レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ 61(完)
肌寒い日の昼過ぎ、サマーセット侯爵夫人は侍女と共に乗っていた馬車から下り、門番に来訪を告げた。ユーグが突然訪ねて来たあと、何故かスコット公爵夫妻から招待状が送られてきて、それから何度もお邪魔している。「妻と気が合いそうだと思って」とスコット公爵が言っていたとおり、スコット公爵夫人とは長年の友人だったかのように話が弾んだ。公爵夫妻の傍は居心地がよく、頻繁に行き来している。そして、時折ユーグのことを話しては、今度はいつ会えるのだろうと皆で心待ちにしている。
夫である侯爵が忙しいときは、侯爵夫人だけで公爵家を訪れることもある。今日も夫は用事があるため、侍女を連れて公爵家を訪ねていた。顔見知りになった門番は心得たように門を開け、彼女らを迎え入れる。
「すみません!サマーセット侯爵夫人ではありませんか?」
その時、急に大きな声で話しかけられ侯爵夫人も侍女も驚きで身構えた。振り返ると、背の高い整った顔つきの青年がいる。上質な外套に身を包み、寒さのせいか頬を赤くしていた。
「無礼な・・・!どなたですか、用があるのならサマーセット侯爵家を通してください。」
侍女が侯爵夫人をかばうように前に立って言うと、男は苦い顔をする。
「それは・・・侯爵家を通したら、話を聞いてもらえないと思ったんだ。」
侍女は厳しい顔をして、侯爵夫人を門の中に入れた。騒ぎを聞きつけて、屋敷の中からも人が出て来る。
「待ってください、侯爵夫人!私はオリバー・キングといいます。ロンドンにある、オリバー商会の跡取りです。アイヴァー伯爵家の夜会で、あなたを一目見た時からお慕いしています!どうか、この手を取っていただけないでしょうか。」
青年の言葉に驚き、侯爵夫人はまじまじと男の顔を見た。アイヴァー伯爵家の夜会で挨拶しただろうか、全く覚えていない。
周りの若い使用人たちは、小説のような出来事に頬を赤らめている。作法は無礼だが、顔立ちは整っていて背も高いし、身なりも上等だから裕福なのだろう。侯爵夫人は何と答えるのか、侯爵はお金はあるものの年を取っているし、この青年との恋が実れば素敵なのではないかと若い女性たちはうっとりした。
しかし、侯爵夫人は表情を変えず「人違いではないかしら」と答えた。彼女に少しも嬉しそうな様子は見られない。
「侯爵夫人、あなたは哀れだ。歳をとった好きでもない夫と、お金が理由で別れられないのでしょう?私は若いし、商会の跡取りなのでお金にも困りません。貴方は何の心配もせず、私の手を取ってくださればよいのです。」
そう言って、大きな手を侯爵夫人に向かって差し出した。周りにいた人々は驚き、どうなるのかと固唾を飲んで見守る。
「見当外れの考えね。」
侯爵夫人は表情を消して答えた。思っていた言葉と違うものだったのか、青年は一瞬言葉に詰まる。
「そんな・・・!私は、ただあなたを助けたかっただけなんだ!」
「助けてほしいなんて、思ったことがないのだもの。もういいかしら?」
それだけ言うと、侯爵夫人は背中を向けた。
「待ってください!一目見た時から、あなたを愛しています!ここまで女性に惹かれたのは、あなただけです。どうか、私のことを心に留め置いてはくださいませんか。」
侯爵夫人に手を伸ばすように、青年は大きな声で叫んだ。このまま公爵家の中に入ってしまったら、公爵夫妻にも迷惑がかかりそうだ。周りは人が少ないものの、噂になるかもしれない。それに、この青年は自分が帰るときまで待っていそうだと思った。「少し用心しておいた方が良い」、確かあの時、ユーグは言っていなかったか。侯爵夫人は振り返って、青年に近づいた。
「奥様、危ないです!」
侍女や護衛達が慌てて止めに入るが、侯爵夫人は青年に近づいていく。青年は門番に取り押さえらたまま、目をぎらぎらとさせていた。
近づいた青年を見て、侯爵夫人は驚きのあまり思わず口元を押さえた。薄く青い瞳、甘く整った顔立ち・・・髪の色こそ違うものの、前世で自分の夫だったギルフォートにそっくりだった。青年は、侯爵夫人が自分に見とれていると思ったのか微笑んだ。
「私はあなたを大切にします。欲しいものは贈りますし、夜会では一緒に踊りましょう。きっと周りは、私たちのことをうっとりしながら眺めるでしょうね。」
青年の言葉に、侯爵夫人は心の温度が失われていくのを感じた。この男、確かキング商会の跡取りとか言っていたか・・・今世でも王になりたかったのか。自分は何でも望むものが手に入ると思っている、傲慢なところは何も変わっていない。たいして悪いこともしていないのに処刑されたことを哀れに思っていたが、生まれ変わってもその心が改められることはなかったのか。
「急にこのようなことを言われて驚かれたでしょうが、すぐにあなたの心は変わりますよ。」
目の前の青年は、相変わらずうっとりした様子で言っている。
「わたくし、たった今思い出したわ。あなたのこと、ずっと前から知っているの。」
「そうでしたか・・・!」
「・・・いよ。」
「・・・え、何とおっしゃいました?」
「あなたのこと、初めて会った時から大嫌いよ。」
それだけ言うと、侯爵夫人は振り返ることもせず屋敷に入っていく。周りにいる使用人たちも、侯爵夫人を追いかけるように屋敷に入っていった。すべてのことが夢だったのではないかと思うほど、オリバーの周りは静かになった。まるで、そこには最初から人などいなかったのようだ。
呆然としているオリバーを、門番は少し離れたところまで引っ張っていって突飛ばした。オリバーはみっともなく尻もちをつき、地べたに這いつくばる。
スコット公爵邸は、先ほどまでの騒ぎが嘘のように静かだった。