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ノードリターンから37歳以降の人生のテーマについて考えてみた

37歳:ノードリターンのこと

7月1日に私のノードリターンを迎えた。
ノードとは、ホロスコープにおける月のノード(地球の軌道と月の軌道が交差する点)のこと。通常、ドラゴンヘッド、ドラゴンテイルとも言われる。

ノースノード(ドラゴンヘッド)は魂の成長や進化を示し、今世の人生の目的や使命に関するテーマを表す。そして、サウスノード(ドラゴンテイル)は、過去の経験や習慣、過去世からの影響を示し、解消すべき課題や過去の傾向を示す、というものだ。

通常、ホロスコープでは、この時期以降は本格的にドラゴンヘッドの人生を歩むことになるという。人生の課題である。
ホロスコープにおける土星も、人生の課題として捉えられるが、このドラゴンヘッドも似たような位置付けである。

私は37歳。私の出生図に二度目のノードが返ってくる。
一度目の18歳の頃は、確かに美大に進学しようと思った節目でもあったなと思い返す。
そして、もう一度人生の方向性について改めて考え直す時期でもあるのだろう。


わてのホロ 牡羊座11度に🐉

さてさて、私の過去世からの影響である3ハウス天秤座の11度はサビアンシンボル「教授の講義を聴く若者たち」みたい。

chatGPTさんに聞いてみたら、
「ドラゴンテイルが天秤座11度の3ハウスにある場合、過去の知識伝達や教育に関する経験を生かしながら、現在のコミュニケーションや学びの環境で自己成長を図ることが求められます。他者に教えることと自己の学びのバランスを取りながら、過去のパターンを解消し、成長することが重要です。」
とのこと。

現在私は、人に教える、という経験は少ないが、大学院には長いこと在籍している。
そして、まさしく7月2日は、博論の中間審査査読会であった。審査は通過。
色々耳に痛い話もあったが、このまま今年度博士号取得となれば、18歳からの学びの期間というのが終わるということなのか。

過去世からのテーマ:教えること、と、教わること

それは全く違うものでありながら、先生方は私の論文を読んで「分からない、分からない」と悩んでくださっている(苦笑)
申し訳ないな、と思う気持ちもあるが、教えること、というのはこのようなヘボヘボ学生の論文を読みながら一緒に考えるということも含んでいるのだろう。
最近は、「もう、いつだって、論文が早く終わって、一人前になりたい」というか「論文が書けるような、研究者の視点も持ったアーティストになりたい」とゴールばっかり願っている態度を持っている私であったが、
少なくとも、論文を書くことも、「誰かに教えることなのかも」と思えてきた。
今後、人に教える意識と教わる意識というのを両方挑むというのは大事なのかもしれんと改めて、反省。
まあ、このテーマは一応、そろそろ終わるんだろうけど。
それに気づけ、ってことかー

広い知識と深い理解

昔から幅広く、いろんなことを学ぶことが好きではあった。
しかし、論文執筆に値r、いろんな思想をとにかく読む、知る、ことをこの数年尽くしてきたようにも思うし、「深く理解」することはまだまだ至れていない。
3ハウスは、双子座の部屋。とにかく幅広いコミュニケーションや知識のことを指す。風のように拡張していくような。
そして真向かい射手座は、まさしく学問と追求の部屋。9ハウス。私の太陽もそこにある。

9ハウス牡羊座11度はサビアンシンボルでは、「旗が東風に吹かれている(The President of the Country)」とのこと。このシンボルは、リーダーシップ、権威、社会的な責任を象徴するとのこと。

chatGPTによれば、「リーダーシップの発揮、精神的な成長と影響力の強化、社会的な責任の受け入れ、新たな方向性の提示、異文化との関わりが重要な課題となります」とのこと。これはこれで、新天地感ありワクワクする。

9ハウスは同時に「社会的なもの」を多く含むから、まだまだ学生という立場に甘えている私にとって、一人立ちできるのには、このドラゴンヘッドに頼みたいところ。
ただし、他力ではなく、ホロスコープは自身の持っている星を輝かすことが西洋占星術で大事なこと。37歳の切替の時期、何を社会的な責任と持ち、どのような態度を振る舞っていくか。サウスノードで学んだことが生かされていくような気がする。

私の課題、空洞さについて

本当に、博論を進めていく中で、私の制作をめぐる多くの問題が溢れている。それらをとっ散らかって、収集がつかずにいる。というのも現状であるし、もっともっと突き詰めたいことも出てくる。
あるいは、過去に興味のないもの、としてみていたものが、新たな意味の輪郭を持って現れている。
本来は、一つの結論に向かって、集中すべきなのに
本当に目移りしてしまう、そして寄り道の上に、寄り道ばかりの論文にもなっている。
結論を先延ばしする。私の悪い癖だ。
いまだに、論を遊ばせているような感じ。まだまだ3ハウスなの。
一つの方向に、理論の束となり、作品と共に答えを出したい。
出さなければ。

「言いたいことを言えない」というのは、気がついたら30代の悩みになっていた。昔はもっと言っていたというより、吠えていた。
そこでは、自分の主張はあったのだろうか。
ずっと、私は主張のない人間だったのではないだろうか。
ふわふわとつくりたいものの中で、楽しく遊んでいるだけ、だったのだろうか。
無理に社会化しようと思うと、途端に固くなる。
おそらく、「他者に対するうちなる恐れ」があったのだ。
それに気づいたのは2年前だった。
傷ついている自分がいる、そこのことを受容するだけで、もっともっと進めた。
最近は、この「主張がないんじゃないか」という自分の空洞さになんだか途方もない気持ちを感じるのだが、きっとそうではないとも思っている。

結論を先延ばしする、悪い癖が作り出した、今の私がこうなっただけなのである。
小さな結論を、作っていこう。
それを束にしてまた論を強めていければいい。
必要な素材は、たくさん手にしているはずなのだから。

ここ今の悩みは、大体3ハウスさんのこと。
それは、教授の視点が離れない。だけど大事なのは、私の小さな結論。
大きすぎる世界ではなく、全てがつながった小さな結論を大切に扱えば、大きな束の矢になる。9ハウスを象徴する射手座のように。
そんな気がする。

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