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不要不急のつづき

 六月も下旬。都内のクリニックに行くついでに美術館に寄り、映画もみる。食事もさんざ食べる。そうでなければ東京にまで出て行く必要がないというよりも、都内にまで来ておいて、そこにある企画展を、映画館を、色よい飯屋を、看過しろという方が土台無理。美術館でなんざ滅多に感動したりはしないが、映画館で映画を観ることは、私にとって街にまで足を運んだ作法みたようなものなのである。私にとって映画館は星であり、海であり、風なのだ。漁業の盛んな港町に赴いたのならば、漁師の顔を見ても、現実感喪失気味でなにも感じられない心の健康状態にあるわけだから、海を見に行く。その海が、私にとっての映画館なのだ。多少の凪や時化の差はあれど。いい譬えだ。そして魚を食する。そのような関係性のなかから、人生の意義を見いだしてゆくのが私の行き方なのであって、つまりは貧乏性にできている。この場合の贅沢な人間というのはアレ。若いのにパソコン使いこなして、デイトレードとかで月に一億とか稼ぎながら、けれどもどうしたらいいかわからなくって、カップラーメン食べてるような人。時間を贅沢に、浪費しているわけである。ゆとりはない。生き急ぐ。不急という言葉にとんと縁がない。開き直ったわけではなくちゃっかり手袋用意していったりとか、万全に対策をしていったり、プチ贅沢をしていたりするのだが。その日東京は、どこかプレートがズレていた。ビルに遮られていなければ月が三つくらいありそうな都市だった。コロナのリスクがある街のなか、感染を恐れる緊張感もあれば、ああこんなもんなのか、と弛緩するというよりは、現状をだらだらと認識して、納得させられていったりと、意識の先がいろいろな方向へと振れる。透明なヴィールスがいると、ふだんとはまったく違った角度から、街がみえてくる。こんな風な感覚で街を歩いたことはない、と思う。窓の上方が開いている東京メトロで聞く、トンネルのうなり声は、いつもよりもダイレクトで、鮮烈で、真夏日の外を歩いて汗をかいていた私は鉄くさい風にくしゃみを放ち、周りの視線を気遣うのであった。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。