11ハウスにおける文化的差異(3): 11ハウスの「未来」

1では日本での友達について説明し、2では西洋哲学を踏まえたありうる「友達」観について説明した。

さて、ここで情緒的な、同じ価値観によって結びついた日本的な友人の定義と、西洋的な友人の定義ははっきり異なることがわかるだろう。政治的な問題について議論して、価値観が合わないことがわかった時には、日本ではその人は友達ではないとみなされることが多いかもしれない。このことを、日本で俗にいう「宗教と政治の話はするな」という慣用句が裏付けていると言える。宗教的に、政治的に、応援するものが対立する人が違う人とは友達にはなれないというわけだ。
しかし西洋の基準では違う。政治や宗教が違っていても、それらについて共に議論できる存在であるなら、彼らは友人でありうる。同じ価値観を信仰する共同体にいなかったとしても、どれほど凄まじい軋轢があっても、彼らは同じ土地に住み(※これが地続きのヨーロッパと島国の日本では明確に異なる地理的条件である)、共に生きていかなければならないし、実際に共に生きる存在である。したがって、彼らは同じ未来を共有する存在なのだ。その意味で、友人ではないが同じ未来を共有する仲間ではある、という事態が成立するのである。
このことを理解するには、例えば地球温暖化を考えると良いだろう。私たちの世界は情報技術によって「拡張」され、より広い範囲の事柄と私たちは常に接続されるようになった。多くの人にとって、地球温暖化は自分が止められるものだという実感は薄いかもしれないが、それでも地元の島が水没しうるだとか、今まさに夏が年々過酷になっているだとか、そういう意味では地球に生きる人々は常に友人ではないが、未来を共有する当事者ではあるのだ。

同じ未来を共有しているときには、11ハウスが3ハウスと7ハウスとトラインであるということが重要になってくる。なぜなら解決したい問題があるときに、誰が何を請け負うか、請け負うべきかという点に関して議論が必要だからである。これはすなわち分配の問題である(仮に起こることが悪いことではなく良いことだったとしても、どこかの国が一人勝ちして事態が終わってしまったら、きっと「我々の」(11ハウス)生存を脅かす事態となるだろう)。公平に(7ハウス)、コミュニケーションを尽くして(3ハウス)、誰が何を(利益にせよ責務にせよ)受け取るのか、内実を決める必要がある。このように、11ハウスは問題によっては、ネガティブな意味でもポジティブな意味でも、人類の未来の部屋、といえそうである。

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