12【実録 遊離皮弁術体験談】
今回の事故で受けた全12回の手術の中で、
最も長く
最も大きく
最も苦しかったのが、遊離皮弁術…。
背中の皮膚と筋肉を摘出し、右の足に移植する手術でした。
遊離皮弁術というと、乳がんなどで体形が変わってしまった人の、背中など大きな場所の皮膚を切り取り、欠けた部分に合わせて形成して移植する形成外科手術です。基本は皮膚だけを切るのですが、私の場合は「足の筋肉も皮膚もない所に自己移植で筋肉と皮膚も持ってくる」という、聞いてても血の気が引くようなとんでもない大手術でした。
手術の説明時、「明確な時間が分からないが朝行って夜帰って来る」としか言われず、今までさんざ手術で怖い思いをしてきた私には気を失うには十分な威力の言葉でした。
背中を切って、筋肉も取って、皮膚も切り取って、それを右足に?
え、怖い。なにそれどえらげにゃぁ怖い!!!!!!!!!!!!!
頭では必要性や手術の内容とあるべき結果を理解してもひたすら恐怖し、見事に不眠を再発。眠剤を飲んでも手術を夢に見て泣いて目を醒ます事もありました。
この頃は自力で身体を起こす事もかなわないほどで、部屋どころかベッドからも動けない日々でした(ついでに点滴パーティーだったので動けなかったも正しい)
この手術を超えれば、いずれ車椅子でも動けるようになる。
そうなったら、ガラスで区切られた”外の世界”に戻れるようになる。いや戻るんだ。でも、でも本当に怖い!
ベッドでエレベーターを待ちながら、母に発破を掛けられながら、大好きなラーメンを食べるんだマック行くんだ和ちゃんのたこ焼き食べるんだめりけん堂行くんだ、いやまずローソン行くんだからあげクン買うんだ…
(春日井市民病院の1階に売店としてローソンが入っている)
涙腺が決壊
エレベーターホールで決壊した私はギャンギャン声を挙げて泣き「加害者を56してやる!地獄に落としてやる!!」と呪詛を吐き、手術室に入ってもぐじゃぐじゃ泣いてました。
そんな私に母は極めて冷静に「あんま泣いてると麻酔掛けれなくなるよ」とピシャリ。くそぅ元看護”婦”の胆力よ。私にはそんな豪胆さありません。
(一回弁護士を通じて加害者が直接の謝罪を申し入れて来た時「顔も見れるか!野郎の足喰い千切る!」と発狂した私に「人間の肉は美味しくないから辞めなさい」と突っ込む人)
目を真っ赤に腫らしながらオペ看さんと本人確認をし、手術室に入ると主治医を始め7人くらいいるんですけど…緊急手術の時くらい人がいる!
やっぱこの手術すごいんだなぁ~…あぁー麻酔入りまァ~~~~…
睡眠麻痺を持ってる私は「麻酔から起こす時は体を揺すってくれ」とお願いしていたので、オペ看さんに肩を揺すられ目を覚ましました。
慌ただしく動く手術室、一切の経過を知らない私は背中にビキッと走る「痛い」に脳が殴られ覚醒しました。そしてあの手術を超えられた実感も湧きました。
手術室は煌々と明るいので判らなかったのですが、あっという間に部屋に戻された時…
屋外が暗いし、消灯してるんですけど。
(消灯時間は21時)
病棟看護師さんのチェックや新しい点滴を受けたのですが、ホント「傷口を押し開く」ような確認の仕方はやめてくれぇ!!!
痛みなどで身体を捻れないので、全体重が背中の切開痕に全集中!!
消灯を過ぎていたので「大きな声を出さないでね」とは言われたけどもうちょっと考えて下ちい。マジ痛かった…
しかし、まだこれは
これから始まる地獄の号砲でしかなかった。
背中の切開痕に体重が乗らないよう、ブラウン架台で身体は斜め、しかし頭は水平なんていう矛盾もあり、この目のストロボもあって激しく酔い、何度も吐きました。もう24時間以上食事をしてないのでただの胃液でしたけど、横になったまま逆流してくる胃液を抑えることもできず、ナースコール連打。この一夜だけで今までの入院期間を超える回数を押しました。
目を閉じてもバチバチ映るのは脳をモミクチャにして、精神もゲッソリ。
酔い止めを点滴注入されてなお収まらず胃液も枯れ、ひたすらえずき、辛くて苦しくてまた泣き始めた時、涙の出方がおかしくて、眼球が濡れない。
思わず手で拭うと…ヌルッ
「これは、眼軟膏!!!」
主に眼病治療のため使われる、眼球に直に塗れる軟膏があるんですが、眼球の乾燥を防ぐために塗られる事もあるのを”偶然”知っており、涙を拭ったはずの手に付いた油っぽい感触に、軟膏の存在を思い出し「まさかこのストロボの原因はこいつか?!」と思った刹那ティッシュやタオルで目を強めに拭い、瞬きをして涙を行き渡らせたところ…
ストロボが消えた!
点滅が消えた所、視覚的ストレスが消え、酔いも驚くほどに引いて行きました。こういう処置をしたんだったら何か教えて欲しかったなぁ。私は眼軟膏の存在や使われ方を偶然知ってたから良かったけど、一般的な人ではご存じない方が多いのでは。しかし、ストロボは二時間くらい耐えました。
酔いを撃退し、少しは落ち着けるだろうと思っていたら、右太ももの外側がジリジリ痛み出しました。最初は気になる程度だったのが、時間を追うごとに倍増してきてやがて耐え難い熱感と痛みを抱える事に。
ナースコールで看護師さんを呼び付け痛みを訴えるものの、誰が見ても皮膚に明らかな異状が確認できず、熱感の解消のためにアイスノンを渡されるのですが、触れただけで電気が走るような痛みが襲い、痛み止めの点滴や錠剤を施されてもちっとも治まらないし、術衣でも触れようものなら熱したフライパンを押し付けられたような熱感と痛み。これはどうしても自力で解決できず、翌朝までこの原因不明の痛みに泣かされました。
防災の勉強をすると必ず覚える「333の法則」
人間は空気なし3分 水なし3日 食料なし3週間 という人間の限界を言語化したもの。防災を始めサバイバルでも聞く言葉です。
私は一日で!限界でした!
水分制限は手術前日の19時からだったので約36時間近い飲水制限で、喉が渇くというか水をくれ、ただ水をくれ、と言う感じでした。
点滴で体内に水分は十分に供給されていたのですが、あの喉のガサつきは耐え難かった。氷を口に含むのは良いと言われたので一時間を待たず「氷を下さい」と愁訴しまくり。しかし3回目からは持って来てすら貰えなくなりました。胃液を吐いた後処理で貰えるうがいの水をちょっとだけ頬に残して…とやると看護師さん見抜くんですね。「ダメよ!」って頬を突かれました。
しかしこの時には前述した太ももの痛みに思考を支配されいつの間にか時間は過ぎて行き、朝を迎えていました。
カーテンの外が賑やかになり始めた頃「飲水制限っていつまでですか?」と
担当看護師さんに聞いたら
「あ、もう終わってますよ。飲みます?」
言ってくれよォ!!!!!!!!!!!
私は「シェーグレン症候群」で粘膜乾燥が特に強いため余計に水分制限がキツかったのかも知れません。
防災備蓄にも水はしっかり入れておこうと思います。
痛みで精神が削られてるので、本当に今思えば些末で些細な事にも腹を立ててしまってました。でもさぁ、消灯してるのに電話しだすのはさすがにどうよ???
飲水制限やストロボを乗り越えても、太ももの痛みはどうしても戦えなかった。朝の検温を終え、周りの患者さんの朝食が終わった頃執刀医で主治医が様子を見に来ました。すかさず「今すぐ右太ももを診ろや」と腕を掴んで恫喝(汗)
明るくなった部屋の中で主治医に見て貰った所、広範囲の擦り傷ができていたそうです。少し裏側なので身を捻れない私では見えないし、ルーメンの高い首提げライトだと擦れた跡が蒸発して確認できなかったのかと思ってます。ゲンタマが来たのは昼前だったのですが、軟膏を塗る瞬間もガーゼが触れても痛くて「どうにもならないんじゃないか」という諦めも芽生えかけていたのですが、しばらくすると痛みが引いて行き、熱感もやがて収まっていきました。
終わった、地獄が、終わった…
とにかく、今自分に降り掛かる火の粉をやっと、払い除ける事ができました。涙腺がボロボロの私はまた泣きました。
手術中の体勢はさすがに説明されませんよねぇ。
後々、件の怪我の場所を鏡で確認したら「事故の時の擦り傷」と「手術の擦り傷」がどす黒く残ってました。
…事故の時ココ怪我してたの??
背中の皮膚と筋肉を摘出しているので、手術痕は大きく深く、出血も相当でしたが、もう縫われているんだから外に出てないんだろうと思ってたら
背中から2本チューブが生えてるんですけどぉ!?
ただこれに気付いた時には擦り傷の痛みも収まり、水も飲める食事もできるようになった頃。
某ドラマのように「なんじゃこりゃああああ!」が決めれましたw これだけの切開痕でも、ドレッシング(透明な医療用防水テープ)で塞がれているから血が漏れてないんだと思ってました。
チューブ刺さってるなんてちっとも感じなかったんだよ
バネを内蔵して、バネの力でパックの中を押し広げて陰圧(外気より圧力が低い=吸い出す力)を作りドレーン(排出された血液や体液)を吸い出す医療器具で、数日に一回 中に溜まったドレーンを排出してたんですけど
どう足掻いてもバイオハザード
血液って感染源として直接の接触をしてはいけない、高度の警戒をすべき医療廃棄物になるので、中身を取り出す看護師さんも二人一組だったり、新型コ□ナみたいな重装備だったり。背中なので見えなかったんですけど、自分の血液が「ブチュブチュブチュ!」と音を立てるのは事故を思い出し悲鳴を上げてました
さて、遊離皮弁術で背中の筋肉(広背筋)を摘出し、右足に移植したと言いましたが…
背中の筋肉が、移植されたからって足の筋肉の機能果たすもんなん????
遊離皮弁術してすぐは、右足を踏ん張ると左の背中が突っ張り、逆も然り。
なにこれキモイ!!自分の体だけどメチャクチャキモイ!!!
接続間違えた機械じゃないんですから!何で背中に力入れて右足が動くねん!こわ!こんっわ!!これ適応するん?!
→しました
ドレーンパックは術後10日か二週間過ぎたくらいに回診で判断され、遂に抜けることになったのですが、まさかその場で縫合糸切られて引き抜かれると思いませんでしたとも。特に「これからこうする」という説明もなくマンガのように「ガーゼとハサミ」の後いきなり糸切られて。糸切る時ハサミを捻るもんだから肉が巻き込まれて余計痛い!
せめて「今から切るよ」とか声かけてくれ。心構えもできずいきなりの激痛に本当に叫んだよ。
そこんとこ。
左の脇を脇の下からおヘソの高さまで縦にズバリと切られ、手術痕はさすがにキレイに治らず若干のケロイドを抱えつつも塞がりました。
ただ、8/16時点でもたまにビリビリしたり、引き攣って痛んだり、ラジオ体操ができなかったり。
背中の皮膚と筋肉を移植された右足は内側のスネの真ん中からくるぶしを超えて縫い付けられたので、私の右足は内くるぶしが失くなり、皮膚の盛り上がりで明らかに「異形」の右足となりました。最大最悪の頃に比べれば今では随分むくみも消えスッキリはしましたが、靴下などで隠しても内側がボン!と膨れていて。
こりゃー嫁には行けんな
と諦観を超えて達観に至っております。この頃から自分を「フランケンシュタインの怪物かよ…」と思い始めていました。
もうちょっと形を整えれはしなかったのか…この盛り上がりは脂肪なのか水分なのか…それにこの時はまだ背中の皮膚で塞げなかった部分がまだ空いたままで、もう一回植皮術を受けなければならない状態でした。
地獄は終わったかも知れないが、この傷は一生引き摺るんだよなぁ。
そう思うと加害者へ、煮えたアスファルトのような怒りが今でも湧いてくる。
恨みは持ち続けるだけ無駄だとか説く人もいるだろう。
無駄と嘲笑われても、どんな高説で説かれようとも、自分の精神を自ら削ぎ落とそうとも、この怨嗟はいつまでも噴き出すだろうし、私に許すという選択は存在しない。
まぁ、加害者と相見えるのはまだまだ先になりそうだが。
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