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瓦を磨く

こんにちは、山本茜です。

さて瓦を磨くとは何事か?

そもそも、タイトルの画像は何なのか?ご説明致します。

こちらは、スティーブ・ジョブズも愛読した鈴木俊隆(しゅんりゅう)さんという禅僧の本です。

私は今、この本に静かに魅了されています。

その中で今日読んだ所が【瓦を磨く】と言う公案(禅宗の研究課題)を読みました。

ん〜〜〜〜〜〜〜、その話しをしないと先には進めないので書きますけど、一言で言うなら「山の行より里の行」この話しを超絶ザックリまとめます!

昔、馬祖という禅師で馬の師匠がいて座禅してたとき、そのまた師匠の南嶽が来て「何してんの?」と訊きました。以下二人の会話をどうぞ〜。

馬祖「悟りを得たいす!仏陀になりてえす!」

南嶽「じゃぁ、オレ瓦磨いて宝石にするわ」

馬祖「師匠マジスカ!?瓦磨いても宝石には、、、」

南嶽「は?んじゃあ座禅してて仏陀になれんの?オメェの日常の心以外、仏性なんてネェからな!んじゃぁよ、荷車動かないとき、どっち叩くんよ?車か?馬か?」

馬祖「ぎゃふん!」

いやぁ〜〜〜〜、南嶽師匠のたたみかけがエグイですね。馬祖がぎゃふんとは言ってないと思いますけど、その後は馬の世話とか、ちゃんとしたと思います。

つまり南嶽師匠の教えは、「何をしてても座禅である」ということです。

これは、歩行禅、食事禅、と同じ意味合いですよね。

私は本を読みながら、おかしな錯覚を覚えました。

文字が濃く、そして大きく目に飛び込んできました。

よく考えたら、紙に印刷された、無数の点の集まりに過ぎないのに、これほどまでに頭をぶん殴られるって!私がぎゃふんって言っちゃいました。




で!

で、ですね!

このことを踏まえて、わたくしこと山本茜の心情に迫りたい訳なんです!

それは、「何をしてても美術である」といいたいのです。

美術という言葉を軽〜く「アート」とは書きたくなかったのです。

せめて、美学とか、図工とか、クラフト、、、ん〜〜だんだん意味変って来ちゃうなぁ、、、。




はい!撤回!

「何をしててもアートである」

つまり、日常には至る所にアート(美)が溢れてるんじゃないかって感じながら生きてるんです。

バイト行く時、桜が綺麗だなあ!とか。

うわぁ!なめ茸、美味しくつくれたぁ〜!とか。

この五感で感じる、「今」という時に、こんな面白いものがそこら中にあるだなんて、まさに奇跡だわよ!!!

レイチェル・カーソンさんなら、

「センスオブワンダーーーーーーーー!」って叫んだと思うのですよ。


だからね、禅と美は=で繋がると、私は思っています。

よし!そうだ!そういうことに決めてしまえ!

私はそう決めた、突然に。

そう、坂本慎太郎さんの「君はそう決めた」はとてもいい仏性があると思ってるヒトのひとりです。あれ?日本語がwww

仏性とは、私が私であるということ、あなたがあなたでいること。

そして、鈴木俊隆さんのこの本の、「瓦を磨く」の章末に、

『あなたがあなたであるとき、すべてをあるがままに見ます。そして周囲と一つになるのです。そこに真の自己があります。それが真の修行です。』

おおおおおおお!この周囲に溶けていく感覚!!

これは私が絵を描いたり、モノを創ったりするときによく感じます。

「何かであって、何かではない」

「私であって、私ではない」

淡々と、、、こつこつと、、、日々自分の相撲を取るだけっす!

や!相撲は取りませんけど、、、、なんか創ったり描いたりしてます。

だから、このブログも文字だけでも美術であり、禅でもあるのです。


今日も、ごきげんよう。

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