![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/103004250/rectangle_large_type_2_877b5e4e697168a88d664fbcf59b67d3.png?width=800)
Photo by
tomekantyou1
自分の夢か、他人の夢か
神を信じる者にとって、「こうしたい!」という思いは、基本 神から与えられるものだ。
つまり、ビジョンは神のものである。
では、「私」がやる意味はなんだろうか。
だって、神がビジョンを与え神が実行に移すのなら、神が全部動けば良くない?私じゃなくて良くない?
たまにそう思ってしまう。
ちなみに、ビジョンを受けた「私」の気持ちはどうか。私は、神の愛を伝えたいのだろうか。
答えはもちろん Yes だ。
神は人を自由な意志を持たせて造った。つまり、操り人形や機械として造っていない。
私は私で、どうしたいか決めることができる。もちろん、神の思いも無視できる。
私は、神の操り人形ではない。神にとって、都合のよい駒でもない。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
十字架にかかるほどに私を愛してくださった神イエス・キリスト。この方の愛に突き動かされ、私は自分の意志で、神に従うことを選びとっていくのだ。それは、神と愛し合うことでもある。
イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を畏れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。
神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。
神は愛です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?