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「負け役」を担う大事さに気づいた

なぜソーシャルゲームは無料で遊び続けられるのか?


「ソーシャルゲームはなぜ無料でプレイし続けられるのか?」というような記事をかつて読み、いたく感心したことを覚えています。ざっくりいうと、以下のような内容です。

孫にパチンコをさせる祖父
孫にパチンコをさせる祖父

ソーシャルゲームが無料で遊び続けられる理由


ソーシャルゲームは最初、無課金無料で始められる。段階が進むと、いずれ課金を求められる。しかし課金するかどうかの選択はユーザーに委ねられ、無課金でもゲーム自体は続けられる。

昨今のソーシャルゲームの制作費は数億円以上かかるという。制作費を回収するため、運営者は当然、ユーザーからお金を徴収したい。だが、ユーザーから無理矢理徴収せず、無課金ユーザーを締め出すことはしない。

なぜソーシャルゲームの運営者は無課金の無料ユーザーに対して、ゲームを続けられようにしているのだろうか。一定の期間、お試しプレイをしてもらった後は強制的に課金をしないのだろうか。なぜタダ乗りを許しているのか。

1つ目の理由は無料の無課金ユーザーもいずれ何かのタイミングで課金ユーザーになる可能性があるから。ソーシャルゲーム内で無課金ユーザーはたえず課金することを勧められる。無課金ユーザーもいずれ課金ユーザーになってくれるかもしれない。

ではひたすら無課金プレイするユーザーは締め出さないのか?無理矢理課金させない2つ目の理由はソーシャルゲームは「負け役」を必要としているから。

多くのソーシャルゲームは「VS」や「ランキング」のような競う要素を設計している。その中でソーシャルゲームユーザーは「勝利」や「上位」によって、喜びを得る。

ユーザーは「勝利」「上位」になるためにソーシャルゲーム上で「努力」する。「努力」は無課金でも可能だが、努力の量には限界が来る。そこで「努力」をブースト(加速)させる方法が課金だ。

課金によって努力が報われ、ユーザーは強くなり、ランキングは向上する。その時、課金ユーザーがランキングを向上するため、蹴散らす存在として必要になるのが課金ユーザーに負けてくれる無課金ユーザーである。多くの場合、無課金ユーザーは課金ユーザーに敵わない。

課金による努力が報われる「勝利」や「上位」を生み出すために必要なのは対になる「敗者」と「下位」者だ。

ソーシャルゲームでは課金ユーザーの喜びのために、敗北してくれる無課金ユーザーが必要なのだ。無課金ユーザーは「負け役」を担う代わりに、ソーシャルゲームを無料でプレイし続けられるのである。これな運営者が無課金ユーザーを存在させ続ける理由である。

「負け役」を必要としているソーシャルゲームは社会の縮図

この仕組みを知ると、ソーシャルゲームを無料でやり続けてもいいんだ、と思えるでしょう。お金を払わない代わりに、課金ユーザーに負けてあげているんです。そして、この構図を知ると、社会の景色も変わって見えないでしょうか。

いつしか世間を騒がせた「勝ち組」という言葉。「勝ち組」は「負け組」がいてこその「勝ち組」なのです。負け組がいないと、勝ち組は存在し得ません。負ける人がいるから、勝つ人がいます。敗者が存在するから、勝者が存在するのです。

大人に勝った子供と、子供に負ける大人

僕は小学5年生ぐらいに将棋を覚え、札幌将棋センターという将棋道場に通うようになりました。当時、将棋を指して最も嬉しい瞬間は相手が頭を下げて「負けました」という瞬間。中でも僕より何十歳上の大人が、小さい小さい僕に「負けました」と頭を下げる瞬間が何よりの快感でした。

小学生の僕はより多くの大人から「負けました」という言葉を引き出すために、将棋にのめり込んで行きます。大人に勝つことが嬉しかった子供でした。

札幌将棋センターの赤沼俊幸少年
札幌将棋センターの赤沼俊幸少年

あれから時は25年経ち、30代半ばになった僕は「コマなかま支部」という将棋支部に参加させてもらうようになりました。「コマなかま支部」では僕より歳上の方もいらっしゃいますが、目立つのは将棋が大好きで、将棋の強い子供たちの姿。この支部での僕の戦績は歳上の方達にはやや勝ち越し。しかし、子供たちには圧倒的に負け越しています。僕は子供たちに「負けました」と言い続けています。

そう、数十年前と立場は全く逆転しました。大人の僕は子供に「負けました」という言葉を引き出される側になったのです。

「負けました」と言う瞬間は悔しい。しかも何十歳も歳下の子供に頭を下げる「負けました」は、より悔しい。でも、どこか清々しさもあります。

コマなかま支部

数十年前、僕に対して負け役を担っていてくれていた大人。30代になって、僕は子供に対して負け役を担うことができるようになったんです。目の前にいる子供に対して「負けました」と言えること。

それは数十年前、負け役を担ってくれていた大人に対して、恩返しができているような気がするのです。受けた恩を次の世代に返していく、自分もそういうことが少しできている気がします。

トーナメントは残酷なルール

年に一度の将棋イベント「東急将棋まつり」内で開催される50人参加のトーナメント「初段獲得戦」に毎年出場しています。未だに一度も入賞もなく、毎年悔しい思いをして帰る大会です。帰路に毎度思います。「トーナメントはなんて残酷なルールなんだろう」と。

東急将棋まつり
東急将棋まつり

トーナメントで優勝できる人は1人。50人参加する大会では49人が悔しい気持ちになるルール。1人以外の49人は「負けて」その場を去ります(3位決定戦がある場合は別)。

1人の勝者のために存在する49人の敗北者。これもまた社会の縮図かもしれません。なんて残酷なルール。

逆に考えると49人の敗者がいるからこそ、50人の頂点に立つ1人の勝者が存在するのです。これが8人のトーナメントだとしたら?50人参加のトーナメントより優勝の価値は下がるでしょう。

トーナメント戦で負けるのは毎年悔しいのですが、敗者の1人1人がトーナメント戦と優勝者の価値を高めているといえるのです。勝負に負けた時は自分の価値がないような気持ちになってしまいますが、大会の価値向上に貢献してる気持ちを持っていいと思います。

時には上手く負け役を受け入れよう

運要素の強い麻雀は毎局勝つことが非常に難しいゲーム。一局だけなら、素人がプロに勝つことがあります。ですが、数十局…半荘(はんちゃん)を何度かやれば、トータルではプロが勝ちます。なぜプロが勝つか。理由のひとつは、「オリる」ことが上手い点があるでしょう。麻雀の「オリる」とは、勝ちに行かないで負けを最小限にすることを言います。「この局は勝てない」と思ったら、その局は潔く負けを認める。その代わり、チャンスの局には大きく勝つ。負けを最小限にして、チャンス時には最大限に勝つ。それが麻雀のプロの考え方のはずです。ずっと勝つことはできないので、時には上手く負け役を担い、チャンスを伺う。その考えを麻雀から、知りました。

苫小牧の麻雀

株のトレーディングで大事なのは「上がる銘柄を選ぶ」ことですが、同じく大事なことは「損切りをすること」。損切りとは値段の下がった株を売ることを言います。購入金額よりも値段の下がった株を売るのは心理的にかなり難しいのですが、この損切りを上手くやることが、「トレードで勝つ秘訣」だと、実績豊富なトレーダーは口を揃えて言います。損切りしてもトータルで勝てばいいのです。

負ける時は最小限に。勝つ時は最大限に。麻雀と同じ考え方です。

常に勝ち続けている人はいない。上手く負け役を担おう

僕はギリギリ20代前半までは自分が世界の主役だと思っていました。個人差はありますが、各々が世界の主役だと思っていた期間があり、何かしらのきっかけでその幻想は消え、自分は世界の脇役に過ぎないことを知るのではないでしょうか。

日本人では、大谷翔平や藤井聡太が主役のように思えます。しかし、一生主役な人はいません。かつて大スターだったイチローや羽生善治ですらも、主役である期間を過ぎ、今は脇役になっています。

トーナメント戦で勝ち続ける人はいません。ある大会の優勝者もかつての大会の敗北者であり、次回の大会では敗北者になるでしょう。

人生は勝ったり、負けたり、優勝したり、敗北したり…どちらかというと、負けている期間のほうが多いかもしれません。でも、ソーシャルゲームやトーナメントの敗者のように全体を盛り上げる気持ちで負け役を担うことも大事だと思います。恩を受けたり、恩を返したり。そうすると、いずれ株の損切りのように、麻雀のようにチャンスが来るかもしれません。敗者は社会にとって不必要ではなく、社会に必要な存在なのです。敗者がいるから、勝者がいる。時には負け役という役割を担うことが社会にとって必要なのです。

敗北と死に至る道が生活ならば
あなたのやさしさを オレは何に例えよう

あなたのやさしさをオレは何に例えよう「エレファントカシマシ 」


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