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“カワイイはつくれる”

きょうは閑話を。

女子向きの話題になってしまうかな?

でも実は誰でもあてはまるんじゃないかな?

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タイトルのキャッチコピーが、初めて聞いたときから好き。

というか、あら、それバラしていいのか?って思ったのを覚えている。

だって、かわいさとかきれいさって作れるじゃないですか?

それを目指す人たちには周知の事実だけど、でも内緒にしておきたいものというか。

正直に言おう、わたしは可愛い。

そして綺麗だ。美人だ。賢いし、おしゃれだ。

そりゃそうだ、カワイイはつくれるって知ってるもの。

…あ、ひきました?

こいつヤバいって思いました?

でもしょうがないのだ、だって事実だもん。

講師だったときに、異動先で初めて関わることになった先輩先生が、わたしにかけた一言がそれを物語る。

パソコンを開いて作業していると横の席の先輩先生から強烈な視線を感じたので、そちらを見ると、

「あんた、べっぴんさんねえ…!」

といきなり口説いてきたのだ。

先輩先生は、初対面でそういうことを言っちゃう楽しいキャラクターの先生で、見習いたいところがたくさんあるすてきな大人女子の先生だ。いまでも交流がある。

この先生と出会ったあとに、街中で見知らぬ男性から声をかけられたのだが、彼は若干待ちぶせして声をかけてきた挙げ句、「おねえさん、ふつーにきれいですよね。」と言ってきやがった。

へたくそか!
ふつーにとか余計なこと言うそのセンスがありえんわ!
思ってなくても、めっちゃとかすごくってつけるか、
それがいやなら単に「きれいですね」のほうがなんぼかときめくわ!

と、心の中で毒づきながら、わたしは彼を完全に無視して足早にその場を去った。
(センスうんぬんより、待ちぶせされたのが怖かった。)

この二つの例だけでは、わたしが可愛くて綺麗で美人で賢くておしゃれでマーヴェラスでパーフェクトなことが全く伝わりきらないだろうから、もう少し話につきあってほしい。

この先輩先生と、ある日雑談でイケメン&美人談義になった。

先輩先生の好きな顔のタイプの話を聞いていると、先生がわたしのタイプを聞いてきた。

なので、わたしは答えた。

「この俳優さんが好き、あのアイドルが好きっていうのはけっこうありますけど、イケメンかどうかは分からないです…わたしの好みの顔であるっていうだけなので。」

先輩先生は、食い下がる(笑)

「けどあんた、イケメンはイケメンやんか」

そしてわたしもゆずらない(笑)

「いやでも、顔の均整が完璧にとれてる人ってほとんどいないじゃないですか。

わたしが好きな人たちも、じーっと見たらアンバランスなところとかありますし。

それに、わたしが好きでも先生は好きじゃないかもしれないじゃないですか。

そしたら、それってイケメンなのか…?って疑念が湧くというか…。

なんか、イケメンっていうのがよく分からないんですよ。

あ、この人イケメン…!ってどうやって判断したらいいのか分からないんですよ。」

「それはあんたが美人やからよね!」

と先輩先生は鼻息荒く、んもうっ、ふんって感じで話を切り上げてしまった。

先生は全然怒っているわけではなかったけど、これ以上この話題を続けると説教されそうなので、わたしもおとなしく別の話題にうつった。

そうか…わたしは“美人”なのか…。

まあそりゃそうだよな。

だって、わたしは可愛くて綺麗で美人で賢くておしゃれでマーヴェラスでパーフェクトだもの。

なぜなら、わたしは自分が可愛くて綺麗で美人で賢くておしゃれでマーヴェラスでパーフェクト「ではない」ことを、完璧に把握しているから。

わたしって、可愛くないんだ…!

と、はっきり気がついたのは中学2年のときだった。

まあ、病がもっとも重症化する年頃ですが。

わたしの両親は、愛情があるのは分かるけど、基本的にクールな人たちなので、親というより年のはなれた姉とか兄、それよりむしろサポーターとかスポンサーみたいに昔からずっと思っている。

だけど彼らは、とくに母親は、わたしを育てる過程で
「かわいい」の言葉だけは膨大に注いでくれていた。

そう言われることが日常で、とにかくことあるごとにかけられる言葉だった。

そのおかげか、わたしは妹を溺愛していて、同じように膨大な「かわいい」を浴びせまくる姉となった。

ちなみに妹はいまも昔も、とにかくかわいい。

いまはかわいいよりも綺麗寄りだけど。

そんなわけで、わたしは自分や妹のことを「カワイイ」という種類の生物だと思っていた。

「イヌ」「ネコ」「パンダ」「ウサギ」「カワイイ」

みたいな感じである。

それが、中学2年のときに、突如「あれ、わたし『カワイイ』じゃないんだ…!ふつうに『ヒト』なんだ…!」と気づいたのである。

きっかけは分からない。

失恋も、家族も、進路のことも、年齢も、すべてがきっかけだったのだと思う。

ネガティブな方のショック、ではなかった。

おどろきという意味での衝撃、目から鱗が落ちる感じ、なにかすとんと腑に落ちた感覚だった。

「わたしなんてかわいくないんだ…」という卑下ではなくて、「そっかヒトだったのか、そうかそうか」と腹の底から納得したのだ。

その後高校受験、大学受験があったので、優先順位はカワイイをつくることより勉強の方がはるかに上、という期間が長く続いた。

そして、カワイイをつくろう!
と思い立ったのは大学2年になった頃だ。

1年のときは単位を一つでも多くとっておくことに必死だったし、年上の彼氏ができたし、周りの学生たちはなんか素敵だし、そろそろ女子になってみよう!と思った。

いまのわたしの女子要素は、あのとき培ったものを土台に、年々つみあげられているものだ。

じゃあどうやってわたしは女子になったのか。

一言でいうと、「女子になる」という目標に忠実な言動をひたすらとった、というところだ。

メイクの仕方を知る。

周りの女子の服装をよく見る。

流行りをなんとなく知っておく。

男子はなにを求め、なにを求めていないんだろう。

歩き方に気をつける。

動作やしぐさを丁寧にする。

他人が聞いてうれしい言葉、不快な言葉づかいを整理する。

挙げると面倒にみえるけど、要は

「わたしが理想とする、“美人はこうするだろう”を、忠実に演じてみる」

ことを徹底しておこなったのだ。

どんなに演じても、もとのわたし自身の“匂い”は消えないので、たぶんそこが“個性”と呼ばれる部分になっているだろう。

だから、わたしはあくまで“わたしの想像したなりの美人”に仕上がっているのだ。

その仕上がりを「いいね!」と思ってくれた人が、わたしのことを色んな言葉でほめてくれるわけだ。

わたしをほめてくれた人の思う「かわいい」と、
わたしが思う「かわいい」は違うかもしれないことも、
わたしはもう知っている。


なのでブスと言われようが、美人と言われようが、わたしにとってはそれほど大差ない。
美人と言われると、言ってくれた相手に感謝が湧く、という点ではそりゃあ後者のほうが気持ちがいいものだけど。

ということで、わたしは可愛くて綺麗で美人で賢くておしゃれでマーヴェラスでパーフェクトなのだ。

わたしが思う、可愛くて綺麗で美人で賢くておしゃれでマーヴェラスでパーフェクトな人を演じているのだから当たり前だ。

…というかもうそれが自然なので、演じている、というのは語弊があるかもしれない。

演じるっていうのはごまかすという意味じゃない。

失敗しても、嫌な思いをしても、美人ならどう対応するだろう?と想像して行動すること。

“美人役”になりきる、ということだ。

わたしは“カワイイはつくれる”ってそういうことだと思っている。

そして、わたしがほんとうに美人なのか、かわいいのかは、わたしには判断のしようがないし、他人も然りだ。
だって確実に意見は割れるもの。

あなたがブスと言えばあなたにとってはブスなんでしょう。

そっかそっか。へー。

あなたがカワイイと言えばあなたにとってはかわいいんでしょう。

うわあ、ありがとう。

長々と書いたけど、女子の大半はそんなふうに生きてるんじゃなかろうか。

しかも、この美人の化けの皮がうっかりはがれたときに、実は女子ってめっちゃいい味出すのだと思う。お得だ。

そんなこと言ったってあなたは恵まれてるんでしょっていう人も、それでいいのだ。

そういう人は化けの皮を本気でかぶったことが無いんだと思うが、べつにかぶらなきゃいけないものではないので、そのままでいいのだ。そのままでいいと思うなら。

そして実は男子も、中間の人も、そういうふうに生きられる、もしくはすでにそういうふうに生きているんじゃないだろうか。

女子がどれほどがんばってかわいくあろうとしているか、その化けの皮がはがれた時のまぬけに見えたりかっこ悪く見えたりする姿がどれだけ貴重か。

でもそれってほんとはどんな人でもそうなんじゃないだろうか。

けっきょくみんなかわいいし、カワイイは最強、だと思いませんか。

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