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母が消えてゆく

【父の死】

8年前、父が亡くなった。
最後は要介護5の植物状態になり、寝ている時と変わらない状態で息を引き取った。

母と私達とで壮絶な介護を経験していたので
「私は絶対にあんた達にこんな思いをさせたくない」と母は常々言っていた。

ちなみに父は退職金を株と女に使い果たし、遺産は腕時計のみだったんだけどね…
「お金も残さないなんて…」と私達は通帳残高を見て愕然としたものだ。

【初めての異変】

父の死から4年後。
祖母のお墓参りに母と出かけ、お昼を食べて帰宅したところ、

「え?あんた何でここにいるの?仕事は?何しに来たの?」

「えっ…??」余りの意味不明さに私は数秒言葉を失った。

「さっき一緒にお墓参りに行ったじゃん!!
今お昼食べて帰ってきたんじゃん?!?!」

捲し立てるように返したが「え?お墓参りに行ったの?」

この日を境に母は少しずつおかしくなっていった。
私も心配で実家に行く日を増やし、なるべく食事を一緒にするようにしていた。
母が買い物に行く際「私が焼きそば作るから、お惣菜とか何も買わないで良いからね」と伝えた。

「そうだよねぇ、冷蔵庫に食材いっぱい入ってるもんねぇ」と言っていたのに、お弁当やらお惣菜やら買い込んで帰宅した。

「何も買わなくて良いって言ったじゃん!」
「え?そんな事言ったっけ?」

ここには書き切れないがこんな事例がいくつも続き…

鍋を焦がし、
ヤカンの麦茶が半分蒸発するくらいまで火を消すのを忘れ、
タバコもオレンジの光が残っている状態で出かけたりする。

「ちょっと…最近明らかにおかしいよ。物忘れのレベルじゃない。一緒に病院で1回診てもらおうよ。」
「嫌だよ!私はボケてなんかいない。この年になったらもの忘れは皆ある事だよ。○○は酷い事言うんだねぇ…」

「○○」は姉の名前だ。  

背筋がゾッとした。  

受診を決めた。    

【診断】

初めは近所の病院に行ったが、脳の血流を診たいと言われ遠くの大学病院でMRIとCTを撮った。

「アルツハイマー型認知症」と診断された。
これから私達の壮絶な数年が始まる事となった。

どうしても同居しないと言う母。
私も姉も様々な事情があって同居が難しい。
要介護の申請をしてケアマネさんを付けて生活を介助してもらうしかない…

【介護認定まで】

なんで昭和の老人って違う所で頑張っちゃうんだろう…

父の介護認定調査の日も、調査員が若い女性だった事もあり、普段は出来ずに私達の手を借りているくせに

サッと足を上げたり
テキパキ反応したり
歩こうとしたり
簡単なテストで満点取ったりするんだよね。

「ここで張り切ってどうすんだ!!要介護もらえなかったら私達が苦しむのを何故分からない??このク○じじい!!!」と思った程だ。

そして母も同じ気持ちだったはずなのに…

頑張っちゃうんだよね…母も。

違うんだよ、頑張るとこそこじゃないんだよ。

演技しろとは言わないけど普段のボケっぷりを存分に診てもらいたいから調査してるんだよ。

普段勉強しないのに一夜漬けで付けた力で、
見栄を張るのは意味がないんだよ…!
私達が苦しむんだよ…!!と歯ぎしりしながら調査に立ち会っていた。

後日要介護1の認定がおり、ここから介護生活がスタートする。

【振り回される家族】

認知症なのでとにかく自分が言った事、やった事を忘れる。
私が仕事をしていようが、家事をしていようが、休みの日に友人とランチに行っていようがお構いなしに

・背中が痛くて起きられない
・玄関で転んでしまいそのまま動けない
・酷い下痢でベッドを汚した
・パソコンが壊れた
・スマホが壊れた

その度に出来るだけすっ飛んで行くが、ケロッとしていたり「呼んだ覚えはない」と言われたり…

友人と表参道で遊んでいたのに途中で切り上げてすっ飛んで行って汚物を綺麗にしても
「あんた、何でここにいるの?」という言葉が返ってくる。

つらい。怒り。病気だから仕方ない。でもつらい。悲しい。でも病気だから…

こういう事が積み重なるから介護をめぐる悲しい事件はいつまでも絶えないのだろう。

帰り道はいつも涙が止まらなかった。
こんな日々が数年続いた。

【要介護2と骨折とコロナ】

認知症もだいぶ進んでしまい、一人で出来ることが少なくなってきたので要介護2に変更になった。
これからヘルパーさんを増やそうとケアマネさんと打ち合わせをした翌日に、なんと母が倒れて骨折した。

5月入ってすぐの話だ。

コロナに染まった世の中。
この頃は主人も完全テレワーク、子供達も休校で毎日全員家にいる状態で。

特に長男と主人の不仲は以前にも増して酷くなり、私が家庭内仲介をしていた。
私は家族の形を必死に守っていたんだ。

それだけでも毎日辛かったが、良い事も悪い事も重なる時は重なる。    

神様…お願い…
ちょっとだけで良いから休ませて…  

世の中はコロナの真っ最中で、救急を受け入れてくれる病院もなかなか無かった。

何よりも、自分自身コロナが怖かった。
ずっと自粛していて仕事も半分テレワークで、外食もせず頑張って毎日朝昼晩自炊していたのに、

救急車に乗るとか
1つめの病院に6時間いるとか
その後2つめの病院に2時間いるとかもう恐怖しかなかった。

今ならまだ気持ちに余裕があるので大丈夫だと思うけど、当時は感染者の数を毎日毎日神経質に調べて一喜一憂して神経質になっていたのだ。
実際に病院に入ると、時間外の救急にも関わらず、たくさんの方々が働いてる。
病院に行くのが怖いだなんて思ってごめんなさい…

でも、改めて病院ってこんなにもたくさんの人に支えられているんだなと再認識した。
感謝しかない。やっと受け入れてくれた病院に入院できた。

毎日、早朝から夜中まで訳の分からないLINEがぎゃんぎゃん飛んできたが、それでも何かを中断して車飛ばして実家に行かなくても良いという事実は心を少し軽くしてくれた。

行かなくて良いんだ
汚物を掃除しなくても良いんだ
冷蔵庫の腐った食べ物を捨てなくて良いんだ…
看護師さんがいてくれるから、夜ぐっすり寝ても良いんだ…

久し振りにビール500mlを3本も飲んで死んだようにその夜は眠った。

【退院後の生活】

約3週間で整形外科的には「治癒した」と診断され、退院の通知が来る。
しかし認知症と既に排泄が間に合わない状態のまま又家に戻り、今迄の様な生活に戻るのはもう無理だ。

ヘルパーさんは夜来てくれない。
入院前よりも認知症の症状が明らかに酷くなった。
ケアマネさんと本人と病院のソーシャルワーカーさんと私達との打ち合わせが続いた。

「打ち合わせ」という名の
「母を次のステップであるリハビリ病院に転院する事を納得して覚えててもらう」という戦いだった。

何度説明して、本人が「分かったわ、次はそこに行けば良いのね」と納得しても翌朝には忘れてしまい、
先生に「え?リハビリ病院なんて聞いてない!何の話?私はここを出ないわよ!」と騒いだりするので大変なのだ。

先生にもソーシャルワーカーさんにも看護師さん達にも迷惑をかけてしまって本当に申し訳ない気持ちでやりきれなかった。

LINEでのやり取りをしているので、母のLINEを先生に見せて、何とか紹介状を書いてもらう事が出来た。
証拠を提出したみたいで何だか嫌な気持ちだったけど仕方ない。

私達は限界だったんだ。

【今】

次のリハビリ施設には来週に転院予定。そこでも最高3ヶ月しか入所出来ない。

来週からどんな日々が始まるのか想像できない。

でも、夜、これで寝ても良いんだ。

さっき、2ヶ月ぶりに赤いペディキュアを塗った。  

明日、なんか良い事あるかな。

いつも遊んでくれてありがとう