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【発売22周年記念】HOT LIMITとは何だったのか

 かつて時代の先端にあったものは、往々にして嘲笑とともに振り返られるものであり、90年代の女性に見られる太い眉毛やシャツをパンツインする男性のファッション、たけのこ族からなめ猫まで、無限の事実がこれを例証している。
 しかし、ことHOT LIMITについて言えば、この法則を当てはめることはできない。僕らは決して回顧的にHOT LIMITを笑うのではないし、嘲けりよりは畏敬の念をこめてこれを愛するのである。

 裸に黒い紙テープを巻いた男性がクネクネと海面で踊りまわり、絶頂のポーズをきめるたび爆音とともに水面がわき立つ。ギャグすれすれというよりはじめからこれはストレートなネタであり、時代を問わぬこの気持ちよさには間違いなく普遍性があると言えよう。
 事実、古い記憶をたどるかぎり、当時の人々もこれをネタとして享受していたはずだ。もちろん、T.M.Revolutionは当時最も勢いのあるアーティストの一人であったし、多くのファンが彼を「かっこいい」ものとして捉えていたことは間違いない。しかし、それでも西川貴教は、純粋にかっこいいアーティストであるというよりは、常に既にネタ感を漂わせていた。「エロかっこいい」の標語にならえば、おそらく彼は「ネタかっこいい」アーティストだったのだ。

 たとえばイケメン俳優が、どこから見ても完璧であるように、一面的にかっこよくあろうとすればするほど、僕らはそこにネタを見て取るし、ネタにされればイケメンのかっこよさは掘り崩されてしまう。「言いたいことも言えない人」というレッテルを貼られた反町隆史が、このタグ付けによって一面的なかっこよさを失ったことは確かであるし、こうした事情を踏まえると、かつて織田裕二が自らのモノマネに渋い態度をとり続けた理由にも得心がいく。一面的なかっこよさを受容させようというのがいわゆるイケメンの狙いであるからには、その裏側に受け手が回る「ネタ化」の介入は、断固としてこれを避けなければならないのである。
 しかし、西川貴教の場合は、あえてその逆をいくことで無二のかっこよさを手にした。彼は自身のかっこよさを作り込むのではなく、むしろあらかじめ掘り崩すことによって、ツッコミ待ちのデフォルトでもって音楽シーンに飛び込んだのである。

 ただし、この戦略には大きなリスクが伴う。というのも、ツッコミ待ちの構えをとるということは、一定程度にふざけることを意味するからだ。
 たいていの場合、ふざけた人間に対する世間の風当たりは冷たい。西川貴教のネタ的振舞いが一笑に付される可能性は大いにあったし、実際、受け手に何の免疫もない状態でHOT LIMITが世に放たれていれば、おそらくワキ毛のない人という印象だけを残してこの名曲は死産していたであろう。
 しかし、T.M.Revolutionはこの点でも巧みだった。西川は、受け手との間に絶妙な距離を保ちながら、各CDを発表するたびに、徐々に少しずつふざけていったのだ。序盤は暴風雨をうけながらカラダが夏になる程度におさえ、感触をつかんだところで雪山に乳首をさらし、死角はシタゴコロのポーズで打算の構図を見せつつ、いよいよのところでHOT LIMITにいたる。
 一度に踏み出す距離は大きくないが、それでもT.M.Revolutionは、徐々に着々とメインストリームからズレ進み、徐々に着々とネタの強度を強めた。そうした漸進的ネタ化をへて、欲望のレベル上げのいわば頂点に君臨するのが、稀代の名作HOT LIMITなのである。
 
 そういうわけで、T.M.RevolutionによるHOT LIMITは、もうこれ以上ふざけることのできないギリギリの地点にありながら、それ単独で見れば既に大きくふざけすぎているという、ひとつの奇跡を実現している。
 ただ、こうしてごちゃごちゃ並べ立てたところで、HOT LIMITの価値はこのような歴史的意味づけによって明かされるべきものでは本来ないわけだから、もうそんなんどーだっていいから冬のせいにして、僕はただ目の前にあるHOT LIMITとT.M.Revolutionを、これからも愛していきたいと思う。

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