読書記録: 自分思い上がってました日記
パラリと、めくったその先、たった3行目。がんの告知から始まる本だとは思わなかった。
事前情報はほぼ入れず、文学フリマで向坂さんがお好きなら北尾さんとのやりとりですごく良いシーンがあったのでこちらを! と強く推された。タイトルだけでも面白そうだなと思い購入させて頂いた本。
その時はまだ『夫婦間における愛の適温』を読了していなかったが、そちらは寝る前に読む本と決めていた。
『自分思い上がってました日記』はとてもコンパクトで手馴染みのいいサイズ感だったので、お出かけの途中で読むのにちょうど良いかも。と家に帰って、なんとはなしにパラリと表紙を開いたのだった。
思い上がっていたのは私だったと思った。なんの心の準備もせずに手にしていい本じゃなかった。
とても読みやすい。読むのが遅い私でも気づけば栞が半分を過ぎている。難しいことは書いてない。
ただ、一度立ち止まってしまうと怖くて開けなくなってしまった。
私は北尾さんに文学フリマでお目にかかっている。北尾さんは生きていらっしゃる。
がんの告知からまだ1年も経っていない、と本の冒頭を開いて確認する。
この本の情報を、何も本当に仕入れていない。ラストも知らない。続編があることは知っている。北尾さんがご存命なのも。
私は、作者の生死によって、病気の有無によってその本に対するスタンスが何か変わるのだろうか? と自分にずっと問うている。こんなに意識すること自体に戸惑っている。
これまで気にしたことなんてなかった。面白い本を読んで、作者がご存命なら同じ時代に生きれてよかった、ファンレターでも書こうかな、新作も読めるかも? と胸躍らせることはあっても、本に対する評価は変わらない。
亡くなっていたとて、読む本の中身がかわることもないし、私は悲しみながらその本に向かうことはない。そこまで読書に親しんでこなかったのもあると思うが、多分ある程度フラットな姿勢で臨んでいた筈だ。
それが、今は手が止まってしまって読むことすら難しい。
フィクションならよかった。
日記は、その人に近すぎる。
「日記を読む」という行為に、その筆者の生々しい呼吸を耳元にわざわざ近寄って聴きにいくような不躾さを感じる。
『異邦の騎士』の作中作である日記も、創作であるとわかっていながら、とても読むことがつらかった。
どうしたって人1人の人生の、しかも死が視界に入っている恐怖を抱えた人間の1日1日は軽いとは言えない。
死を宣告された訳ではない。病気の告知だ。人はいつだって、いつか絶対に亡くなる生き物なのに。
やっぱりどういうスタンスでこの本に向き合えばいいのか難しくて、考えている間に読み終えてしまった。
私の母は癌と判明してから半年で逝ってしまった。最後の数週、その日の熱とつらさと、便や尿の回数、食べられた日はその食べ物のおいしさ、お見舞いに来てくれた人への感謝を綴ったメモが残っている。
死を意識した言葉はなかった。私たちへ何か書き残すこともなかった。
その日記は母が生きていた証で、母が死ぬ少し前までの苦しみや生きる喜びの足跡として手元に残している。時が経つにつれ美化され現実から離れていくような感覚があるが、これを読むと、ちゃんと意思や感情を持った人として存在していたことを確かめられる。
私はあまりエッセイを読まないからか、作者の存在もどこか次元の違う人のように思ってしまう。
その人の存在を感じるエッセイも、日記は特に人肌のざらつきさえ伝えてくる気がしてならない。
そしてここで終わってしまうなんて。
勧めてくださったスタッフさんが遣り手すぎる。
人工肛門の位置をマーキングされたまま終わりなんて、続きが気になってしょうがないじゃないか。
どんな気持ちで続編に臨めばいいのかわからない。
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