『ロジカ・ドラマチカ』その他

辻真先『深夜の博覧会』(創元推理文庫)
辻真先名義を読むのは初めて。牧薩次は読んだことあるんだけど。
昭和初期を舞台にしたミステリで、まぁ、なんというか、足し算に足し算を重ねて作った感じ。まとまりはないし、大がかりなトリックもそれありきで舞台を作られたんじゃぜんぜん響かない。反戦思想開陳パートもぜんぜん興味がない。少年の淡い初恋みたいなのもややキモだった。じゃあつまんないのかといわれると、読んでる間は無心で読める。でもそれだけだ。

マルカム・ラウリー『火山の下』(白水社)
 難しくてよくわかんね(笑)ガルシア=マルケス、大江健三郎絶賛!←チャールズ・ブコウスキー酷評!も帯に入れた方がいいよ いや、ブコウスキーはじぶんもアル中なんだし気持ちわかったりしないのか?
 都市! 細部! 不倫! みたいなユリシーズオマージュってまあよくあるけどだいたいわたしはよくわかってなくて(というかあたしはユリシーズ読んでないしなガハハ)、まぁそのなかでは石蹴り遊びってなんかけっこう面白かったんだな、と思ったりもした。火山の下のイヴォンヌはなに考えてるんだかよくわからないが、ラ・マーガはなんだかあんな書きぶりの中にも切実だった。いや、石蹴り遊びもよく覚えてないが……。こないだ DFW の「『ユリシーズ』の日の前日の恋」もよんだがあれもよくわからなかった。世の中にはよくわからない小説がいっぱいある。
 もう助からない浮浪者がもう助からないメキシコのことで……みたいなポスコロしぐさは頭に浮かんだが(それともこれって『恥辱』を読んだ時の記憶に毒されすぎですか?)そういうのあんまり興味ないし、っていうか日本は敗戦したおかげでこういう種類の小説があんまり作られなかったのはよかった。べつに日本人もマシュごめ(満州ごめん)小説を書いてもいいとはおもうのだが……。
 『火山の下』には同名の短編があって、というかそれをもとにして『火山の下』はできあがったのだが、短編のほうではイヴォンヌがジェフリーの妻じゃなくて妹になってて、ヒューはその恋人ということになっているらしい。「妻じゃなくて妹だったら」みたいなことをいってるのはその名残なんですね。
 そういえば学校で斎藤兆史の翻訳の授業は受けたことがあるのだが、斎藤兆史の訳した本を読むのはじつははじめてだ。

貫井徳郎『天使の屍』(集英社文庫)
 春日武彦の紹介をみて読みたくなったので読んだ。http://s-scrap.com/1216 
 じつはあたしは『慟哭』も読んでない。
 これが子どもに特有の論理による自殺というのはよくわからなかったし、そもそもこの作品内での「子ども/大人」の対立がどういうものなのかよくわからない。さいきんの子どもは未来に希望を失っており……みたいなのはもはや安易に見えるけどこれが書かれたのが酒鬼薔薇聖斗より前だと考えるとじゅうぶん鋭かったのかもしれない。平成生まれからすると対立の存在自体がみえない。
 ところでミステリとしてみたところ、連続自殺の主要な "目的" がなんであったかに気づくところになんのロジックもないのでちょっと肩透かしだ。遺書の暗号とかはかなりバカバカしい。
 息子の自殺の動機が明らかになったとき、主人公であるその父親はなんのためらいもなく息子の名誉を守ることを意図するが、親ってやっぱりそういう生き物なんだろうか? ちょっとくらい嫌悪感があって、それでも、しかし、というステップが欲しかった。

古野まほろ『ロジカ・ドラマチカ』(光文社)
 「九マイルは遠すぎる」ってけっこう有名で、まぁいまどきのだいたいのひとは「心あたりのある者は」経由だとおもう(あたしもそうだった)。「心あたり~」を読むとだいたいのひとは「けっきょく言語分析じゃなくてさいごは伏線芸じゃん」というがっかり感を覚えるはずだが、元ネタのケメルマンを読んでもまったく同じがっかり感を与えられるので、もしかしてこのジャンルってそんなに発展性ないのか? と思わされてしまう。(いちおう説明しておくと、「九マイル」ものというのは、たとえば「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ」といった何気ない文章だけから驚くべき事実を引き出す――といったタイプの安楽椅子探偵もののことです)
 で、まほろが九マイルもので一冊やるというので、おれたちのまほならもっとゴリゴリに rigorous にやってくれるんちゃいますの!とおもって期待して読むと(桜火に入ってる「あとは両替にでも入るしかないか」も面白かったし)……まぁ、いわゆる盤外戦術もちゃっかりたっぷり使ってツイストしてて、ミステリとしてなら掛け値なしに楽しいが、理想の九マイルを期待していたので勝手に裏切られた気持ちに……。理想の九マイルがどんなものなのかもうまく指示できないのにこんなこといわれても困ると思うのだが。
「春の章」が九マイルものとしてはいちばん面白かった。「秋の章」は……思い出すよね、「妃英理誘拐事件」……。誘拐される→助けを求めるメールが届く→細かい書き癖からいろいろ分析する→暗号要素を解く→さいごにきわめて個人的な要素が出てきてええ感じのロマンスになる、というところまでプロットが一致する。「冬の章」は……ちょーキモいが、自由恋愛は自由だから……。『新任警視』を読んでないので司馬警視正にどういう歴史があったのかはしらない。読んだら違うのかしら。

辻真先『たかが殺人じゃないか』(創元推理文庫)
 『深夜の博覧会』よりは面白かった。が、ふつうのミステリ、ってかんじ……。一個目の殺人事件のトリックは思いっきりカーだし(まぁそんなことみんなわかっててやってるんだろうけど)、二個目のトリックはまったく使う意味がわからない。ていうか一個目のトリックも使う意味はよくわかんなくて、よくわかんなさが犯人の自供にすら反映されてしまっている。大らかな気持ちで……読もう! 読者が今まで読んでいた小説が作中人物の書いた小説であったことが明らかになる系で、それを使った大ネタはけっこうすがすがしい。世の中のひともけっこうこの仕掛けを好んでるみたいだ。
 まぁ、あと、お説教はお説教として認識されてしまうとあんまりひとに伝わらなくて、「考えさせられました」系読者からのお愛想しか獲得できないのでは……みたいなひねたことを思ってしまった。芦部拓のさいきんの作品もそうなのだが、「敵」の事情や内面に対する関心があまりに薄いと(というかたぶん定義からして「敵」に内面はないのだ。共通理解の可能性があったらそれはもう「敵」じゃない)興ざめしてしまう。うーん。『透明な季節』でも再読するか。

ジョン・マレンボン『哲学がわかる 中世哲学』(岩波書店)
 わたしは大学を歴史で出たので学校で哲学はまったくやってないのだが(美学だけちょっと授業を受けた)、どこで中世哲学に関心なんて持ったのかというと歴史のゼミで、あるとき 11-12 世紀で発表することになって、なんでかわからないけどアベラールを選んだのがはじめだった気がする。アンセルムスと迷った。発表準備で山内の普遍論争を読んだり永嶋哲也の書いたものを読んだり、その流れでマレンボンも読んだ。マレンボンはおおまかにいってアベラールやさんだ。
 本書は前半が大まかな通史、後半がトピックごとの紹介(普遍と個、魂とその不死、予知と自由、個人的倫理と社会生活、みたいな)。入門書あるあるとして、よくまとまってるけどほんとに初学者がこの密度は高いけどさっぱりした記述を頭から読んで何か得られるのか?とゆー……といっても VSI 読むひとってどのくらいの頭の良さを想定されてるのかしら。どうせ日本でこれを読む人はほんとの中世哲学の入門者じゃなくてある程度知ってて、いまマレンボンが入門書いたらどんなかんじでまとめるんでしょみたいな興味で読んでそうだから問題はなさそうだが……。中世哲学史の記述にイスラームを入れるのはもはや当たり前になった感もあるけどユダヤ、ビザンツあたりはやっぱりまだそんなにで、どのくらいやってくれるのかな~とおもったらまぁそんなに……。でもポンポナッツィ出てくるから。ポンポナッツィ出てくるからいい本だよ。ていうかいま調べて知ったけど『魂の不死性について』って翻訳してるひといるんだね。すばらしい。敵「魂が可死だとしたら死後の報酬がありえなくなってしまい、善行をなすモチベーションがなくなってしまう!」ポ「徳の報酬は徳それ自体ですよ(^^;)」←ここすき
 通史をさらっとやってトピックごとの論争史をじっさいに見せる形式でいうと、わたしはやっぱりリーマンの『イスラム哲学への扉』が面白いと思う。

カレン・ラッセル『オレンジ色の世界』(河出書房新社)
 よみはじめた。まだ読み終わってない。わたしはけっこうラッセルのファンなので短編が雑誌に載ったら読んでるし原著が出たときもすぐ買って読んでる。でもさいきんのはあんまり面白いと思えなくて、うーん。傷つきや弱さを商品化するしょーもない風潮にはあまり屈してほしくない。加害者と被害者、敵と味方、わたしたちとあなたたちに世界を分けるものの観方をする小説がわたしはそもそもあんまり好きじゃない。もちろんわたしたちは傷ついている、傷つけられているという認識を抑圧しないというのはそりゃまあとても大事なことなのだが、セラピストじゃないんだから小説なら面白くしてほしい。ぎゃくにいえば面白ければなんでもよいのであって、J. C. オーツとかキット・リードとかの一部の短編は凡百の傷つきコモディティフィケーション小説とは一線を画している。ケリー・リンクは……打率七割くらい。
 いや、こういうことをいうとひとからは嫌われそうだが……。そうはいったって、だれにも理解されないインテリ白人男性の孤独と懊悩を書いた小説も家父長制に反抗するシスターフッド小説もぜんぶ畜群の慰撫にとどまる限りやっぱり駄作だ。畜群の慰撫にとどまる小説は(辻のところでも書いたが、)平板な敵が出てくるのですぐあくびが出る。作家に超然とした態度や視点を求めることじたいがすでにアグレッションなのだといわれたらもう返す言葉もないけれど。
 ぜんぜん関係ない憎しみが出てきてしまったがラッセルはそこまでひどくはない。いずれこうなりそうなかんじがしてやだな~と思ってるくらいで……。