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ソングライターとしての河合奈保子さん

2021年3月21日〜3月27日、Facebook投稿で発表したエッセイです。


ソングライターとしての河合奈保子さん 1

僕と同世代の日本人なら誰もが知る80年代のアイドル、河合奈保子さん。

デビュー当時高1だった僕も大ファンで、友人K君の持っていたデビューアルバムをカセットに録音しよく聴いていたものでした。

ただその頃から洋楽に目覚め、クイーン、ハードロック、プログレッシブロックに夢中になりながら自分もバンド活動を始めていて、邦楽はほとんどといっていいほど聴かなくなっていました。

その後彼女の名前を聞くこともなく、ああそういえばいたね〜ぐらいで済ませて、今に至っていたのですが・・・

先月何気なく検索してみると、彼女は途中からオリジナルを作るようになり、1996年に結婚し引退するまで、自作曲のアルバムを6枚もリリースしているというじゃありませんか!

年齢は僕よりひとつ上でほぼ同世代の河合さんが、どのような経緯でどんな楽曲を作っていたのか、かつて表層的なファンであった縁でとても気になってしまい、深掘り癖が発出。

彼女の膨大なYouTube動画を観まくりながら、遂に6枚のアルバムをAmazonより入手!コツコツと聴き続けておりました。

一応作曲家と名乗り仕事をさせてもらっている経験の中でいいますが、オリジナル作品には、創作した人の気持ちや人柄や「ほわっとしたもの」が閉じ込められているのです。

それを掘り起こした時に伝わってくる「思い」を感じるのが大好きで、会ったこともない人のことをよく知ってしまうような気持ちになり、あながちそれは間違っていなかったりします。

そんなわけで、僕目線で気付いた彼女の作品に込められたものをいくつかに分けて紹介していきます。

河合さんは抜群の容姿とキュートな声で押しも押されぬスーパーアイドルとして活躍していましたが、デビュー時から歌唱力・表現力はずば抜けていました。

透明なファルセットは今聴くと薬師丸ひろ子さんの声質に似ていますが、表声のパワー感とビブラート、音感のよさは今の時代のアイドルには真似できない実力です。

しかも大阪生まれとは信じられぬほどエゴを見せる機会がほとんどない謙虚で自然体の性格は、おそらく生まれついてのものなのでしょう。

ライバルであるあまたのアイドル達との軋轢も聞こえてこず、実際活動中の13年間スキャンダルとはほとんど縁がなかったことは奇跡のようです。

そんな河合さんが音楽それ自体に関わるバックボーンに、小さい頃からピアノを習っていたこと、高校時代にマンドリン部に入っていたことが挙げられるでしょう。

Wikiによれば、デビューから5年目の1984年、彼女9枚目のアルバム "Daydream Coast" から歌唱以外にも録音に関与することとなり、オリジナル曲制作への意欲が湧いてきたそうです。

でこのアルバム、初LA録音であり、参加ミュージシャンがハンパない!

デヴィッド・フォスター、TOTOのポーカロ兄弟、ピーター・セテラといったスーパーアーティスト・プロデューサーが脇を固めているのです!

この翌年僕もアメリカに1年留学することになるのですが、日本と違い個人主義が徹底している向こうでは、冷蔵庫の飲み物からレッスンの内容まで自分が何をしたいのかよく聞かれます。

自分名義のアルバムなので、参加したミュージシャン達は彼女を間違いなく質問攻めにしたことでしょう。

そして彼らの誰かが河合さんに「やっぱ作るのはオリジナルじゃないとだめなんちゃう?」というアドバイスをした可能性は大きい。

もっと能動的に自分に関わる。当たり前ともいえる意識がこの時目覚め、自作曲への挑戦が始まったのだと思います。

そうして1年後、願いかなってベストアルバムのボーナストラック、という形で発表された河合さんの処女作がこの「夢かさねて」です。

歌詞は当時22才の河合さんの初々しさを感じます。売れ線とか全く意識していない(笑)。

そしてその自然体の歌詞とミスマッチな大仰なプログレアレンジは、鷺巣詩郎さんじゃねすか!

細部にこだわり抜き完璧を求める鷺巣さんのことなので、おそらくメロディラインなんかは彼によって相当直されているはずです。

84年から彼女の歌のアレンジに関わるようになった鷺巣さんも、ベストアルバムのオマケ的な位置ということで、結構好き勝手なことやってる感じですね(^^;;

何はともあれこうやってオリジナルソングの扉を開けた河合さん。

1年後に大きな飛躍が待っていました! 続く。


ソングライターとしての河合奈保子さん 2

他のライバル達と同様、デビュー時から5年以上、テレビ・ラジオに頻繁に露出しながら3ヶ月に1枚シングルリリースするというハードなスケジュールをこなし続けていた河合さん。

ヒットを飛ばすために、馬飼野康二、川口真、竹内まりや、来生たかお、筒美京平、尾崎亜美、八神純子、林哲司といったビッグネーム作曲家が彼女の曲に名を連ねたおかげで、チャートのベスト10をキープしていたんですね。

当時圧倒的な地位に君臨していた松田聖子さんも、オリジナル曲をコツコツ作り続けていたそうですが、彼女がオリジナル中心に舵を切るのは90年代になってからで、ひょっとしたら河合さんの影響があったのかもしれません。

荻野目洋子はじめ多くのアイドル曲の歌詞を手がけてきた作詞家の売野雅勇さんが、1984年から河合さんの曲にも関わるようになります。

この売野さんが86年から、河合さんのサウンドプロデューサーとなるのです。

おそらく河合さんはどこかのタイミングで彼にオリジナル曲を作りたいと相談し、忙しいアイドル活動の合間を縫ってデモ曲を作り始めます。

1986年の紅白で河合さんは、この2年間で100曲デモを作ったといっています。

おそらく売野さんがダメ出ししながら、いいメロディが出来上がるのを待っていたのでしょう。

処女作「夢かさねて」もこの中でできた曲なのかもしれません。これは鷺巣さんに仕切られた「企画もの」になってしまいましたが、その後河合さんのがんばりで遂に翌年の1986年、これはというメロディが出来上がります。

その曲に歌詞をつけたのは売野さんではなく、彼の弟子的位置でキャリアをスタートしたばかりの、吉元由美さんでした。

吉本さんはその後、平原綾香さんの「ジュピター」の作詞も手がけ現在も活躍中の売れっ子作詞家です。

売野さん自身が他の仕事で多忙だったこともあったと思いますが、それ以上に彼の中では作曲家・河合さんに対して、エルトン・ジョンと長年タッグを組んだ作詞家バーニー・トーピンのような相棒をイメージしていたのかもしれません。

実際吉本さんは、河合さんが引退する年まで彼女のオリジナル曲を共に作り続け、共同プロデュースするまでの深い信頼関係を築き上げることとなります。

(奇しくも二人は、結婚も出産の年も、女の子を産んだのも同じタイミングだったようです)

吉本さんが2018年GQ Japanに寄稿した、河合さんとの関わりについての記事が、多くのことを教えてくれました。

こうして河合さん主導オリジナル曲いちの代表曲「ハーフムーン・セレナーデ」が出来上がります。

ここからが売野さんのグッジョブ仕事となるのですが、このデモを上層部にプレゼンし、このタイミングで河合奈保子が全て作曲したアルバムを制作することにレコード会社がGOを出したのでした!

これを知った河合さん、さぞや嬉しかったことでしょう。

奇しくも同じ年、ライバルの中森明菜さんもセルフプロデュースで後々問題作といわれる「不思議」というアルバムをリリースしています。

1986年は、こういうアイドル生き残りの模索が始まった年なのかもしれません。

さて短期間でどのようにアルバム収録曲10曲を仕上げたのか。

これは吉本さんの上記記事に詳しいのですが、まず山中湖で制作陣が合宿。売野さんが大きなコンセプトを決め、それに従い河合さんがピアノでメロディを作り、できたメロディに吉本さんが歌詞を作る(いわゆる曲先)方法でした。

100曲のデモからもアイデアが取られたことでしょう。

コード進行などは、アドバイスする人がいたのかもしれません。

大体のアレンジもここで作ってしまったと思われます。

この後観音崎のマリンスタジオに移動し、オケ録りを開始。

この時にプロジェクトに加わったのが、名アレンジャーの瀬尾一三さん。

ニューミュージック全盛期に大活躍され、中島みゆき、長渕剛、徳永英明のアレンジに関わった方で、透明感のある独特の曲世界に定評があります。

(僕は瀬尾さんの名を、あみんのアルバムで知りました)

この瀬尾さんの活躍で、河合さんの楽曲はオーバープロデュースにならず、うまく統一感を出しながら河合さんの等身大の気持ちを表現することに成功しています。

音源完成後ノルウェーなどでMVと写真集の撮影をした後の1986年10月、"My Song" (本当はsをつけてほしかったが・・・)3部作の第1作アルバム「スカーレット」が遂に完成します。

シングルカットに選ばれたのが最初に作った「ハーフムーン・セレナーデ」。

11月に発売され、第1回ミュージックステーションや紅白歌合戦で、ピアノの弾き語りをするシンガーソングライターとして、驚きを持って迎え入れられ、6位にチャートインという大ヒットを記録したのでした。

(そして残念ながらこの曲が、彼女最後のトップ10曲でした)

・・・と書きながら全然知らなかったこの曲。

テレサ・テン風のフレイバーで、サビのコード進行が VIm → IIm といういわゆる演歌進行。

テンポ感やことばの乗せ方も昭和風。

BメロにJ-POP王道進行を使っているおかげでザッツ演歌にならずにすんでいる印象。

という感想が吹っ飛ぶぐらい驚いた凄いポイントが、サビ前のブリッジ部で引っ張る、♭9thのロングハイトーン!

コード進行との兼ね合いもありますが、当時の歌謡曲ではまず使われない危うい響きを、河合さんの透き通った力強い声が全て相殺し、持って行かれます。

ビギナーズラックかもしれませんが、このロングトーンがこの曲の希少性を決定づけ、名曲に押し上げたのではないでしょうか。

さらにこの曲は翌年香港でもカヴァーされ、広くアジアでも聴かれる曲となったそうです。

アルバムの他の曲も彼女の個性を垣間見せてくれますが、やはりこの曲のインパクトに叶う曲はなく、まだサビが弱く、ヒット曲狙いというよりコンセプトやアレンジに助けられている印象。

ただ曲先の制作法が功を奏し、バリエーション豊かでコンパクトに収まった楽曲を飽きずに聴かせてくれます。

サウンド感もまさに1986年そのもの。ドラムマシンの音圧感や分厚いリバーブが、懐かしさを感じさせます。

(ちょうどこの頃僕は留学を終えて卒業の年。函館市民ミュージカル「Again!」の楽曲制作と稽古に精を出していたことを思い出しました・・・)

何よりこうやってオリジナルを出す機会を勝ち取った河合さんには拍手を送りたいです。

そして彼女の作曲の技術と才能は、アルバムを出す度にどんどん開花していきます! 続く。


ソングライターとしての河合奈保子さん 3

「ハーフムーン・セレナーデ」のヒットにより、次回のアルバムもオリジナル路線で行くことになった河合さん。

サウンドプロデューサー売野さんが決定した次の方向性は「Japan」でした。

「ハーフ〜」の曲調に内包していた「和」の片鱗を膨らませたかったのでしょうか。

かくして前回と同じ制作陣と制作スタイルを取り、合宿によって短期集中で作られたのが "My Song" シリーズ第2弾「JAPAN as waterscapes」です。

1987年6月にアルバムが発売されチャート7位。

翌月シングルカットされ、チャート10位に届いた曲が「十六夜(いざよい)物語」です。

今回は楽曲を作るにあたり、日本各地の風景写真やキーワードを売野さんが提示、それぞれのイメージで作り上げていったそうで、この曲のテーマは「萩」。

「十六夜物語」はこの年の第7回日本作曲大賞で優秀作曲者賞に輝き、またなぜか、民主化直前にチェコはプラハで開催された、第9回プラハ国際音楽祭にエントリー、最優秀歌唱賞3位となってしまいます。

(チェコに大変な思いをして入国した経緯を彼女は「徹子の部屋」で語っています)

この年上京し、劇団に住み込みで下積み生活をしていた僕はテレビを全く観ず、当然この曲についても全く知りませんでした。

しかし今これを聴いて思うことは「えー、この路線でええんかい!」です。

曲自体は「ハーフムーン〜」の延長線上にあり、しかも曲調が石川さゆり・坂本冬美のネオ演歌路線。

他の曲についても、作詞家の売野さんがこだわっていたのは「日本的イメージ」というコンセプトであり、楽曲それ自体は全て河合さんに丸投げされていたんではないでしょうかね。

相変わらずまだサビが弱く展開も均一的で、それを吉本さんの和テイストあふれる詞でなんとか成立させている感じ。

売野さん本人はこのアルバムの出来に相当満足しているようで、自身でジャケットに細かく全曲解説を書き記しているのですが、伝わるのは彼の熱い想いばかりという・・・。

僕もたまにCMで「オリエンタルな和テイスト」を求められることがあるのですが、ここをはき違えるとダメ出しを食らいます。

例えばフレディ・マーキュリーの作った "La Japonaise" は見事に「外国人が憧れる日本感」を描き出すのに成功していますが、そこには「演歌にならない」「ドロドロ感を出さない」という不文律があり、日本人の制作者がそれを作るにはコード進行やメロディのレベルで相当気を遣う必要があるのです。

今回河合さんはまさにそのトラップを踏んでしまった印象。

彼女に音楽的なアドバイスをするスタッフはいなかったのではと推測します。

アレンジャーの瀬尾さんはおそらく「与えられたメロディにアレンジを施す」職人の役割をこなし、彼女のメロディ自体にはノータッチだったのではないでしょうか。

楽曲自体はよくできているので、河合さん本人も満足感はあったろうと思います。

(この曲を坂本冬美さんが歌えば、相当すごいことになるのでは!)

しかし、河合さんの声はこの歌世界を表現するには軽く綺麗すぎて奥行きがなく、「河合奈保子が歌う」イメージの矯正がコンセプトに押し切られ、当初のもくろみと別角度にいってしまった。

僕の推測が正しければ、アイドル性を求めるファンからは大きな乖離が生まれてしまったはずです。

そしてさすがに次回アルバムでは「和」方向をやめ、河合さん自身が求める良質なポップスを作ることに軌道修正されます。

この遠回りが、シンガーソングライター・河合奈保子の才能を開花させ、きらりと光る作品が生まれることとなるのです! 続く。


ソングライターとしての河合奈保子さん 4

1988年、河合さん24才の年、売野さんプロデュースによるオリジナルアルバム、"My Song" 第3弾「Members Only」が作られました。

今回は「女性限定のパーティで語られるそれぞれの人生」というコンセプト。

前回のイメージを全く受け継がなかったのは賢明だったと思います。

この「三度目の正直」の軌道修正が功を奏し、河合さんはシンガーソングライターとしての実力を一気にステップアップします。

アレンジャーは前回までの瀬尾さんから、ギタリストの永島広さん&キーボーディストの高橋千治さんにバトンタッチ。

オールディーズをベースとした大瀧詠一さん方向、そして以前のアルバムを共同制作したLAの名うてのミュージシャン達に影響を受けたコンテンポラリーポップス方向にぐっと舵を切ります。

楽曲の創作にも大きな成長がみられ、キャッチーなサビ、意外なコード進行などが随所に垣間見れます。

忙しいタレント活動、あるいはミュージカル公演などの合間に、これだけの上達ができたのは彼女の才能なのでしょう。

普通にクラシックピアノだけを習っていては絶対にこういうことは起こりませんが、YouTubeで過去の発言を観ているとどうやら彼女は、小学校の頃からコードを独学で学び、弾き語りをしていたとのこと。

なるほどなと納得です。

このアルバム「Members Only」が世に出る1ヶ月前の1988年3月、先行シングルとして「悲しい人」がリリースされます。

ファンでは評価の高いこの曲も、シングルとしてはちょっと地味だったかもしれません。

チャート21位と売上は伸びず、苦戦を強いられます。

もっといい曲がたくさんあったのに!

そう。このアルバムの中で、際立っていぶし銀のように光る名曲があったのです。

それが「Dear John」。

彼女の音域を目一杯使い、ドラマティックで深いこのバラードを初めて聴いて、うなってしまいました!

なぜこれをシングルにしなかったのか!

以前デュエットした、シカゴのピーター・セテラが歌っても遜色ない、時代を超えた名曲だと思います。

驚いて検索してみると、やはりこの歌推しの多くのファンが熱く語っています。

河合奈保子が自力で到達したひとつの頂点とさえいえるこの曲。

ぜひ再評価され、世に出てほしいと思いました。

深掘りしてみるもんですね!

残念ながらこの曲はアルバムに閉じ込められたまま、アイドルとしての河合奈保子はあまり評価されることなく、新しいアイドル戦国時代の中で少しずつ埋もれていきます。

(前回のネオ演歌路線のイメージが世間から払拭しきれなかったのも一因かもしれません)

ただ作家としては少しずつ認められ、いろんな所から曲のオファーが来始めます。

今は閉園してしまった神戸ポートピアランドの社長が自ら作詞したテーマソング「Harbour Light Memories」は、河合さんのアイドル時代を彷彿させるキャッチーな歌謡曲だったため、アルバムからのシングルカットを急遽変更し、30枚目の彼女自身のシングルとして発売され、チャート18位を獲得しています。

さらに、香港のジャッキーチェンからラブコールと共にデュエットソングの依頼が舞い込み、「愛のセレナーデ」を作曲、日本語・広東語両方でレコーディングされて、香港での人気を勝ち取ります。

こんな中、さらなるブラッシュアップを求めて次なるアルバムの制作が開始されます。

今までとは制作方法をガラリと変え、作詞家だった売野さんでは不可能だった音楽的なアドバイスもできる強力な助っ人、ゴダイゴのミッキー吉野さんが新しいプロデューサーとなって、河合さんの作曲スキルは異次元の方向へと飛躍していきます! 続く。


ソングライターとしての河合奈保子さん 5

1986年から年1枚のペースでアルバムリリースを続けた "My Song" 三部作のプロデューサーだった売野雅勇氏は、作詞家的な発想から、トータルコンセプトにこだわっていました。

おかげでこの三作品は、邦楽には珍しいコンセプトアルバムとして楽しめる作品となった反面、作曲そのものの作業は河合さんに一任され、(彼女の努力と才能の開花への大きなきっかけとはなったものの)アーティスト像を確実に反映したものにはなり得なかったように思います。

その反省からか売野氏はプロデュースを降り、代わりに白羽の矢が立ったのが、ゴダイゴのミッキー吉野氏。

ミッキーさんはまず、詞が弱いと踏んだのでしょうか、今までコンビを組んで来た作詞の吉元由美さんを外し、代わりに稲垣潤一・徳永英明といったアーティスト(そして宇宙刑事ギャバンのテーマ!)の詞を手がけてきた、さがらよしあき氏を起用。

そして演奏陣はミッキーさんのコネクションをフル活用しほとんどが外人勢で占められ、レコーディングはかつて河合さんが影響を受けたLA、そしてオーストラリアで行われました。

おかげでオケの出来は最高で、ミッキーさん得意のブラスアレンジと、エレキギターメインの立体的なバンドサウンドが彼女の作品に新しさをもたらしています。

またこの時英語の間違いも指摘されたのか、"My Song" という冠も下ろされました。

この制作スタッフにて、1989年に「Calling You」、1990年に「ブックエンド」という2枚のアルバムを世に出します。

ミッキーさんという音楽の師を得たおかげで個々の曲は磨き上げられ、印象的なAメロ、キャッチーなサビ、意外性のある展開部といった「売れ線の基本」もバッチリ押さえられて、作家として大きな飛躍を遂げています。

何より心の余裕が曲に感じられ、本人もとても楽しい時間だったのではないでしょうか。

僕の心にドストライクだったのが、それぞれのアルバムの1曲目。

「あなたへ急ぐ」と「美・感性」。

中でも「美・感性」は、スピード感のあるマイナーなロックで、Bメロで唐突に短三度上に転調!するという、予想の斜め上を行くプログレな離れ業を繰り出している、僕の中では河合奈保子作品史場ダントツ1位の名曲です。

河合さんはこの曲を珍しく詞先で、時間をかけて作ったそうです。

クイーンの "One Vision" を想起させるアカペライントロも、ミッキーさんのキーボードソロやキメもめちゃんこかっこいい!

いや〜まさか、あの河合奈保子がこんな曲を作っているなんて全然知りませんでした。

この曲もぜひ、アルバム「ブックエンド」と共に再評価され世に出てほしいです!

しかし残念ながら、この2枚の売上は振るわず、どちらもチャート66位という惨敗でした。

まず「Calling You」のほうはせっかくいい曲・いい演奏が揃っているのに、歌い方のほとんどを声量のないファルセットで歌っています。

そうだった!この年はあの西城秀樹ですら熱唱を制限された「やさしい声」圧力の年でしたね。

河合さんの強みであるパワフルな表声とビブラートが全面的に抑えられ、声がオケに負けている印象です。

「ブックエンド」のリリースは奇しくも河合さんデビュー10年目の年。

前作の反省からか表声で歌う曲が増え、楽曲も捨て曲ない素晴らしいアルバムだったのになぜ売れなかったのでしょう?

アルバムジャケットが中身を全く反映していないほのぼの系イラストだったのも一因かもしれません。

1990年といえば、米米CLUB、B'z、プリプリ、チェッカーズ、リンドバーグといった実力派アーティストがバンバンヒットを飛ばしていた時期。

そんな中河合さんはバラエティで未だにデビュー直後の「Smile For Me」なんかを歌わせられ、彼女も愚直にそれをこなしていて、オリジナルの新曲をプッシュする余裕がなかったのではないでしょうか。

この後河合さんは、今まで断っていたというテレビドラマへ多数出演し始め、新しいアルバムを作るまで3年待たなければならなくなります。 続く。


ソングライターとしての河合奈保子さん 6

ここまで書いてきて不意に思い出しました!

僕は一度河合奈保子さんとエレベーターで挨拶したことがあった!(笑)

1993年、当時曙橋にあった今はなき当時僕が所属していた事務所で、同じ事務所所属のMAYUMIさん(麗美さんのお姉さん)が河合さんの曲を書くということで打ち合わせをしに来ていたところに偶然遭遇したのでした。

メガネをかけていて全然気付きませんでした。

さて。これから書くことはあくまで僕の想像です。

お金をかけて制作されたミッキーさんプロデュースの2枚のアルバムが惨敗だったことは、河合さんの今後の活動方針に大きな影響を与えたでしょう。

上層部からは「好きに作らせてたら変な方向にいきやがって」みたいなことをいわれたかもしれません。

YouTubeに上がっている動画をチェックすると、河合奈保子は90年代になっても未だにアイドルとして扱われ、香港や台湾に招聘された時も当時の歌を歌わされて、困惑しながらもしっかり仕事をこなしていました。

本人がやりたいことと世間のイメージとの間に大きな乖離があったことは間違いないのではないでしょうか。

この年からオリジナル曲のアルバム作りはお預けとなり、それまでいろんな番組で「歌に集中したいのであまりやりたくない」といっていた、ドラマの芝居の仕事が激増しています。

やはり事務所の意向だったんだと思います。

河合さんはそれを愚直に真面目にこなしていきます。

ここまで彼女のオリジナル曲を聴いていてわかるのは、彼女が実はとても几帳面で職人気質であること。

(例えば僕のように(^^;;)オレがオレがの人だと、曲をどう作っても、自分を観てくれ〜、という主張が色濃く入るものですが、彼女の曲は変幻自在。

プロデューサーの意向に答えたいと、自分より楽曲のよさを第一に制作しているようで、まさにそれってプロデューサーとか作家的なアティチュードです。

本来は裏方が合っているのに、麗しい容姿のおかげで表に出なくてはいけないということに、密かに悩み続けていたのかもと思ってしまいます。

そんな中でオリジナル曲の創作は、忙しい彼女の中でオアシスのような楽しい時間だったのではないでしょうか。

ひょっとしたら上層部と「3年間がんばりますから、3年経ったらまたオリジナルアルバムを作らせて下さい」と直談判したのかもしれません。

その日がくるのを励みに、芸能活動を着々とこなしていったのかも。

こうして3年が過ぎた1993年、6枚目のアルバムを作ることが決定されます。

バブルが弾け、制作費も減ったことでしょう。

著名なプロデューサーはつかないこととなり、河合さんはかつてコンビを組んでいた作詞家の吉元由美さんを呼び戻し、彼女と共同でセルフプロデュースすることとなります。

今回こそしくじらないようミーティングを重ね、楽曲はオリジナル5曲、依頼曲5曲となり、しかもオリジナル曲は河合さん本人が作詞もすることとなります。

そんな経緯で、MAYUMIさんにも依頼が来、僕も一瞬お会いする幸運を得たわけです。

こうやって作られたアルバムが、彼女最後のオリジナルアルバム「engagement」です。

依頼曲はおそらくコンペなどで河合さんのイメージを考えながら選んだのではないでしょうか。

アレンジャーには、後輩EPOさんとのタッグで名を馳せた清水信之氏、90年代の蒼々たるアーティスト(我らがReebow含む!)を手がけた西平彰氏が参加。

きちんとアイドル河合奈保子の透明で切ないイメージにフォーカスした、捨て曲のない極上のJ-POPアルバムに仕上がりました。

中でも僕のお気に入りは2曲目の「言葉はいらない」。

ビーチボーイズ "Pet Sounds" 風の美しいアレンジを清水さんが見事に手がけ、当時のEPOさんが歌っても違和感のないキャッチーな名曲に仕上がっています!

ああそれなのに・・・

このアルバムも全く売れず、チャート圏外という結果が待っていました。

河合さん、心が折れてしまったのではないでしょうかね・・・

翌年3月、アルバム未収録の「夢の跡から」というオリジナル曲のシングルをリリースし、これが彼女最後の楽曲となります。

そうしてさらに2年、ドラマ出演などを続けながら、1996年、当時彼女のヘアメイクを手がけた金原宜保氏(その後宇多田ヒカルなどとの仕事で活躍)と電撃結婚。

翌1997年、第一子出産を契機に芸能活動を停止。

オーストラリアへ移住し、芸能界の仕事を完全に辞めて事務所からも退所し、現在に至ります。

こうやって彼女の足跡を追っていくと、やり残したことはないと思うぐらい芸能活動はやりきり、燃え尽きたのではないでしょうかね。

表には出せない嫌なこともたくさんあったでしょう。

素直に、おつかれさまでしたといいたいです。

たった6枚のアルバムを聴いただけですが、彼女の思いを少しだけ知れ(た気持ちになれ)て、気が済みました。

ちなみにその後河合さんは2006年、自宅で作曲し録音したピアノ作品集「nahoko 音」をiTunes限定で配信。

また2012年、彼女の次女kahoが14才でデビュー。

彼女とは全く違う低音が魅力のソウルフルな歌唱でデビューし話題を集めたものの、河合さんが学業に専念させたいという強い意向で、翌年日本での活動を停止しています。

いつか自然体で、オリジナル曲を歌う河合さんのステージを観てみたいです。 了。

PS. ずーっと思ってたんですが河合さん、ジョー・リン・ターナーに似てるよね〜(^^;; 鼻の形が近いんで、声の感じも似ている!

#河合奈保子
#作曲
#明石隼汰

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