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西脇順三郎を読んだ

図書館で「詩と真実」という本を借りた。
「ちくま哲学の森」というシリーズのうちの1冊。

いろんな人の作品が載っているけれど、私は、今回は、西脇順三郎さんの作品を読んだ。

「オーベルジンの偶像」という作品を読んだ。

むつかしいことが書いてあるのかな、とドキドキしながら、読んでいたら、

《ああ、なんちゅう紫の瓢箪だ》

という文章に出くわした。

茄子を表現しようとする目的をもった場合、ということで、かなり力を入れて語っておられるなあ、という印象を受けた。

ところで、怒られるかもしれないけど、
《茄子はなんちゅう紫の瓢箪である》
という思考は、面白味があるのだろうか?

やはり、教養溢れる人は、面白味を感じるポイントが違ってくるらしい。
((注)西脇さんは、もちろん、思考の面白味があるとしての仮定で、説明のために、そういう文脈で語っておられる)

しかし、やはり、私だったら、

《ああ、あなたが、紫のナスの人!》

と、茄子を語ってしまいそうです。

《茄子は紫のナスの人である》
という思考に、面白味などないと思うが、別に茄子を語る目的で作った文章ではない。

《ああ、なんちゅう紫の瓢箪だ》
という、西脇順三郎さんの言葉に呼応して、

《ああ、あなたが、紫のナスの人!》
と、冬野あかりが、勝手に茄子を語るという、

つまり、作者と読者の共同作業による、

「読書」

が、そこにあったという、
それだけの話である。

同じ作品を読んでいても、読者の数だけ、立ち上がる世界がある。
読み返すと、また、別の世界が見える。

いやあ、読書って、面白いですよね~♪

ちなみに、西脇さんは、大学の卒業論文を全文ラテン語で書いて卒業したという。タイトルは「社会学としての経済学」という。

経済学を全文ラテン語で書く!?
どんだけの才能をお持ちなのか。

明治の人は漢文の素養があると、聞いていたけれど、ラテン語、できる人はできるのですね。

ラテン語の卒業論文を書く人は、さすがですが、大学の先生って、ラテン語読めたのですかね?

読まずに、卒業させたんですかね?

(はっ、と気がつく)

えーと、えーと、ここ、あまり深入りしない方が良いかもなので、以下省略です~。

○○○○○○○○

西脇順三郎さんの文章を、以下、引用します。

衣食住、及び生殖等の大切な人間生活のための経済や政治的社会も第一の問題ではあるが、人間の生活はそれだけでなく、もう少し内面的な生活もある。詩は生活を忌避するのでなくむしろ生活を豊饒にする一つの方法である。
僕のいう内面的というのは宗教とか哲学ばかりのことでなく、面白い感覚、感情、思索を表現する思考をつくることもいうので、すなわち詩をも含む。
「詩と真実(1989年発行)」より引用

チャリーン♪ しあわせに、なーあれ(о´∀`о)