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『ミラベルと魔法だらけの家』によっていじけた私の魂の行方

※ネタバレあり

 思うに、この作品には二つの物語がある。一つは「特別なチカラ(=GIFT)を持つ者の物語」で、もう一つは「特別なチカラを持たない者の物語」だ。
 このうち私は、前者にまつわるメッセージには強く共感する一方で、後者にまつわるメッセージについては、なんだか腑に落ちないというか、モノ足りないというか、もやもやしたものを感じた。
 以下、自分のこのもやもやがどこから来るのか、考えを整理したい。

 細かいあらすじは省略して設定だけ確認すると、主人公のいるマドリガル一家は、それぞれにGIFT(=特別なチカラ)を与えられていて、その特別なチカラを家族と町のために活用している。
 このような、誰かの特別なチカラによって社会が救われている…という構図は、創作・現実を問わずよくあるものだ。ヒーローはいつでも特別なチカラを発揮して悪を成敗するし、ムービースターや一流スポーツ選手の与えるスリルや感動は、私たちの生活にいろどりを与えてくれている。
 ただ、『ミラベルと魔法だらけの家』は、そのようにして、共同体の秩序や活力が誰かの特別なチカラによって守られるという構図の正当性に、疑いの目を向ける。個人のはたらきに依存して共同体が維持されているというのは、本当に正しいことなのだろうか、と。
 一見何の問題もないように見える共同体だが、それを支える個人の内面に目を向ければ、力持ちの姉はプレッシャー(役に立たなくなったらどうしよう…)に押しつぶされて心を病み、完璧な姉は自己犠牲によって不本意(本当は結婚なんてしたくないのに…)な人生を歩もうとしている。共同体の存続に危機をもたらしそうな叔父は、周りをおもんぱかって(自分さえいなければ…)自ら姿を消す。
 共同体を維持するために個人が不幸になるのだとしたら、その共同体は何のために維持されるのだろうか。そんな共同体は、壊して、つくり直してしまえばいい。私たちの共同体は、社会は、一人ひとりの人生を輝かせるためにこそあるべきなのだから——。この物語からは、そのような、個人の内面を社会の抑圧から解放して自由にしようという力強いメッセージが込められているように思う。
 共同体の維持を至上命題としていたおばあさんは、言う。「私たちの奇跡は誰のためにあるのか見失っていた」と。そう、特別なチカラは、自分自身のためにこそあるのだ。ミラベルも歌う。「あなたはあなたのGIFT以上の存在」と。大切にすべきなのは、何よりまず、自分自身なのである。
 誰かのために特別なチカラを使う旧来のヒーロー像を刷新し、自分の人生を自分らしく特別に生きる新たなヒーローたち。それはとても現代的(私は東京オリンピック女子団体決勝を棄権したバイルスさんを思い出した)であって、大いに魅力的でもある。
 そういうわけで、私はこのメッセージを肯定すべきだと思うし、肯定したいと思う。しかし、ここでノイズになるのが、もう一つの「特別なチカラを持たない者の物語」なのだ。

 この作品の主人公であるミラベルは、家族の中で唯一GIFT(=特別なチカラ)を与えられず、それにとまどい、悩みながらも、家族のために自分にできることを一生懸命やろうとする。
 世の中の多くの人は「特別なチカラ」を持っていないか、もしくは実感できていない。だから、観客のなかには、GIFTを授かることのなかったミラベルに感情移入する人も多いだろう。実際、私自身も、ミラベルへの共感とともに物語の行く末を案じていた。私と同じように、ミラベルには特別なチカラがなく、自信もない。そのミラベルが、最終的にどのように救われるのだろうか。どうか、ミラベルと私を救ってほしい…と。
 しかし、最終的に、私のこの想いはくじかれることになる。というのも、結局、ミラベルに救いをもたらすことになるのは家族であり、また特別なチカラだからだ。
 いろいろ飛ばすが、ミラベルは、家族たちから「あなたの存在こそGIFT」的なことを言われ、自分自身の価値を認識する。さらに言えば、そもそもそのようにしてミラベルが家族の祝福を得るに至るのは、ミラベル自身が過剰なまでの行動力をもって事態を進展させ、また、溢れんばかりの共感力で次々と家族の本音を引き出すからだ。それは、私のように普通(以下)の人間にとっては、まずもって不可能な所業である。
 私には、存在を祝福してくれそうな立派な家族もいなければ、また、そのような奇跡を生み出せるほどの行動力も、人望も、魅力もない。私はミラベルになれない。一度は共感に近い想いを抱いたからこそ、この裏切りとも言うべき顛末に、私は強く失望したのである。

 こんなことなら、特別じゃない(フリをした)ミラベルなど、はじめからいなければよかったのに。
 全員が特別なチカラを持つヒーローたちが、実はそれぞれにつらい内面を抱え、社会のために苦しんでいたのだと気づかせてくれる物語——。そうであれば、私は、崩壊した家に材木を抱えて歩み寄る村人Aとなり、「もう頑張りすぎなくていいんだよ」「みんなで力をあわせれば、特別なチカラにだって匹敵するんだ」と穏やかに歌いあげることもできたはずだ。
 それなのにミラベルたちは、村人たちの力をかりて新たにこしらえた家屋に私たちを招き入れておきながら、最終的には「私たちはマドリガル一家だ(イエーイ!)」と特別なメンバーだけで記念写真をとる。
 そのとき、結局自分は物語の主人公ではなく、画面の裏側でその様子をながめているだけのみじめな村人なのだなあと、私は、しみじみといじけた気持ちになるのである。

 そういうわけで、私のもやもやの正体は、物語の周縁にはじかれることを運命づけられた村人の悲哀だったのである。
 ディズニーが、もしも再び私のような特別でない人間に歩み寄ろうというのであれば、次こそは、徹底的に村人的な凡人を主人公にすえたうえでその村人にこそふさわしい幸せを描き、一度はいじけた私の魂を今度こそ浄化してほしい。
 ディズニースタッフが特別なチカラをもっていると信じているからこそ抱く、いじけた私の心からの願いである。

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