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震源から遠く離れた我が家で、転がり始めたもの -後編-

9年前の今日、3月12日。明け方、たまたま同方面の方がタクシー相乗りの声かけしていたので同乗。無事実家に帰り着くことができた。

荷物を放り出して泣く子を抱きしめた。続く余震の恐怖に加え、心の準備なく強制的にママと離れ離れの夜を過ごした心細さはいかばかりだったろう。そうでなくても母子分離が難しくて幼稚園の参観が終わって先に私が帰るのすら嫌がる子なのに…

前夜夫と話したときに言われていた買い出しをしなくてはとは思っていたけれど、とにもかくにも寝ないともたないし、引っ付いて離れないこの子をどうするかといったら、やはり一緒に寝てやるのが一番。

そして、時系列はもうはっきり覚えていないのだけれど、その後こちらも無事に帰ってきた夫は状況を聞いて怒り出した。食糧や日用品の確保の出だしが遅すぎる、なんでまず寝たのか。びっくりするほど責められた。今目の前にそれなりに確保できている品があるのにも関わらず。

今になって振り返るといろんなことに気づく。例えば、情報が交錯していてとにかく確保というのは確かに一理あったこと。あの揺れを体感することなく、すくむような恐怖を味わっていなかった夫には、まず心身のケア、という思いは伝わっていなかったであろうこと。そして夫は今も自覚ないだろうがおそらくASD気質であること。

でも、そのときに感じられたのは、ああ、この人、愛情がないんだな。情より利、というより利のことしか考えられないんだな…それはもう絶望といって差し支えなかった。

それで自分でも気づかないうちに、気持ちが壊れてしまっていたのだろう。

その後、遅れて開催された卒園式。中止された謝恩会。見知らぬ大勢の子どもと並んでの入学式。そして翌日初めての登校後の大きな余震。ストレスと恐怖を溜めた子は、程なくして朝の同伴登校を要するようになり、2011年いっぱい続いた。

翌年末、夫の浮気の手がかりを発見、年明けからストレスによる不調の見本市のごとく次々と体調を崩しまくった末に、半年かかってようやく離婚が成立した。震災の年と離婚の年にはさまれたおかげで2012年のことは、正直ほとんど記憶に残っていない。

それはそうと、離婚に至る論議において、あの日、出張から帰ったら離婚を切り出そうと思っていたが、震災でうやむやになったと夫は語った。要はあまりにも片づけられないから、脅してコントロールしようと思った、と(自分のこと棚に上げすぎにも程がある)。

だとしたら、震災に遭ったこと自体は私自身にとっては吉だったのかもしれない。ADHDであることに気づくこともなく、私有責で追い出されていたかもしれないのだから。被災された方、命を落とされた方には大変不謹慎な物言いで申し訳ないのだけれど。

震災の日からずっと、静かに転がり続けていたもの、それはその後の人生のジェットコースターの車輪だった。


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