テストの形式が悪いのではない。悪いのは〝授業〟だ。

○×方式のテスト。
一問一答式のテスト。
記号選択式のテスト。

今どき、このようなテストは、「知識偏重」だとして、〝程度の低いテスト〟と見なされるだろう。

逆に、

記述式のテスト
論文式のテスト

あたりは、「思考力」を問うテストだとして、〝高級なテスト〟と見なされるのだろう。

あほらしい。

「○×方式のテスト」とか、「一問一答式のテスト」とか、「記号選択式のテスト」が〝程度の低いテスト〟に成り下がるとしたら、それは、そのようなテストに〝だけ〟対応するような授業をやっているからに過ぎない。

『シラバス論』(2019年・晶文社)の著者芦田宏直氏は言う。

〈試験〉とは、授業で教えたかったことの全体を一側面〔「一側面」に傍点。引用者註。以下同じ。〕からえぐったものでしかないからである。一つの授業〔略〕には、多様な何種類もの試験問題が潜在的に含まれている。「この〔「この」に傍点。〕問題」が解けたということは、それに関わる多数の別のことも理解しているというように試験問題は存在しているからだ。「この〔「この」に傍点。〕問題」を最初から教えてしまうと、「それに関わる多数の別のこと」の理解は消え去る。それでは試験を実施する意味はない。「よい」試験問題とは、それに答えるために多数の別のことも知っていなければならない問題のことを言う。(207-208ページ)

授業で「テストではこんな問題を出しますよ。」というような、いわば〝テスト問題のカタログ〟を示すようなことをしていると、先の「○×方式のテスト」とか、「一問一答式のテスト」とか、「記号選択式のテスト」は〝程度の低いテスト〟に成り下がる。

当たり前である。

芦田氏は次のようにも言う。

試験は原則、INPUTされた時から長い時間をおいて、かつ広範囲にわたるINPUTから長い時間をおいて実施されるときにこそ学生の〈実力〉を測定できるものであって、〔以下略〕(147ページ)

要するに、テストまでの授業の期間が十分長く、テストの範囲が十分広ければ良いのである。

たいてい、中学校や高等学校の定期テストまでの授業期間は5週間程度だろう。入学試験ほどではなくとも、それなりの時間の幅はあるのである。その期間に授業で知り得るはずのことは、(これまた入学試験ほどではなくとも)それなりの分量になるはずである。

だから、授業中になるべく多くのものごとを知り得るような授業をすれば良いのである。国語であれば、文章を、丁寧に、詳しく、細かく、しつこく追求していくような授業をすれば良いのである。

そして、テストでは、文章を丁寧に、詳しく、細かく、しつこく読んだならば当然知り得るはずのことを、単純に問えば良いのである。

こうすれば、授業が(知的に)面白くなり、テストは手間が少なくかつ生徒の達成状況をかなり正確に測るものとなるのである。

もちろん、時間に余裕があるなら、たとえば「記述式」のテストをやるのもよかろう。しかし、〝記述の練習〟とか〝論述の練習〟などということは、本来授業の中ですべきことである。授業の中で十分できているなら、テストでは〈記述や論述が十分にできているならば当然知っているはずのこと〉を問えば良いのであり、わざわざ手間をかけてテストでやる必要性も、実は乏しいのだ。

普段の定期テストですら、「○×方式のテスト」とか、「一問一答式のテスト」とか、「記号選択式のテスト」で十分なのだ。況んやテストまでの時間が十分長く、テスト範囲も十分広い入学試験においてをや。

〝思考力を問う問題〟などというものは、単なる幻想である。

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