風を食べる

 風が吹いている。鳥山さんは風を食べた。美味しかった。心地のよい味がした。苦くはなかった。
 きっかけは風を食べると風のように足が速くなると先輩にいわれたからだ。鳥山さんはとっても足が速くなりたかった。先輩は憧れの人でとっても足が速かったからなんでも先輩の真似をした。先輩が風を食べて足が速くなるといったから鳥山さんも風を食べ始めた。
 先輩は五十メートル走を五秒で走った。有り得なかった。周りからなんでそんなに速く走れるの?と訊かれ、いつも風を食べているからと答えた。周りはそんな莫迦なと取り合わなかった。唯一鳥山さんだけが信じた。鳥山さんは先輩になりたかった。足が速いのはもちろん憧れていたけれど、先輩自身の人間性に惚れていた。先輩の人間性も風のような人だった。今思い返すともしかしたら人間ではなかったのかもしれないと少し訝しく思うけれど。
 風を食べて足が速くなるかなんて誰も分からない。でも鳥山さんは風を食べるのが好きだ。風を食べると先輩のことを思い出すから。
 先輩は中学を卒業と同時に消えた。音信不通になった。消息を絶った。どうなったか誰も知らない。あれだけ足が速かったからスポーツ界で注目され日本中で騒がれていたはずなのに。何事もなかったように掻き消えた。それこそ風のように。もう誰も覚えていない。始めから先輩などいなかったかのように。
 なぜ鳥山さんだけ先輩の記憶があるのか?風を食べているからだ。先輩に風を食べると足が速くなるといわれ、信じ、ずっと風を食べ続けていると先輩のことを思い出すから。
 強い風が吹き荒ぶある日鳥山さんは大きな口を開けて、風よ、すべて食べ尽くしてやる、世界一の足の速さになってやる、と思いっ切り風を食べた。鳥山さんの体の組織が組み変わる感覚があった。鳥山さんは鳥山さんではなくなり先輩になった。先輩になった鳥山さんは五十メートル走を走ると五秒で走った。周りが驚いてどうしてそんなに速く走ることができるのかと訊いた。先輩になった鳥山さんはいつも風を食べているからと答え、ぼそっと世界一になるために思いっ切り、とつけ加えた。

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