贋作性について

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』第三章の議論を読んで考えたことを書きます。


《モナリザ》の絵には贋作がありえて、ハイドンの《ロンドン交響曲》には贋作がありえない。同じく、彫刻の贋作はあり得ても、文学の贋作はあり得ない。このように、芸術ジャンルごとに贋作、模倣が存在しうるかどうかが決まっているように思える。

(ここでいう贋作とはいわゆる「実物参照的な」贋作、つまり「《モナリザ》にそっくりな絵」のようなもの。ジャゾット作の『「アルビノーニの」アダージョ』や、あるいはファン・メーヘレンがフェルメールの画風を真似て描いた絵のことを指すのではない)

グッドマンによれば、こうした差異は絵や彫刻(あるいは書画、ダンスも?)には同一性の基準となる記譜法がないが、音楽や文学には記譜法があることに由来するという。

「記譜法」というのは音楽でいえば楽譜であり、文学でいえば文字の配列である。記譜法は作品の構成的な性質を一意に特定する。逆にいえば、記譜法に現れない偶有的な性質(小説で言えば、印刷された紙の白色度、使われているフォント……)は作品の同一性を特定するのに寄与しない。

ところでドット絵(というかデジタル絵全般)はかんぜんな記譜法を持つ。どこに何色のドットが配置されているかという記号の配列によってその同一性は判断できる。ではドット絵の贋作はあり得ないのだろうか?

エディタで当該ドット絵を開いて、1 ドット単位で正確に別のキャンバスに移せば、出来上がるのは完璧な複製であって、贋作ではないだろう。

しかし、たとえばすでに世界中のあらゆるストレージやサーバーから消えてしまったあるドット絵があるモニターに表示されていたとする。このドット絵は暗号化されていて――あるいはモニターが焼き付いていて――、エディタで開く等の手段で、その「記譜法」を見ることはできないとする。

それでも、目視と色彩感覚によってかなり正確な再現をすることはできるはずだ。複製されたものとオリジナルは人間の通常の観察では区別がつかないとしよう。しかし、これは「複製」か? 「贋作」か?

グッドマンの基準に従えば、記譜法が存在する以上、ドット絵に贋作は存在しないのであって、目視によるドット絵の再現は(不完全な)複製であって、贋作ではない。

しかし、こうして複製したドット絵を複製者がインターネットに再度アップロードしたとする。これは「贋作」を美術館に飾るのと近いものを感じる。

ようするに、贋作が存在しうるかどうかはその作品の属するジャンルが同一性の基準となる記譜法を持つかだけでなく、贋作行為がその記譜法を直接に参照するかどうかにも関わっているのではないか?

トークンからタイプにさかのぼるような形で行われた複製であればドット絵や音楽についても模倣や贋作が存在しうるのでは?

また、グッドマンはオートグラフィックな(贋作が存在しうる)芸術は、その同一性の基準に歴史性を含むと考えたようだが、アログラフィックな芸術も歴史性を含まないわけではないのでは?

たとえば、同じ俳句教室で俳句を習う二人の生徒がいたとする。二人は同じ季語を与えられ、宿題としてそれぞれ俳句を作ってきた。ぐうぜん、二人が作ってきた俳句は一言一句おなじものだった。さて、ここには「作者が異なる二つの俳句」があるのか? それとも「同じ俳句」が二つの短冊に書かれているのか? そして、これはありそうもないが――「A が B を(あるいは B が A を)模倣、あるいは贋作した」というのか?

ようするに記譜法の有無にかかわらず、作品には多かれ少なかれ歴史性が備わっているのであって、贋作とは(すくなくとも、)その歴史性に対する意図的な欺瞞と、もし記譜法が存在するのであればその記譜法にアクセスできない状態で行われた複製という二つの要素によって特徴づけられるのではないか?

よくわからなくなってきました。