない。
 この矮小化はふつう解釈とかなんとか呼ばれている行為で、たいていの場合失敗する。原水爆は意志らしきものをもって自走しないし、戦没者の無念が敗戦国を攻撃するのもよく意味が分からない。怪獣がわたしたちひとりひとりが持っている攻撃性のメタファーだとしたら、ヒーローやロボット(つまり、怪獣と数的に同一でない他者が)がそれを倒すのはご都合主義でないとしたらいったいなんのメタファーだというのだ?
 怪獣に公的な解釈を与える作業は、こうして隅々までうまくいくことはめったにない。べつにそれは怪獣フィクションが根本的に抱える欠陥というよりも、なにかどうしても取り逃がすところがあるからこそ解釈は解釈なわけで、そのズレがむしろフィクションの醍醐味なんだろうが、さておき「わたしたちの怪獣」において怪獣の解釈は私的に行われる。
 つかさは怪獣を父親が死後天使になった姿だと解釈する。バルーンアートのような見た目も、シャボン玉を飛ばす攻撃方法も、怪獣が破壊する対象も、すべて家族の思い出だからで、西葛西から上野までという怪獣の侵攻経路はそのままお父さんの通勤経路だからだ。
 この解釈は失敗のしようがない。そう解釈できるようにつかさが怪獣の諸特徴を選び出しているからだ。形がバルーンアートのようでなかったとしたら、その形に見合った思い出を取り出してくるだけだ。つかさの解釈が恣意的であることの証明に、怪獣の目はけっきょくお父さんとは似ても似つかなかったではないか?
 きっと怪獣が現れた日、あの怪獣になにか別のものを見出したひとが東京中に何人もいたはずだ。かれらの解釈はことごとく間違っているであろう――根拠となる事実を欠いているという意味で――が、怪獣でしかない怪獣のなかに物語を描いてしまう人間の認知的な能力は呪いのようにみずからを癒す。
 こうしてわたしたちはわたしたちのうちにわたしたちだけの怪獣を見出すことになる。Kaiju Within とはそういう意味になる。

 けっきょくこうやってなんでも読むこと・解釈することについての小説にしてしまうと、あたしってバートルビーに毒されすぎなんかなぁ……と思うけどあたしの短篇小説観ってこのころ ( https://akosmismus.hatenadiary.com/entry/2020/09/11/005226 ) からほとんど変わってない(ていうかいまみると相当ナイーヴなこと言ったはりますねこの人?)。でもたぶん久永はわたしと似たようなことを考えているようなきがする。これは押しつけですが……。
 もちろんこんな型のぶぶんであたしは感動しているわけではなくて、つかさが帰宅してからしばらく公園で時間をつぶしていたことの意味が明らかになるところだとか、首相の空っぽだけど泣かせるような演説だとか、そういうところの手触りがリアルだからこそのものだとおもう。

 国内 SF なんて数億年ぶりに読みましたがめちゃくちゃ面白くてよかった。久永先生にはこれとおなじかこれよりよい小説を一年に一作かそれ以上のペースで発表してほしい。

 以下は関係ない話だが、怪獣もので思い出したのはやはり P. J. ファーマー「キング・コング墜ちてのち」で、これも個人の視点から怪獣を解釈する話。長谷敏司「父たちの時間」もそうだ。長谷のは客観的な根拠づけもあるところがハード SF 者らしくてこれもまたすごいのだが。怪獣テーマアンソロジーを組むことがあったらこのへんは絶対入れたい(オタク特有の架空のアンソロ妄想)。ごちゃごちゃいってるが MM9 はずっと積んでるのでそろそろ読みたいと思います。

「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」
 タイムトラベルの原理は意味不明すぎて面白い。タイムマシンなんてワームホールでもタキオン粒子でもどうだっていいのだが面白いに越したことはない。にしてもタイムパラドックスに異様に寛容なプロットで笑ってしまった。あとなんかちょっとところどころ文体が春樹っぽい。

「夜の安らぎ」
 フィクションで同性愛者が出てくると、好きなひと(ノンケ)が異性とイチャついているのを目撃してわかってはいたけどガーンみたいなシーンがありがちで、まぁありがちである理由はわかる(現実でもありがちだろうから)とはいえもう手垢がね、というきぶんになってしまう。ぐうぜん学校の中で知り合いがイチャついているシーンを目撃して脳破壊されてしまうというシチュエーションもなんかエロ漫画っぽいし。
 それはともかく吸血鬼小説だ。それも、いわゆるヴィーガン吸血鬼(吸血の欲求はあるけど輸血パックとかトマトジュースで渇きをごまかしてる系の吸血鬼のことだ)ものだ。
 ヴィーガン吸血鬼が出てくるとだいたい「人間が家畜を食うのはいいのに吸血鬼が人間の血を吸わないのはおかしいんちゃうんか」みたいに、動物倫理だとか種差別の話になってしまいがちだが(『フィーヴァードリーム』とかさ)、吸血鬼は人間だったことがあるうえに、人間と同じ構造の知性を持っている。人間は家畜だったことがないし、人間と家畜の知性の構造は(たぶん)違うだろう。ということで、これはあんまり効果のある比較ではない。ようするに吸血鬼が人間の血を吸いたくないと思うのは(吸血鬼化することで道徳心まで変容するのでない限り)〝当たり前〟のことなのである。
 動物倫理でないヴィーガン吸血鬼小説は、社会的に認められない欲求を真正な欲求として抱えて生きていくことについての小説、つまりロリコンについての小説になることが多いだろう。
 「夜の安らぎ」はどちらでもない。夜安は吸血を厭う。人間を吸血して吸血鬼化すると、「魂が氷のように冷えてしまう」そうだ(これはイーゴリがいっていることだが)。吸血することそのものよりも、吸血することで相手に吸血衝動を植えつけること――暴力を振るうことで、相手を暴力によってしか癒されない人格に変えてしまうこと――がなによりも耐えられないということだ。
 こんなに倫理的な吸血鬼がいてよいものだろうか?
 物語最終盤では吸血はしたくないがイーゴリを死なせたくないという夜安の葛藤と、死にたくはないが夜安に吸血という罪を追わせたくないというイーゴリの葛藤がコンフリクトする。イーゴリを助ければイーゴリによって吸血は妨げられるので楓は吸血鬼になることができない。イーゴリを助けなければ夜安は楓を吸血しない。この諸葛藤間の葛藤は真正なものなので、楓は吸血鬼になって暴力を振るいたいという欲求を放棄するしかない。
 吸血鬼は、というか吸血の衝動は怒りで、怒りはなかなか死なない(六秒しか持続しないというのは嘘だ)。だから吸血鬼は不死だ。ところで吸血鬼は人口統計学的におかしな存在で、不死なのに眷属を増やすとすれば地球上はとっくに吸血鬼だけの世界になっていなければおかしい。しかし、地表を埋め尽くすのは吸血鬼ではなくゾンビの領分だ。そうはなっていないのは、どこかで怒りと暴力の連鎖に歯止めをかけている吸血鬼がいるということだ。それはまったく華々しい業績ではないかもしれないけど、たしかに勇気あることではある。吸血鬼に学ぶアンガーマネジメントのすゝめというかんじ。
 あたしが吸血鬼の話をするたびに引き合いに出している『今夜ヴァンパイアになる前に』だが、こんかいは話に出す隙がなかった。というのも「夜の安らぎ」はじつにヒューマニズムに溢れていて、ヴァンピリズム(?)の入り込む余地はあまりなかったからである。

「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」
 とかいってたらゾンビの話だ! 現代短編作家の登竜門であるところの……ゾンビ! J. C. オーツが、ケリー・リンクが、カレン・ラッセルが、エイミー・ベンダーが、ジョージ・ソーンダーズが、マヌエル・ゴンザレスが、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーが、ダン・シモンズが、ブライアン・エヴンソンが、まぁあとほらほかにもいろいろいただろ、が馬鹿の一つ覚えみたいにこぞって書いてきた、あの……ゾンビ! 聞くところによるとさいきんは韓国の作家もよく書いているというあの……ゾンビ!!
 いやだからなんだという話で、これはべつにそんなにゾンビものとしてなにかを突き詰めているようには思えないのだが、愉快なキャラが出てきて映画の話とかをして、死んでいくのがユーモラスで哀しくて独特の風格を備えている。これはめちゃくちゃ細かいことなのだが、冒頭とラストで同じフレーズが出てくるのに読点の位置が(というか数が)異なるのは合わせてよ!って思った。
 しかし小説にめちゃくちゃ詳しいやつをみてもうわキモ!としか思えないのに映画に詳しいやつをみるとかっこいーってなるのはどうしてなんだろう?