『尾崎翠の詩学』

山根直子『尾崎翠の詩学』(臨川書店)よんだ
ざんねんながらぜんぜんおもしろくない。町子はけっきょく三五郎に恋をせず、浩六に恋をする。三五郎は肉体を有する=恋愛すれば結婚、出産する羽目になる、肉体を持った他者であるが、浩六は町子が恋したときにはもう引っ越ししていたからで、山根によればこれは家父長制の強制する産む性としての女性の社会規範から逸脱せんとしてのことであるらしい。

べつにそういう読みがかんぜんに無意味とはいわないが、ぜんぜんおもしろくない。

そもそも三五郎は金銭感覚が崩壊していて、町子の金をぜんぜんくびまきに使ってくれない。無理やり髪の毛を切ってくる(斬髪のシーンはほとんど性的なイニシエーションだ)。町子に気があるようなふりをしていながら三五郎は隣家の女の子に恋をするが、それだって「蜜柑はいつも半分ずつ」式の恋だ。三五郎の女の子に対する姿勢は

「ピアノを鳴らさないことにしたら――」
「あればしぜん鳴らすよ。女の子が近くにいるのとおんなじだよ」

というもので、隣家が引っ越す理由がこれまた三五郎のピアノなのもようするにそういうことである。けっきょく、ふつうの人間は三五郎のような人物に恋をしない。いっぽう浩六氏は町子を佳しい女詩人に似ていると感じ、それに、くびまきを買ってくれた。
女中部屋の釘にボヘミアンネクタイでなく浩六氏のくびまきがかかるのは、べつに三五郎と恋愛をすると結婚して子どもを産む羽目になり、もはや詩人になれなくなるからというだけではなくて、単純に三五郎に魅力がなかっただけだ。そう読む方が自然だ。