消しゴムを貸して
“消しゴムを忘れたことを先生や親に許してもらえなかった子供は、消しゴムを忘れたとき素直に「貸して」と言える友達に、消しゴムを貸すことができない。”
どの本だったのか、本当にこの表現だったのか記憶があいまいだけど、とある心理学者の書籍で出会った「消しゴム」の事例がとても心の中に残っている。
消しゴムの事例から急に話は飛ぶけれど、人生は「選択」の連続であるという事実が、重たくメンドクサイ気持ちになることがある。
「選択」と「大人の作法」
どんな状況であれ、自分で選択し、その選択を引き受け、選んだ選択をよりよいものに変えていくのが“大人の作法”だということは、痛いほどわかっている。
でも、その選択の結果が苦しいと訴えた時に
「だって、自分で選択したんだよね」
と言われたら、
「そうですよ、確かに私が自分で選びました。でも、それを選ぶしかない状況や前提だったんです」
と、心の中で思うけど言えないこと、言うことが憚られる時って、誰しもあるんじゃないだろうか。というか、私はある。
でもその言葉って、
「僕に彼女がいるって知った上で付き合ったのは君だよね」
と同じくらい、なかなかの破壊力を持つものである。
全ては必然だけど・・・
基本的には、目の前に起きたことは全て必然だと思っている。出会うべくして出会ったこと、選択せざるを得なかったから、選択した。だから、選択によって現れた事実を受容する連続だ。
その時は、受け入れ難いと思ったことも数年たつと自分の成長のターニングポイントになることは、いっぱいある。自分のキャリアにしても、予期せぬ出来事が起きたり、当時は不本意であっても、新たな挑戦の機会をいただき、取り組むことで「出来ること」が増え、それが「好きな仕事」になったりしているので、機会と信頼をプレゼントしてくれた周囲には感謝しかない。
ただ、「それは本当は選びたいわけじゃないの」その気持ちを、弱音を、その時に素直に吐露できるか否かが、自分自身を慰撫できる分かれ道なんだろう。その一言を素直に言えなかったから、苦しくなるのだ。
そんな気持ちがグルグルしている時に、消しゴムの話を思い出した。
そうか。
私は、お隣の友達や先生に、「消しゴムを貸して」と素直に言えなかった側の子供なのだ。
誰が悪いわけでもなく、何が悪いわけでも、何かのせいにしたいわけでもない。
小さい頃の自分に会いにいって「お友達に“消しゴムを貸して”って言ってもいいんだよ。」と声をかけて、ギュッとしてあげたい。
そんなことを思う夜でした。
秋ですね。
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