11ハウスにおける文化的差異(2): 友人じゃなくても「友人」?

では、日本でいう「情緒的な」友人と異なる西洋的な友人とはどのようなイメージだろうか。もっとドライで、議論を交わす人たちだろうか。確かにそうかもしれないが、もっと具体化してみよう。私が特に目から鱗が落ちた文は次のようなものだ。

日本で生活をしていたときは、相手の言ったことに100パーセント同意できないときでも、「だよね」「うんうん」とあいづちを打ちながら、10パーセントでも同意できない部分があれば「わかる」と言っていました。……ところが、フランスでは、逆に相手と自分の違うところを探します。

『「自分の意見」ってどうつくるの?:哲学講師が教える超ロジカル思考術/平山 2023: 22-23』

上ではフランス(かつn=1)を例にしてしまったのであまり良い証拠とは言えないが、違いに着目することについては歴史的・文化的要因があると言えそうだ。というのも西洋においては、過去の侵略の歴史から学び、さまざまな正義の形が論じられるようになったという事情がある。そこで西洋の政治哲学では、利害関係が違う人々がいかにそれでも互いを(できる限り)傷つけることなく生きていくにはどうするべきか、という精神が貫かれている。
この点がよく表れているのが、アイザイア・バーリンの「積極的自由」と「消極的自由」である。消極的自由というのは、簡単に言えば「邪魔をされない自由」で、積極的自由が個人や集団の在り方を自分で決定することができる、というものである。ここで提出されるだろう疑問は、その二つが対立していたらどうなるのかという点であろう。バーリン自身は、より中核にあるべき言葉としては消極的自由を重視している。そこから導き出されるのは、「思想が違っていても、とりあえず何もない限り、放っておいてもらえる」というのが理想状態である、ということだ。違いに着目していては人間関係は壊れてしまうこともある(日本人がそう思うように)。でも、違いに着目してなお、互いを尊重することはできるのである。そのために存在する概念が人権なのだ(冥王星水瓶座時代に入るので覚えておくと得をするかも……話が逸れてしまった)。

これらから導かれるのは、例え同じ価値観を奉じていなくとも、(攻撃されることなく)友人でありうる、ということだ。3では、以上を踏まえて、11ハウスがどのような場所なのかを考えていこう。

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