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躁鬱病との2年間

2年前(正確には2年3ヶ月前)、躁鬱病(双極性障害)を発症した。(私の定義では)躁鬱病とは気分の上げ下げが激しく、コントロールの効かない状態の人を指す。病歴を書く機会があったのでここに残す。赤裸々に書きすぎているので、刺激が強いかもしれないが、ほとんど原文ママで載せる事にする。躁鬱病は人とは比べることができない病気だが、ひとつの症例として、誰かの参考になればと思う。ちなみに、写真の薬は随分前のもので、今はさらに倍くらいの量を飲んでいる。


発病


名古屋で一人暮らしし、大学に通っていた。10月頭に大学院受験に失敗し、浪人を選択し、そのために大学の課題を素晴らしいものに仕上げ、賞などをとらなければいけないというプレッシャーがあった。10月末、涙が止まらなくなる。大学の課題ができない。
12月半ばから、教授のアドバイスを理解できなくなり、何も考えられなくなる。希死願望がではじめ、いのちの電話や生きづらびっとに電話をかけまくる。夜に一人で徘徊をする。生活能力もなくなり、トイレ以外ずっとベッドに寝ていた。大学にもほぼ行けていない。
1月半ば、アルコール度数40度ほどのお酒を飲んで、トイレのドアノブに紐をかけ首を吊ろうとするが、酔って気持ち悪くなりベッドで寝る。このことが原因で母に希死願望があることがばれ、実家に強制送還される。同時に彼氏にもふられ、実家で寝たきりの生活になる。母が心療内科を予約してくれ、受診することになった。

一軒目の病院


病院を受診し、自分が病気であることを自覚する。医師には大学の課題をあきらめないで最後までやるように進められるが、何も分かってくれないと感じた。大学には行けず、教授とオンラインで相談し、卒業課題を調整して卒業する。

実家では、涙が止まらなくなったり、過呼吸になったりする。希死願望が強く、髪の毛を自分で切ったり、木の家具の角に何度も頭を打ち付けたりする。頭を打ち付けたときはおでこが紫色に膨らんでどくどくと痛んだが、前髪で隠して次の日にはおでかけにいった。しばらくしゃがんで、一気に立ち、頸動脈をしめると気を失うことができることに気づき、外の坂道などで実践し、擦り傷をたくさん作る。気を失ったあとは数秒後に覚醒し、涙がとまらなくなる。これを階段の上で実践すれば死ねるのではないかと思ったが、怖くなってできなかった。家族の前では平静を装い、妹の大学受験のサポートをして気を紛らわせていた。
薬が効いている感じは全くなかった。PMSも原因の一つと考え、婦人科にてピルを処方してもらう。

今の病院へ


実家に戻ったため、転院する。家族構成や原因などよく話を聞いてくれる先生でとても気に入った。妹が進学で家を出ていき、思う存分病むことができた。ピルのおかげで生理やPMSに悩まされなくなった。4月から調子が悪いとき以外2週間程度通院する。
初日以外は一人で電車に乗って通院していた。親に迷惑をかけたくなかった。時々涙が止まらなくなったり、6月頃から睡眠障害(眠れない、中途覚醒など)が始まる。それまでほぼ寝たきりの生活だったが、趣味で刺繍をはじめる。食事中の咀嚼音や、テレビの情報量の多さに耐えられず、常にノイズキャンセリング付きのヘッドフォンをしていた。ニュースなどは特に情報量が多くて見られなかった。ある時、映画など興味のあるものはみることができるようになった。毎日母が帰ってくるまで暇をつぶしていた。8月には一人で宝塚市までいき、宝塚を観劇することができるようになるまで回復していた。一進一退でだいぶ調子もよくなり、薬の調節も落ち着いてきた。

バイトを始める


9月から調剤薬局のアルバイトをはじめ、月水金で一日5時間ほど働く。11月に伝染性単核症になり、アルバイトを1週間ほど休む。通院は12月から3週間おきくらいの頻度になった。10月、学生の時にインターンをさせてもらった県外の会社からの誘いを受け、病院の許可のもと翌年1月から就職、一人暮らしすることを決める。一方で、楽しみにしていた友達との旅行が突然現地集合となったことで、一人で現地まで行く自信がなく、うそをついてキャンセルした。

就職する


県外で一人暮らしを始め、1月から3月まで、アルバイトとして週4日、個人設計事務所で働き始める。1月から物理的距離もあり、病状も安定していたこともあり、だいたい2か月おきに通院する。
初めの1か月程は仕事や人間関係に対してストレスもあったが、一つ仕事が終わると楽になった。慣れもあったと思う。3月半ばまでは軽いうつ状態で、どちらかと言えば死にたいと思ったり、夜涙が止まらなくなったりした。仕事の日は、昼休みに家に戻り食事と仮眠をとっていた。休日はほとんど寝て過ごした。生活は、冷凍総菜中心で、炊飯、ゴミ捨て、洗濯、入浴を困らない程度に行えていた。
3月後半から躁状態に入って(ここの原因がわからない)、比較的元気に明るく過ごした。
4月から週4日勤務の正社員となった。同期も入り、同僚との距離も縮まって、楽しく過ごした。仕事にも慣れ、リズムができてきた。躁状態に入ってからは、休日は誰かと遊んですごした。躁状態がひどくなりすぎたときには1日に5人と会う約束を取り付けたり、小学校の先生に会いたいと思い立ち、小学校に電話を掛けたりした。財布のひもも緩み、たくさん買い物をした。同僚が社長に怒られたときは、なぜか私も泣けて不安定になった。軽い躁と軽い鬱を繰り返していた。新しく彼氏もできた。8月にコロナ感染し、鬱を再発した。過呼吸と気分の落ち込み、生活力の低下、実家に自力で帰れない。9月に1週間仕事に行ったが、やっぱり気持ちが追い付かなくて休む。10月、11月と様子を見たが復帰できそうにないので、最後に出社した9月で雇用契約を解除することになった。

退職から今まで


希死願望が強い。何度も首を吊ったが紐は切れ、気絶して痙攣するところまでしかいけなかった。包丁で首を切ったが力が弱すぎてみみずばれになった。いつ死のう、ということしか頭になかった。実家に戻った当初から毎週通院する。食欲は一応あるが意欲は低い。入浴も洗髪、歯磨きなどは怠る。
12月中頃、彼氏にふられ、精神安定剤を230錠のみ服毒自殺を図る。ひどい鬱状態になる。年末にインフルエンザにかかり、1月からものすごい躁状態になった。1日に30人以上に電話をかけた。全部で118人にもかけた。(かけたみなさんご迷惑をおかけしました)そこから電話癖がついて、暇さえあれば誰かと電話したいと思うようになった。出かける予定もたくさん詰め込んだ。家族に注意されている。医師からは躁状態のあと、鬱状態になると言われているが、躁状態が落ち着いてきて、少し躁、くらいが2ヶ月ほど続いている。薬のバランスもすこぶる良い。眠気も残らず、夜もぐっすり眠れて、気分もいい。ついにアルバイトの許可もでて、この調子がずっと続けばいいのにと切に願っている。

おわりに

こうして書いてみると、私の躁鬱の波は比較的大きい(期間が長い)ように思う。そして、私の躁鬱病のポイントが見えてきた(気がする)。

・躁鬱の起点には感染症(病気)がある

・大きな波の後は比較的落ち着く

・男に左右されすぎ

これらから分かる躁鬱病攻略ポイントは、

・健康第一

・気分が大きく変化しても慌てない

・恋愛はできるだけうまくやる(もしくはさける)

である。これを元に今行動しているためか、とても穏やかな日々を送っている。調子に乗って海外旅行までいってしまった。

あと、安心して欲しいのが、私はもう死なない、ということ。今年に入って、私はこんなに死のうとしていたのに死ねない、なんて頑丈な体なんだと思い、死なない、ということを決めた。どんなに鬱になったとしても、もう二度と自殺行為はしないとここに誓う(既に電話でたくさんの人に誓った)。もしも、万が一、死にたくなった時がきたら電話をかけまくろうと思う。電話に出てくれた118人の友達(先生とかもいる)が助けてくれるだろう。SOSをだすことは結構難しい。だけど、絶対に死にたくないのでみんなに頼りまくろうと思う。本当は、自分でなんとかできたら一番良いのだろうけど、実際問題そんなことできっこない(経験談)。

ある日突然、私から電話がかかってきたあなたへ。
泣きながら助けを求めているかもしれません。死ぬしか希望を見出せていないかもしれません。できたらでいいので、優しい言葉をかけてください。もっと言うと、あなたが死んだら私は悲しいと伝えてください。その言葉が一番刺さります。
その時は、どうか私をよろしくお願いします。

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