見出し画像

わたしは、謝罪や賠償ではなく、 対話と再考と教育を求めます。

ギャラリーにデリヘル嬢を呼びたいあなたへの手紙

■■■■
この文章は、「わたしの怒りを盗むな」というweb→ https://dontexploitmyanger-blog.tumblr.com に寄稿したものです。時が流れて、なにかweb上のシステムの問題で、あかたの文章まで辿り着くことがなかなか困難になったようで、時々「読めないんですけど」という問い合わせをいただくようになりましたので、管理者の許可を得て、ここに転載します。
■■■■

 わたしはこの文章を、ひとりの京都市民として、また、芸術を信頼する者として、教育が好きでそれを仕事にする者として、そして、性教育の専門家としてずっと性と社会について考えてきた者として書きます。

 ある日、友人のTwitterがなにやら騒がしく、見ると、友人はギャラリーにおり、なにか怒っている。なにがあったんだ。後日聞くと、呼ばれて行ったという。アーティスト?が、ギャラリーにデリヘル嬢を呼ぼうとしていて、友人はその代わりに呼ばれたという。その時点で、背筋が凍りました。なぜ、ギャラリーに、しかもワークショップなどという、公開の、誰でも入れる場所に、デリヘル嬢を呼んでもいいと思ったのか。

 もし、どうしても、今回のような「公共の場」に、デリヘル嬢を呼びたいなら、わたしなら、こうします。まず、客として、ホテルや自分の家なんかにデリヘルを呼ぶ。そして、接客上の演出としての親しさではなく、本当に彼女と友だちになれるまでコミュニケーションを続ける。もちろん、お金を払ってです。つきあってもらっているのだから、当たり前です。そもそも「接客業の女性」と「客の男性」として出会っている以上、友だちになること自体がとても難しいことだという想像はつくでしょうか。想像がつくことを祈りますが、たぶん、そのあなたの想像の、更に何倍も難しいとわたしは予想しています。それでも、会い続ける。どうにかして、嫌がられずに、会い続ける。そして友だちになる。それからやっと「自分はこれこれこういうことを考えていて、それで、あなたをこういう場所に呼びたいのだけど、どう思う?」と恐れながら聞く。ここで言う「友だち」というのは、このようなあまりにも想像力に欠ける馬鹿げた提案?に対して、「それはいやだよ」とわざわざ言ってくれる相手のことです。そして、彼女にとっては何の利益にもならないにもかかわらず、「でも、あなたがそれをどうしてもやりたいと言うなら、ここは改善したほうがいいんじゃないかな」とか「この部分は無理すぎるよ」「でもこんな方法もあるかもしれないね」なんて、言ってもらえる関係のことです。そうして、何度も話し合い、あれこれ調整し、その上で、まあ、いろいろなことがうまく、ほんとうにうまくいけば、あるいは、ギャラリーにデリヘル嬢を呼ぶことは、もしかしたら、可能かも知れません。どうでしょうか。この方法は間違っているかもしれない。何人かの自分の友だち(当事者、研究者、弁護士など)に、どう思うか聞いてみよう。つまり、そういうことです。あなたなら、どうしますか。

 「世界を知る方法」は、いくつもあります。例えば、まず本を読むこと。すでに信頼関係のできている友だちに話を聞くこと、そして、想像すること。セックスワークという仕事を、人はどのように選び、あるいは選ばされ、どのような環境で、どのような気持で、どのような恐怖と喜びの中で、日々なにをするのか、させられるのか。これまでの自分の経験、出会った人たちに教えてもらった知識、勉強してきた社会についてのこと、そういったものを総動員して、想像すること。自分だったらどうだろう。どんな気持で、どんな行動をとるかな。正直、どれほど想像しても、例えば思い余ってあなたがセックスワーク業界に飛び込んだとしても、例えば男女の、身体的社会的生育背景的その他諸々な差から来る溝を、あなたが埋められることはないだろう。つまり、あなたは、女ではないのです。例えばそのことをひとつとっても、あなたはどのように考えるのか。(特に女性の従事する)セックスワークが特殊で悲惨な仕事だと言っているわけではありません。それほど難しい仕事であり、世間的に厳しい立場に置かれることが多い仕事であり、それ故、本当に、よく考えて下さいと言っているのです。わたしには、現代の日本に於ける女性のセックスワークは、比喩表現でも何でもなく「取り返しがつかない」事態と、結構、隣り合わせの職業に見えます。それはもう、アーティストより、大学の教授よりも、遥かにです。

 人を理解すること、あるいは世界を理解することは重要なことです。素敵なことだとも思います。でも「そのためになら相手を傷つけてもいい」なんて、誰が許したのでしょうか。「おまえのこと、理解してやるから、ちょっと出てきて、しゃべってみろよ」って、言うの? なんで? どんな権利があって、あなたはそれを言うのでしょうか。あなたの「理解」は、その、あなたが理解したい相手、あるいは、あなたが世界を知るために利用した相手(今回の場合はデリヘル嬢)に、どのような役に立つのでしょうか。あなたの好奇心を満足させることは、どれほど重要なことなのでしょうか。それのために、どうしてその相手は、自分の大切な時間や労力を裂かないといけないのでしょうか。ましてや、自分の職業生命まで脅かされるかもしれないのに。つまり、生命まで脅かされるかもしれないのに。あなたがやろうとしたことは、つまり、そういうことです。どうですか。どう考えますか。「アート」の名の下にだと、人の人生をめちゃくちゃにしてもいいのですか。その危険に、人を勝手に晒してもいいのですか。

 今回のことに関して、わたしは怒っています。圧倒的に弱い立場にいる可能性が高い人間を、想像を絶するレベルの危険に晒そうとしたこと、それをしようとした背景に、全く切実さが感じられないこと、あなたにつきあってくれようとした人の話に、誠実に耳を傾けなかったこと、その一連の想像力のない不誠実な行動に「アート」と名前を付けたこと、アートなら何をしても良いと、それが保障されることが表現の自由なのだと表明したこと。つまり、あなたは、他者にも、自分自身にも、アートに対しても、酷いことをした。そして、これらのことが全て、何人もの尊敬する素晴らしい芸術家たちを輩出してきた、あの、京都市立芸術大学のギャラリーでおきたということ。事件を知った時から今日まで、わたしの頭の中は、憤りや疑問でいっぱいです。それでも、敢えて、その上で、提案があります。わたしは今回のことに関して、「申し訳ありませんでした」のような、誰にでも言えるような薄っぺらい言葉を口にするだけでは不十分だと考えています。そうではなく、もっと意味のあることをしませんか。お互いにとって、さらに、周囲の人たちにとっても、意味のある、おもしろいことをしませんか。


 話しましょう。「アート」に「突拍子もない力」があるとするなら、間違いなくそのひとつは、その作品に惹かれた人たちが、その作品を共に作ろうとする人たちが、あるいは、それに巻き込まれる人たちが、これまでできなかった、してこなかった話し合いを始める、ということだと思います。

 話しましょう。あなたがもし、誰かに興味を持ったなら、その人の背景や背負うもの、歴史や置かれている社会的な立場などをできるだけ丁寧に調べ、それについてよく知る、信頼できる、自分と信頼関係が出来ている別の人から話を聞き、そうして得た情報を精査し、考え、どうすればその、自分が興味を持った人に(大抵は、その人にとってその話をすることは何の得にもならないのに)安心して気持ち良く話をしてもらえるかを考え、想像し、自分が用意する環境が間違いないか、その人にとって(少なくとも腹を割って話してくれる程度には)快適かを相談し、何度も確認した上で、恐れずに、誠実に話を始めましょう。怒らせて引き出した言葉は、それは「本音」ではなく「反動」です。

 話しましょう。今回のことで、セックスワークに関わるのは面倒だと思われたでしょうか。それでもいいです。というか、そう思っていただかないと困る。セックスワークだけではありません。「他者」とは面倒なものなのです。例えば他の場所で、他の国で、似たようなことを繰り返されては困る。あなたは今回、「ラーメン屋でも良かった」と言いながら、敢えて、女性の、セックスワーカーを呼ぼうと企画したわけです。なぜ、女だったのか、なぜ、デリヘル嬢だったのか、それは、あなたはあなたを傷つけない相手を、自分より社会的にも身体的にも弱い相手をわざわざ選んでいるということではないのか。そのように、あなたを脅かすだけの大きな力を、大きな声を、言葉を、持たない者に対して、好奇心や「アート」を盾に、困惑させても良いと、迷惑をかけても良いと、傷つけても良いと思われては困る。自分とはあまりにも違う他者との、その違いを越えて話すことの困難さに途方に暮れてもらわないと困る。でも、その上で、それでも、話しましょう。単なる情報の交換ではなく、他者どうしが向き合う、その空間の空気に体を開いて、相手の言葉を聞き、受け止め、考え、そこで生まれる自分の感情と向き合い、言葉を選び、そっと相手に伝え、そうしてまた、相手の言葉を待つ。つまり、対話をしましょう。わたしたちは、「わかりあう」ことはないかもしれない。それでも、対話し続けましょう。

 そして、もう一度考えましょう。自分が興味を持った他者について。その他者に興味を持った自分について。他者を知り、理解に努めることは、人という存在を理解することであり、それはつまり、結局自分を理解することです。自分を知り、理解に努めることは、結局他者を理解することです。自分と他者を理解することは、世界を理解することです。世界とは、あなたと、わたしが共に生きている場所に他なりません。丁寧にやりましょう。誠実にやりましょう。そのために、何度でも、何度でも考えましょう。

 そして、それを人に伝えましょう。自分が何をしたか。なぜ、そんなことをしたか。その結果、何を得て、何を失ったか。何を考え、どう思ったか。なにが楽しかったか、なにが辛かったか。なにがうれしかったか。人に、なにをもらったのか。自分に、何が足りなかったのか。どうすれば、もっと良くなるか。自分は、これからどうしたいか。そして、あなたがそれを伝えた相手と、それらのことについて話し合いましょう。それをわたしは「教育」と呼びます。

 わたしは、今回の件に関して、謝罪や賠償ではなく、対話と再考と教育を求めます。

2016/02/14

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?