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人間が一番欲しいものは “希望” そして楽しいのは “希望をつくること”

「人間はなにも創造しない。ただ、発見するのみである。新しい作品のために自然の秩序を求める建築家は、神の創造に寄与する。故に、独創とは創造の起源に還ることである」(外尾氏著書『ガウディの伝言』よりガウディの言葉の引用)

2月に会社の制度である「サバティカル休暇」を使ってバルセロナとニースへ。バルセロナではサグラダ・ファミリア主任彫刻家の外尾さんお会いする機会をいただき、会話の一部をFacebookに投稿しました。あの投稿では伝えきれない心に響く宝物のような言葉の数々を、自分の行動を変えるための記憶としてシェアします。なお、自分のスマホメモと記憶で文章を構成しており、事実誤認している可能性もあること、予めお伝えしておきます。

■永遠は人工的なものには宿らない、自然の秩序に従うのみ

冒頭の引用の言葉「自然の秩序」を、そこかしこに感じられたサグラダ・ファミリア。現地到着時は曇り空。待ち合わせ時間まで近くでパエリア食べながら待っていたら、雲がだんだんきれてきて、青空の下の荘厳な彫刻のファサードを見上げて、思わず、「うおおお」って声でた。

15時から先に、今回の機会を作ってくださった松嶋さんと一緒に見学をしてそれだけでも「ほえええ」と声でまくり。

そして夕刻、外尾さんが生誕のファサードに現れ、「こんにちは、サグラダ・ファミリアにようこそ」と優しい笑顔と、柔らかい声に出会った時に、一同のテンション上がる上がる。再び、中に入り外尾さんから詳しく説明や、彫刻のエピソードを聴ける贅沢な時間。

「生誕の門にある天使像など大きな彫刻は、どうやって壁面に設置しているのか?接着剤ですか?」の質問に対して、外尾さんからは「置いているだけです」と。一同思わず「え?本当に?」と同じ表情。

「この世界で最も強い接着剤はなにか知ってますか?それは、引力です。接着剤など人工的なものは、永遠ではないのです。何事も、永遠は人工的なものは宿りません。自然の秩序に従うのみです。それがガウディの思想です。サグラダファミリアは、バルセロナの山の高さを超えません。神が作った自然の高さを超えないこと、引力という自然の力に逆らわないこと。そういうことです。万が一、落ちてしまったら、作り直すだけです。」

(例:ハープを奏でる天使像も置いているだけ。正確にいうと重心で安定するように背面まで作り、壁面にはめ込んでいる)

他にも、

「生誕の門には、様々な植物、生物が描かれています。それはガウディが子供の頃からリウマチで足が悪く、友達と一緒に遊ぶことができず、ただ一人で足元の動物や植物を深く観察した経験があったからです。昆虫や動物の表面だけでなく、動き、生きる場所(土の中、樹の上、水中、上空)を観察し、それぞれが与えられている役割の意味を考えたのでしょう。そして植物も表面の形ではなく、季節、生育など構造から理解するほどの観察。子供時代の不遇は、ガウディの発想の基礎。不遇な状況さえも養分にして、知恵に昇華していくこと。表層だけをみて聞いて終わりにするのではなく、自分の中に知恵を養い、イメージを膨らますこと。深層を感じとること。自然の摂理は、私たちに多くのことを教えてくれます。」

「なんでも簡単にできると思ったら、失敗のもと。世の中に、本当にゼロから生み出しているものなどないのです。オリジナルは、オリジンに戻ること。」

など、示唆深い言葉の数々に、ほえーー、と聞きいる。(まだ全部腹落ちしてない)

そして、ふと「挑戦と抵抗は異なる。チャレンジするけど、壁にぶつかったり、迷ったら、自分の原点、Beingに戻ること。じっくり観察すること。自然の秩序、周囲との関係、環境と対話すること。しなやかに生きるということ。」と心に落ちてきました。あと、「0→1」とか「コンセプトワーク」とはなにか?も考えさせられました。

■『機能』『構造』『象徴』

ガウディの建築には、「機能」と「デザイン(構造)」と「象徴」の三位一体で、問題解決がされています。(サグラダ・ファミリア以外でも同様)

ある機能が必要になるとわかった時、それをただ加えるのではなく、デザイン的かつ構造的に解決し、しかも然るべき象徴が語られるように構成され、作られています。彫刻のデザイン、階段のデザイン、雨どいのデザイン、全てに『機能』『構造』『象徴』がある。ちなみに、サグラダ・ファミリアは「石の聖書」ゆえに、「象徴」は聖書や、自然の摂理に基づいたガウディのメッセージが込められています。

例えば、「亀の彫刻」は、生誕のファサードに降った雨水を流す機能。亀のデザイン(構造)は、甲羅の半球的形態は宇宙を表しておりサグラダ・ファミリア聖堂はその宇宙の上に聳え立つ台座を意味し、「亀のようにゆっくりと、 しかし休まずに作り続けて行こう!」という象徴でもある。

ふと、「ビジネスも、いくつかの問題を同時に解決していかなければいけなくて、経営者は常に二律背反に挑戦し続けること」と同じだよね、と思い浮かぶわけですよ。

■時は迎え撃つもの

外尾さんが日本人として活躍するにあたり並大抵の努力ではなかったはず。サグラダ・ファミリアでは一年ごとに更新されていく契約。35年間ずっと試験を受け続ける。勝ち残るために、学び、観察、想像をしながら、アプトプットを出していく。さらっと文章で書くのが申し訳ない程です。

現地で、外尾さんが「福音書家の塔」の雨どい彫刻について塔を見上げながら、指さしてお話してくださいました。

ある時、「福音書家の塔(マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコ)」の莫大な雨水が問題になり新たに排水口を設置しないといけなくなった。そのデザインを、機能・構造・象徴の三位一体で考え、指定された短い工期で完成させないといけない。外尾さんが「相当厳しい工期とお題だったけど、ガウディならどうしただろうかを考え抜いて、デザインして模型を作り同意を得て、完成させたんだよ」と。さらりとお話されましたが、これは試されている場面であり、もしかしたら、嫌がらせ行為かもしれません。そこで「どんな心持ちで向き合ったのですか?」と質問したところ、

「僕はね、時は迎え撃つものだと思う。来たチャンスを打ち返す。だから、いつでも打ち返せるように自己鍛錬しておく。人生はその連続だよ。」

グッと黙ってしまいました。

頭では理解していたことなのに、どこかで自分は、「誰かにタイミングを準備してほしい」と他者に依存して自分がいることに気が付いてしまって。難局や課題さえも、自分の未来との出会い。そこにいかに向き合うか?なんだよな、と。

「出会いとは、待っていれば向こうから来るものではない。自分が目標をもって進んで行こうとするから出会いがある。ずっと何かを強く求めていた。探している正体はわからなくても、何をもとめて、どこかに行こうとしていた。だから、出来事や人と出会う。その時の自分にとって、試練と思える出来事も、大きな視点で見た時には、それさえも出会いであり、養分である。」(書籍『ガウディの伝言』より要約引用)

■人間のエゴと弱さと、ロザリオの間

今回、最も印象に残ったのは「人間のエゴ」についてでした。外尾さんが最も発言されていた単語ではないかと思います。

バルセロナオリンピックを契機に、ガウディに世界の注目が集まり、サグラダ・ファミリアには建築資金が集まりすぎています。そして、巨大かつ巨額なプロジェクトに、莫大な人数、複数の権威者が関わる複雑さがある。

本来は、石の聖書としてガウディの思想を元に人を幸せに導く教会として存在すべきところ、ガウディのデッサンからの勝手な変更(受難のファサード)、一部は意味を持たないデザインや彫刻も存在してしまう。(すべての彫刻を外尾さんが作っているわけではない)悲しいかな、「自分の名誉にしたい」という欲望の元に、プロジェクトが遂行されてしまう場面があること。

会食時に、「なぜ、外尾さんはサグラダ・ファミリアで石を掘り続けるのか?」の質問に、「うん、そうだね。ちょっとトイレに行ってきます。」と席を外され、戻られた後もその話題にはふれることはありませんでした。

そう、なぜ、外尾さんはサグラダ・ファミリアを離れず、彫り続けるのか?

私の妄想ですが、「ロザリオの間」を修復したからではないでしょうか。外尾さんがサグラダ・ファミリアで、大きな仕事として最初に手掛けたのが「ロザリオの間」の修復です。ここは、ガウディが生前、唯一完成させた場所。残念ながら、スペイン市民戦争の際に破壊されて50年間と長い時間、開かずの扉になっていた場所を、当時の主任建築家(ガウディの最後の弟子にあたる方)に「外尾、再現できるか?」と想いを託され修復・完成。

「ロザリオの間」には、「誘惑」という副題がつけられています。

教会は石の聖書であるため、本来は聖書の登場人物のみが描かれますが、「ロザリオの間」には、聖書に存在しない2人がいます。

「マリアに爆弾を投げようとする若者(暴力や権力への誘惑)」

「娼婦に身を落とそうとしながら祈る少女(お金への誘惑)」

この二人は、人間が陥りやすい誘惑、弱さ、迷いを象徴しています。

ただ、誘惑に弱い人間が「単純な悪」かというとそれも違う。人間は誰しも完璧ではなく、人間の中にある、悪魔と天使。汚いものも、綺麗なものも、同じところに存在している。それでも、「誘惑に負けず、よい方向にしていこう。亀の歩みでも、ゆっくり作っていこう。」という、ガウディのサグラダ・ファミリアのビジョンが彫られていた部屋。

市民戦争で壊され、50年開かずの間だった部屋の重たいゼリー状の空気、ガウディがここを最初に作った意味を感じた時、「これは、ガウディの石の遺言だ」と思った外尾さん。

遺言を受け取った人間は、そう簡単に離れることができない。そう決意してしまったのだと、私は感じました。

なお、「ロザリオの間」は、エントランスの目立たない場所にあります。(少し前までは、オーディオガイドの貸し出しスペースだった)

■愛は同じ方向を見ること

サグラダ・ファミリアは、マリアを見守る「聖ヨセフ」のお父さんの愛が描かれている世界でも珍しい教会だと、書籍にあります。にもかかわらず、彫刻のデザインではその要素はあまり感じなかったので、「ヨセフの愛は、どこかに描かれているのですか?」と質問したところ、

「ありません。愛という言葉は話してはいけないのです。あと、愛を言葉で語る男性に騙されてもいけませんよ。」(え?なんでここで男の話?)

「愛とは、同じ方向を見ることです。好きな人が見ている方向を見るということが愛情です。だから、愛情がないといい仕事ができない、とガウディは言っています。人は愛情がなければ表面だけ見てしまいます。ヨセフは、マリアを愛していたから、マリアの覚悟を受け止め、ともにイエス・キリストを守る旅にでることを決意して行動を共にした。それが、愛です。」

「理解できるから信じあえるのではなく、信じるから理解しあえる」
(外尾悦郎作品集『言の葉』の冒頭にある一節)

「まず最初に、自分から相手を信じること。そして情熱を伝えること。情熱を伝えることは、愛を芽生えさせるということ。これこそがガウディの最初の図面なのです。教育もなんでもそうなんですが、一人一人の心の中に情熱の芽を植えて行くことが、これからの未来を考える大きな一歩なのだと思います。」

■人間が一番欲しいものは “希望” そして楽しいのは “希望をつくること”

まだ、消化されておらず長々駄文となっております。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。他にも宝物のような言葉や、ここだけの話もたくさん。

今回、外尾さんを通じて、少しだけガウディにふれることができたように感じています。

ガウディの人生は順風満帆だったわけではなく、人の嫉妬や不運に出会い、さまざまな絶望感の中、42歳で見つめ直したサグラダ・ファミリアという使命。愛する家族、信頼する友人という親しい人々を失い、深い喪失感に堕ちた60代。若い時のように、ただ明るく、可能性だけに溢れている年齢ではない自分に気づき、自分という存在をできるだけ小さくしながら、後世と後輩に未来を託し、みずから扉を閉めていく時期が迫ってきていることを感じてしまったガウディが得た境地。

生誕の門は建築ではない。イエス降誕の喜びを永遠のもののように謡い上げた詩である。石の塊から生まれた建築の詩である。未完成の形から、この聖堂に懸ける情熱が見える。彼は、聖堂の完成を自分の目で見る欲は持っていない。建築の維持を後世の人に託す望みだけを持っている。彼が作っているものは、カタルーニャ自身なのだ。(ジョアン・マラガールの詩より)

生誕のファサードで「サグラダ・ファミリアが作り続けられるということは、平和な世界が続いているという証です。戦争が起きたら、建設することはおろか、再び破壊されるでしょう。また、人間は50年前に死んでしまった人のことを誰も覚えていない。でしょ?つまり、長い歴史の中で人間の一生は、ほんの瞬きのようなもの。そこに自分のエゴを投入する意味はあるのか?ということだと思います。」と語る外尾さん。

そして、「人間が一番欲しいものは “希望” です。そして、もっとも楽しいのは “希望をつくること” です。」と、タクシーでの外尾さんの明るい声が耳に残っています。

外尾さんもガウディと同じように、人間のエゴに出会っても、きっとガウディの意志を誰かが自分と同様に受け継いでくれて、きっともっと、いいものを作ってくれると信じて、後世に希望を託しているのだろうと感じました。

「諸君、明日はもっと良いものをつくろう」
(ガウディが事故で亡くなる前に、サグラダファミリアの職人たちに最後に残した言葉)

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