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沸騰の夏

夏の気配がする朝のマドリード。
その訃報に、あたしは二度寝から飛び起きた。

魂のバックパッカー

バンコク勤務していた頃のこと、気づいたら旅人然とした青年がオフィスの真ん中で立ち尽くしていた。
サンダル履き、ヨレヨレのTシャツにテロテロパンツ。
こりゃ、カオサン通り歩くザ・バックパッカーそのものでございますな。
顔をピカピカに輝かせて嬉しそうにしている。
どないしたん?

いい意味でも悪い意味でも冒険心に富んでいる社長が、彼を雇うことにしたらしい。その旅人は、汗をかきかき眩しいくらいのエネルギーを身体いっぱいみなぎらせていた。

それがハマちゃんだった。

彼、英語は得意らしい。

「いやぁ、遠くから俺目ざして金髪女が髪振り乱して走ってくるから、誰かと思えば、母ちゃんなんすよ。見た目がかなりアメリカ寄りのハーフなんで」

ハマちゃんはクォーターだった。
どうりで顔のつくりも西洋っぽいし、たしかに色白。

あたしよりもずっと賢い東京の一流大学卒業していて、以前は高校教師だったらしい。
へー。だけどこの会社って、男には容赦ない体育会系だよ。
大丈夫かいな。

「インド好きっす。ガンジス行ってきたっす。そしたら、すこし離れた川面を人の死体が流れてました。ええ、かなりエグいっすよ…。でもまぁ、せっかくのガンジスだから、そこで沐浴してきました!」

意外とこの会社に合う「魂」持ってるかもしれへんな。

当分のあいだ、彼はバンコクオフィスで広告代理店の営業業務について修行をすることになった。

「いや、皆さんお仕事がすごくデキるんで、学ぶことばっかりっす」
「バンコクなんて、日本食だってあるし、タイ料理美味いし、天国。最高っすよ」
「白さんは、ホントに俺の憧れっす」

調子こいてんなぁ。

だが、彼は地頭が良かった。
仕事は何でも嫌がらずに引き受け、ちゃんとこなした。
上司、同僚、そしてクライアントになぜか愛される不思議な魅力があった。

やがて彼は、ニューデリーに新しく出来たインド支社への配属が決まる。

「絶対インドに来てください。僕、全力で白さんのアテンドしますんで」

ほな、あたしが行くことあったら(どーせないけど)、頼りにしてるわ。
身体に気ぃつけてね。

キミはインド人かい?

立ち上がったばかりのインド支社勤務は、なかなか大変らしかった。
当時のニューデリーの慢性的な電力供給量不足で、エアコンもなかなか使えない。
日本やタイとはレベルの違う衛生状況、気をつけていても起きる食中毒。
「あっちのメンバーは業務以前の課題に直面しながら仕事している」
インド出張から戻ってきた人々が言っていた。

「いろいろありますけど、でもインド最高っすよ。女の人、めちゃキレイっす。それに僕、カレー大好きなんすよね。日本食も恋しいっちゃ恋しいけど、僕はカレーが続いても平気っすよ」

ハマちゃん、かなりインドに馴染んどるやん。
その証拠に、彼は「アチャー」の使い手となっていた。

「アチャー」とは、インド人が相槌を打つときに使う言葉だ。
ヒンディー語、かな。色んな場面で使えるマジックワード。

「アチャー(了解)」
「アチャ(OK)」
「アチャ~(なるほど~)」
「アチャ?(マジ?)」

言いながら同時に首を横にふわふわと振る。
首を横に振るけど「ノー」ではない。
かなり「イエス」なんである。
インド勤務になったあとも、たまに出張や休暇でバンコクにやってきたハマちゃんは、日本人のあたしらにも間違ってこの魔法の言葉を連発した。

「ハマちゃん、お昼ごはん行こう!」
「アチャー」(首振り)
「ハマ、飲みいくぞ」
「アチャー」(首振り)

ハマちゃんよ、キミはもうインド人になっちゃったのかい? 

タージ・マハール

ある時、なんとあたしが仕事でインドに行くことになった。

夏は酷暑の首都ニューデリー。
熱気で顔は赤かったかもだが、心の中であたしは青ざめた。
命に関わるくらい町の空気が沸騰しているのだ。

一瞬で人を不快にさせるその気温は40数℃。50℃を超える日もあるとか。
エアコンの効かない支社オフィスの中で、生まれて初めてくらいボトボト汗をかきながら仕事した。身だしなみより命が大事、そんなこと考えた。
別件で忙しいハマちゃんはそこにいなかった。

彼に再会したのは、あたしが地方都市を巡る1ヶ月の作業を終え、ニューデリーに戻ったときのこと。
疲れてはいたが、インド支社長の勧めもあり、この国を去る前の最後の週末に、自分へのご褒美でタージ・マハルに行くことにした。

気がつくと、すぐそばに顔をピカピカ輝かせたハマちゃんがいた。

「白さん。僕、ご案内します! もう10何回もいろんなお客さんをアテンドしてますから、慣れてますから!」

そこで、約束を遵守する男ハマちゃんとあたしは、あのインドの宝石、タージ・マハルのあるアグラへ向かった。
ニューデリーからの日帰り弾丸ツアーを決行したのである。

暑さの盛りは過ぎたと思ったが、アグラをなめたらあかんかった。
強い強い太陽の日差しと熱気で歪む景色。

灼熱の空気の中、絶対美の権化みたいな世界遺産の白い霊廟が佇んでいた。

「ほら、周囲の4本のミナレット(塔)は、少し外側に傾いてますよね。万が一、地震が起きても建物を傷つけないよう外側に倒れさせる設計です!」

くそ暑い中、自分だって累積した疲労でヘロヘロのくせに、貴重な週末を潰して付き合ってくれるハマちゃんのガイドだ。

霊廟の内部を見学するため、靴を脱いで白い大理石の上を裸足で踏み入れる。その途端、あたしたちは熱く灼けたフライパンの上を弾けるポップコーンみたいになった。

「あっち! あっち! 熱っち!」
「うわぁぁぁ。ちょっと! これ、熱っ。熱っ!」

白い大理石でも、直射日光でこんなに床が熱くなるのん?
黒の大理石を使わなくてよかった。
いや、そんなこと言ってる場合やあれへん。
目指す建物の入り口は、ずっと先や。

周りのインド人が笑ってる? どうでもええわ。

「あかん。戻ろっかな」
「何言ってんですか、ここまで来て。あの日陰目指して!」
「靴、履いたら…」
「絶対ダメ!」
「無理ぃー」
「大丈夫。行けます! オラ走れ!」
「ひぃー」

なんとなくハマちゃんの言葉遣いがいつもと違う気もしたが、それを指摘する心の余裕は1ミリもあらへん。
なぜ他のインド人観光客たちは、熱い床の上を落ちついて歩ける?
みんな火渡り上手な修験者か。
単にあたしらの足裏がお上品なん?

ようやく霊廟の入り口にたどり着き、ひと息つく。
聞けば、ハマちゃんもこんなに床が熱かったのは初めての経験らしかった。

やがて平静を取り戻した彼は、すぐに建物内部の繊細に装飾された大理石の壁を指差す。

「見てくださいよ。色のついた石をはめ込んでこんなに繊細な模様が作られているんです。すごいっすよね。来てよかったでしょ?」

キツかったあたしの1ヶ月のインド出張は、最後に夢のように美しい世界遺産を堪能する楽しい思い出で飾られた。ハマちゃんのお陰やった。

東京での再会

いつしかあたしもハマちゃんも会社を辞めた。
彼は日本に帰った。

彼はライターになって、結婚した。子どもさんもできた。
SNSで多くの人と繋がっていて、人気者だった。
食べることが大好きで、格闘技やスニーカーが好きで、オザケンが好き。

そんな彼が書いたビジネス本が大ヒットしたのを知った。
日本はおろか、韓国語、中国語など海外向けにも翻訳される超ベストセラーとなったのだ。面白くて、夢中で読んだ。
あたしも今ライターしているけれど、この点ではハマちゃんは大先輩だ。
いや、追いつけそうにもない。
すごい! やっぱ彼には「魂」があった。

海外在住が長かったあたしは、インド以来ずいぶん経ってから東京で彼に一度再会している。
夏だった。
なぜか会うのはいつも暑い時期やんね。
やっぱり彼は、全力であたしのためにスケジュールをあわせてくれた。
連れて行ってくれたのは、おいしい台湾料理のボロくて小さなお店。

太って一段と貫禄がついたハマちゃん。ふふ、あたしも老けたやろ。
でも顔を合わせたとたん、あの頃に戻って自然とあのタージ・マハルや沸騰レベルの暑いインドやタイの話題になる。
汗をかきかき、げらげら笑った。

ひと息ついたとき、彼はちょっと寂しげに自分の離婚について語った。
そしてとても自慢気に息子さんのことを話してくれた。

わかるよ。
あれからあたしたちの間には、長い時間が流れてたんや。


その日、昼ごはんに付き合ってくれるだけで充分やのに、あたしが東京を離れる夜までずっと付き合ってくれたのは、いかにもハマちゃんやった。

「さいなら。お元気で!」
「ありがとう。ばいばい」

これがあたしらの最後やった。

また逢おうよ

今年の夏、あたしはスペインから帰国する際に、仕事の関係で東京に滞在する予定だ。

あたしは知ってる。
「そういうわけでハマちゃん、東京行くからさ、数年ぶりに会われへん?」
そう言ったら、絶対時間を作ってくれるはず。

彼の近況を伺うべくSNSを覗いた。
数日前にコンサートに行ったとかで、コメントも沢山。
いつもの賑やかな平常運転だ。相変わらず、太陽みたいな人。

よし。帰国日程が決まったらDMで連絡しよ。

あたしは眠りについた。


睡眠不足が続いていたあたしは、朝に一度目を覚ましたものの、また二度寝してウトウト。


するとケータイの通知音がした。


見れば、今もバンコクに住む昔の仲間から、久しぶりのメッセージ。
なになに?


「ハマちゃんの件、どなたかから連絡が行きました?」



あたしの眠気が吹っ飛んだ。


沸騰の夏

バンコク時代の上司や同僚から、マドリードにいるあたし宛に次々とメッセージが届く。
言葉少なに伝えてくる、ハマちゃんに関する報せ。

みんなが言うからには、そのニュースは現実ってこと?

同時に、これだけみんながハマちゃんのこと言ってるのに、当人がダンマリであることが、とても不思議に思えた。

だって彼のSNSは、変わらずいつもの賑やかさ。

でもよく見れば、最後の更新は4日前で止まったままだった。


ケータイを放り出して、ぼんやり思う。

あたしは冬のハマちゃんを知らへんな。
常夏のタイで、灼熱のインドで、蒸し蒸しの日本で。
仕事や食事で会う時は、いつも最強に暑い国で、お互いみっともないほど汗かいてた。

ハマちゃんのせいでタージ・マハルは世界遺産以上の特別な場所になってもうたやん。もう行かへんよ。

ドロドロに暑くてもええから東京で逢われへん?
化粧が汗で全部流れ落ちて見苦しくても、あたしはそれでええねん。
キミに逢えへんよりマシや。

もうじき日本とインドに夏が来るよ。

ハマちゃんなしの沸騰の夏が。


                           (08/06/2022)