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3× 第十話

あの事件の夜、家でゆいはうつむいて座っている。
その前にはマキが仁王立ちで顔を赤くしていた。

そんな状況で喜助が帰ってきた。
「ちょっとあなた、どこに行ってたの?ずっと電話してたんですけど?」とマキは喜助にもチクリと言った。

「あーちょっとな。何かあったのか?」と喜助が言う。
「ゆいよ」マキは視線を鋭くゆいに向けた。

「ゆいがどうした?」
「男の子に暴力」
「暴力?」喜助は疑問に思った。

「いや、暴力どこじゃないわね。男の子の肋骨と鎖骨を折って、アルコールランプかけて、火をつけようとしたのよ。もう立派な殺人よ。もう、お母さん信じられない。なんとか先生が押さえてくれて、まあ、相手も悪いってことで、警察沙汰にはしないって言ってくれてるけど。お母さん、本当にショック」
マキは興奮している。

喜助はゆいに近づき言った。「何でそんなことしたんだ?」
ゆいはうつむいたままだったが、喜助は座ってゆいの目線に合わせた。
「ゆい!」

「ごめんなさい」
すると喜助は突然ゆいを殴った。そして蹴った。
喜助は謝罪を求めていたわけではなかった。
「何でそんなことしたんだ?って聞いてんだ」

マキは喜助の行動に驚き、まさかの自分が止める役に回った。
しかし喜助はマキを振り払って聞く。
「そういうのいいから、純粋に理由を聞いてるんだよ」

「…むかついたから」とゆいは小さく言った。
「むかついただけで?」マキは信じられないというトーンだった。

しかしマキにとって、さらに信じられない行動を喜助はとる。
喜助はゆいの胸ぐらをつかんで言う。
「中途半端なんだよ。いいか、やるんだったら、最後までやれよ。止められてやめるようなら、最初からやるんじゃねー、バカが。ついででやってんじゃねーぞ。腹くくってやれ」
そう言ってゆいを突き飛ばした。
彼の眼差しには、過去の影がちらついている。両親の死の瞬間がフラッシュバックし、その怒りと悲しみが混ざり合った感情が、彼の心を支配していた。

ゆいの目は何かを語ろうとしているようだが、その深い闇の中には何も読み取れない。
彼女の表情は静かで、感情の波が表面に現れることはない。喜助は自分の過去を思い出しながら、ゆいに問いかけた。
「ゆい、お前はわかっているのか?この怒りが、どれほど深いかを。お前を拾ったのは、お前が私と同じだと思ったからだ。だが、お前はまだ理解していない」

ゆいは何も答えなかった。
彼女の沈黙は、喜助にとって耐え難い謎を抱えている。彼はゆいに自分の過去を見るが、彼女の心がどこにあるのかは掴めない。それが彼を苛立たせ、やがて彼の心に暗い決意を生む。

マキはその場に立ち尽くし、夫と娘の間の緊張した空気に圧倒されていた。彼女は喜助の言葉の意味を理解しようとしたが、彼の過去の痛みがどれほど深いかを知るには、まだ遠かった。

そうしているうちに喜助は寝室へ行ってしまった。
「ちょっとあなた」マキは追いかけた。
ゆいはじっと喜助の後を見つめていた。

「あなた、何さっきの?どういう意味?」
追いかけてきたマキは喜助に問い詰めていた。
「別に意味なんてないよ」
「は?何言ってるの?ちょっと本気言ってるの?」
「本気だよ」と喜助は答える。
「自分の娘が、もう少しで人を殺すとこだったのよ?それでいいの?」
マキは喜助に不信感を持った。

「結果どうこうじゃねーんだよ。中途半端にやるなって言ってんだよ」
喜助の言葉に納得できないマキは言う。
「あなた、やっぱり頭おかしいわ。もうついてけません」
マキは出ていこうとした。その後ろ姿に喜助は言う。
「どういう意味だ?」
「別に意味なんてありません」
マキは振り返りもせず部屋を出ていった。

大きめのドアの閉まる音に、喜助は苛立った。
そして喜助はノートを出す。
『マキ』と書いてある名前自体に×を書いた。

それからほんの数時間、喜助の姿はあの例の倉庫にあった。
何やら作業をしている。
鼻と口が塞がるガスマスクのような装置を作っている。
口のところから管が出ている。
見本としているのは古びたノートだった。
設計図のように細かく書かれた赤沼ノートを見て、喜助はそれを作っていた。

少し前で怒号が飛び交った喜助のマンションは、うそのように静まり返っていた。
ソファーでマキはうとうとしている。
テレビの音が子守歌代わりのようだ。

そこにひっそりと現れた影。
マキは後ろから首を絞められた。少し抵抗するが、やがて気を失った。
   

寝室で目を覚ましたマキだったが、もちろんベッドの上ではなかった。
イスにぐるぐる巻きにされていた。
そして少し息苦しかった。それはガスマスクのようなものを装着されていたからだった。
そこには管があり、その管はマキの喉奥へと、入っている。

化粧鏡で自分がどういう状態になっているかわかったマキは、咳込んだ。
助けを求めようと声を出すが、うまく喋れない。

そしてマキの目の前、喜助が登場した。
その姿はいつもの喜助ではなく、ラスボス感が漂っていた。
「マキ、苦しいかい?でも、もう仕方ないんだよ。これでも大分我慢したんだよ」と喜助はノートを見せる。
「ほら、バツ30だよ。さすがにこれ以上は…」
×印でページが真っ黒になっていた。
「マキは言ったね、私は頭がおかしいと。確かにそうなんだ。自分でも分かってる。でもね、やめられないんだ。人を殺したくて、殺したくてどうしようもないんだよ。悔しいけど赤沼の言う通りだったよ。この気持ちマキもわかってくれるだろ?」
   
喋れないマキは首を横に振ることしかできなかった。
「どうして?マキだって、バルーンを見つけたら買いたくて、買いたくてどうしようもないだろ?それと一緒だよ。だからわかってくれるね?」
そう言って、喜助はマキを抱きしめた。
マキはさらに早く首を横に振っている。
「マキ、愛しているよ。じゃあ、殺させてもらうね」
マキは無駄だと思っても声を出すが、もごもごしか言えなかった。

喜助は説明を始めた。
「見てわかると思うけど、管の先にあるこれ。この中にはヘリウムガスが入ってるから」と喜助はガス管を差す。
「ヘリウムガス。バルーン好きのマキだったらわかるよね?浮かぶか楽しみだね?」
喜助が何をしよかとするか知ったマキはジタバタした。

「マキバルーン、スタート」

喜助はガス管をひねる。すると勢いよくプシューという音がする。
それは管を通ってマキの口の中へ入り込んでいった。
マキは苦しそうに小刻みに震えている。
「どう?入ってる?」喜助の興味が声のトーンに現れる。
明らかに膨らんでいた。
喜助は楽しそうに「おお、ちょっと膨らんできたね」
マキはすでに気を失っていた。
「ちょっと起きて、今いいとこよ」と喜助はマキの胸を叩いた。
すると、少し弾力で叩いた手が跳ね返ってきた。
喜助は嬉しそうに何度も弾力を確かめている。
マキの目は見開き充血していた。

「パンッ」

突然の破裂音だった。
「え?え?」喜助は困惑した。
風船を考えると、全然膨らみは足りない。
しかしマキは口から血を流れ出てきた。
もうこれ以上やっても何も変化は見込みそうはなかった。
喜助は仕方なくガス管を止めた。
「えー、終わり?ウソでしょ?イメージと違うわー。全然膨らまねーじゃん。なんだよ、せっかく針用意したのに。マキ、死んじゃったよ。あーあ、つまんなかったなー」
喜助はがっかりしたその時だった。

何か物音がした。

喜助は振り返る。
寝室のドアの外も見た。
誰もいない。

喜助は廊下に出て静かに進む。
その先はゆいの部屋だ。

喜助は忍び足で中に入る。
ゆいはベッドで寝ている。
喜助は覗きこんだ。ゆいの目は閉じている。
それを見て喜助は部屋を出ていった。

ドアが閉まると、ゆいは目を開けたのだった。


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