組体操(人間ピラミッド)に思うこと

 時事に疎いもので、父兄を中心に中止にしたいという声をチラホラと耳にした、大阪の小学校の組体操は結局行われたのか中止されたのかは知らない。組体操について思ったことをチラホラと。教育の畑の人間ではないので、本来の趣旨から外れそうであるが…

 私が思うに組体操で『協調性』や『達成感』、『責任』を身につけさせたいのではないか、と思っている。児童1人ひとりが"協力"して高さの揃った土台を作ることで次の段ができる。誰か1人でも腕を曲げようなら崩れるという"責任"、大人数で組み上げたピラミッド、頂点の人が立ち上がった時の児童の"達成感"と観覧者に与えられる感動。我が子の成長を実感できるのかもしれない。
 自分自身、問題になっているほどの多段ではなかったと記憶しているが小学校の運動会で組体操、人間ピラミッドも経験した。かれこれ10年近く昔だが、練習も本番も多くの教師が大事に備えてすぐ近くで待機していた。彼らも危ないのは重々承知しているのだ。しかし、先に述べた事を児童に理解してもらうために取り入れてるのではないだろうか。そして児童にも「もう少し…」という思いがあるのかもしれない。確かに諦めない気持ちはこの上なく大切である。
 小学生高学年にもなればできるのかもしれない。見ている人に感動を与えられるのかもしれない。しかし、何かあってからでは遅いのだ。観覧者は何かあったら真っ先に非難を始めるのだ(当たり前ではあるが)。世論に逆行する必要はないのである。「今までは〜」とか「代々〜」とか凝り固まった教師の言い分など知ったこっちゃないのだ。いかに安全に気を配っていても何かあったら取り返しなんてつかないのだから。骨折や打撲で済めばまだいい。もしも半身不随になったら?もしも死んでしまったら?夢に満ち溢れ、どうにでもなれる可能性を持っている若い芽を、そんな詰まらない事で摘んでしまうのはあまりにも惜しくはないだろうか。
 私自身高校時代に学校行事で近しい人を亡くしている。亡くなったことを聞いて冷や汗がでた。学校側の声明は余りにも薄く聞こえた。数日前まで軽口を叩いていた人が棺に入っているのを見て、お腹に冷たい何かが詰まったような気がした。児童生徒に大切なことを分かってもらうために、『失敗した時に痛みを伴うもの』を、況してや一生モノのリスクを負ってまでしなければいけないのだろうか。
 多段の人間ピラミッドが完成した時の達成感、感動はこの上ないのかもしれない。しかし、協調性にしろ責任にしろリスクが大きすぎはしないだろうか。感動なんて与えられなくても、父兄は気にしないのではないだろうか。後悔してからではあまりにも遅すぎるのだ。じゃあ代わりに何をやるんだよ、と言われてもぱっとは思い浮かばないのが苦しいのであるが……世間の声が学校にも届き始めたのか、組体操を取り入れる学校は少なくなったと思うのだが、こういう時こそモンスターペアレントとやらも無駄にデカい一声を上げて後押ししてくれやしないだろうかとかなんとか…我が子が可愛いのはどの家庭も同じだろうし。

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