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チューニングが合わない


 大阪に引越してきてから、中々チューニングが上手くいかない。
 なんのチューニング? と訊かれると適当な言葉は見当たらないのだけど、生活する上でなんとも私だけが“外れている”感覚がある。

 私は歩くのが遅いらしい。歩くのが遅いと知らない人に話しかけられやすいというネット記事を夫にそっと見せられた。
 知らないおじさんに道を聞かれたと思い足を止めたら200円無心され渡してしまったと夫に報告した後だった。
 姉に西成には絶対1人で行くなと言われている。新今宮駅も乗り換えでしか使うな、駅から出るなと念押しされている。
 200円おじさんは西成に行かねばならないと言っていて、見た目も西成らしさを感じる風体だった。(夫と一度だけ西成を歩いた時駅にそういう風貌のおじさんがいた。怖かった)

 初めて大阪に訪れたのはまだ高校生の時で、その時も公園に寝ているおじさんがいたので姉に「あの人大丈夫? 声かけんでよかと?」と訊いたら「あの人はあそこに住んでるから。見たらいかん。声もかけたらダメ」と教えてもらった。

 でも先日、公園じゃなくて、アーケードの中、人通りがたくさんの道の端に仰向けで首だけ柱に支えられてるみたいな男性が視界に入った。こんな場所、住んでる訳ない(公園も住む場所ではないとは思うが)焦点の合わない目が怖くて、夫の腕を強く握って身を寄せた。近くに警察の人がいたから何もすることはない。

 だけど、だけど、人が、そこに、瞳孔の開いた、たぶんおかしい人がそこに横たわって目を開けているのに、それを日常としてそのアーケードを行き交う人たちは見向きもせず、その光景が「普通」として存在することにも身震いした。

 日常に突然現れる倒れた人という場面は私にとってはホラーだ。ゲームの8番出口みたいに、歩いていたら向こうから来る男性の顔がないパターンくらいの異変なのに、それを異変として見ない、引き返すそぶりもない私以外のたくさんの人。大阪出身ではない夫でさえ「都会では普通だよ」と口にし私の腕を引いて真っ直ぐ通り過ぎて行った。

 電車と電車が行き交う瞬間は何度でもビビりちらかし体が動いてしまう。目をぎゅっと瞑って身を固くする。イヤホンをつけてノイズキャンセリングをつけていればいいのにと勧められるが、電車によってはアナウンスが聞き取れなくて不安になったり、耳が塞がれている感覚が怖くなったりする。

 都会の電車に乗ったのも高校生の時が初めてで、恐らく古い車両で速度が速い電車同士がすれ違ったんだろう、パァン! という激しい破裂音に私は恐怖した。
 耳を塞ぎ、目を固く閉じ、身を屈め、こう思った。
(発砲事件だ!! 誰かが銃を撃ったんだ! どうしよう!! どっちに逃げればいい?!)

 しかし、発砲事件にしては車内に悲鳴の一つもあがらないのはおかしいとすぐに気づいた。そして隣にいる姉が何もアクションをとってこないのもおかしいと。
 そろりと瞼を開けると、目の前に座っている人は皆、何事もなかったかのように携帯を見つめているのだった。
 私はまだ(都会だから……銃の発砲なんて日常茶飯事なの……? 慣れてるから??)と音の正体が発砲音だと信じて疑わなかった。
 姉を見ると「怖かったね。電車と電車がすれ違うとおっきな音のするもんね」とやっとあの発砲音だと思ったものが都会では日常の音なんだと知った。

 電車を降りるタイミングもわからない。田舎のバスは完全に停車するまで動かないでください! と運転手さんにきつめにアナウンスされることの方が多いのに、電車は動いている内に扉にみんな集まる。
 そしてサッと降り、ドドドドと乗り込まないとすぐに電車は動き出してしまう。時間通りの運行は素晴らしいけれど、私はもっとゆっくり余裕をもって動いてほしいと気持ちが焦る。だけど、郷に入っては郷に従えだ。このサッ、ドドドドの流れに乗れるよう努力しようと思った。

 ぎゅうぎゅうに詰まった車内で、扉が開き、中々動き出さない目の前の人に、このままでは取り残される! と狼狽え「お、降ります!」と声をあげた。「いや俺らも降りますけど?」と返された。「す、すみません……」「え? 何? びっくりした」と私の外れ具合に人を困惑させてしまった。ぎゅうぎゅうの時のサッ、はタイミングが掴めない。とても恥ずかしくて顔が熱くなった。電車からはちゃんと降りられた。

 私だけ、なにか調子を外している感覚がずっとある。大阪のチャキチャキした流れや雰囲気や光景の中、道に横たわる男性の方が日常で、大きな音が鳴っても動じないのが都会の人で、そこで泣きそうになってる私の方が異質な存在なんだと1人恥ずかしくなる。

 早くチューニングを合わせたい。慣れたいと思えば思うほど色んなことに敏感になっていく。今まで知らなかったものを知っていくにはアンテナを強固に張らなければと思うのに、恐らく、“慣れ”というのは鈍感になる方が近いのではないだろうか。

 私は典型的なHSPだろう。とりわけ苦手な電車に慣れるにはとても時間が要ると思う。むしろ、乗れない訳ではないのだから、ただこの不快感と一緒に過ごしていくしかないのかも知れない。
 線路の掠れるような軋む音や、ガタンゴトンと揺れる鉄の塊を実感する音とか、どれも電車ごとに気にならない時もあるのだけれど、アナウンスが耳にキンキンと響く時もある。電車だけじゃない、都会のどこにいても喧騒が耳に入る。ノイズキャンセリングのイヤホンを外した瞬間の雑多な都市の音にはいつも驚くし不快で不安になる。

 挙げるときりがないほど、私は何かしらいつも戸惑っていて、緊張していて、落ち込んだりどうしようもないことをあれこれ脳内でこねくり回したりしている。

 勿論都会の良さもたくさん享受して、色んなお店やイベントや物や活気が豊富に賑わって、楽しかったり面白かったりドキドキわくわくすることもある。

 だけど、それも私にとってはたくさんの刺激に変わりはないようで、毎度毎度街に繰り出す度に夜熱が出て「お前には無理だよ」と誰かに諭されているような気になる。
 チューニングが合わないから熱がでるのか、合わせようとするから熱がでるのかわからない。

 もっと若くて柔軟性のある時期に来ていれば違っただろうなとも思う。

 もっと別の面で「特別」な自分になりたかったのに、ずっと自分のポンコツ具合を実感させられている。人に迷惑をかけなければいいのだろうが、迷惑をかけている。

 大きな横断歩道で赤信号に変わっても、ゆっくり手押し車? に掴まって歩くおばあちゃんがいた。車道側は青信号でも車は待ってくれているので大丈夫かなと思いつつ気にかけて見ていた。
 やっと歩道に辿り着いた時、車道と歩道の段差に車輪がひっかかって、おばあちゃんはハンドルを細かく動かしなんとか段差を越えようとしていた。
 何も考えず、咄嗟に近づいて助けようと思った。「大丈夫ですか?」その瞬間おばあちゃんは自力で車輪を歩道に載せていた。
 大丈夫そうだ。よかった。おばあちゃんも笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。
 おばあちゃんが歩き出そうとした次の瞬間、バランスを崩してバタン! と倒れた。おばあちゃんも手押し車も。
 起こそうとする別の通行人を一旦止めて、「無理に起こさない方が…頭は打ってませんか?」とおばあちゃんに尋ねた。「頭は打ってない。大丈夫大丈夫」「私が声をかけたから…本当にすみません。病院に行きましょうか?」「いやいや大丈夫大丈夫、行って行って」と道に座ったままのおばあちゃんに払われるよう手を振られる。
 私は倒れたままの手押し車をおばあちゃんの近くに置いた。おばあちゃんは立てれば大丈夫と言っていたが自力で立つのが困難な状態だった。歩道をゆっくり進む速度と、おばあちゃんの物言いから、恐らく元々立ち上がることが難しい状態なのだと思ったが、倒れた時の影響がないとは言えない。
「痛いところないですか? 本当に病院に行きませんか?」「大丈夫! 大丈夫だから!」
 そこまで言われて食い下がれなかった。おばあちゃんを支えて立たせてくれた男性が、「おばちゃんどこ行くん? 駅? 俺時間ならあるから一緒についてくで」と声をかけていた。
 しかしおばあちゃんはそれも断っていた。少し歩いて、戻って、おばあちゃんはタクシーに乗った。

 200円おじさんの話を姉にした時、「こたにその人を助けることはできないよ」と言われた。

 その日のパンを恵んだとてその人の一生を救うことはできないということだろう。

 1人の人間の一生を左右することなんてできないと思った矢先(そんな大それたことは思ってもなかったけれど)私は高齢のおばあちゃんを善意の押し売りで転倒させてしまった。

 高齢の方の転倒は今後の人生を左右する可能性がある。骨折でもしていれば、その後寝たきりになってしまったという例は幾らもあるじゃないか。
 骨折をした経験がないので、骨折した後手押し車ででも歩けるのかどうかわからない。足を引きずっているようなそぶりはなく、行ったり来たりするくらいには歩けていたけれど、私はもう祈ることくらいしかできない。
 そして今後、もっと考えてから体を動かすようにすればいいのかな、どうするのが正解なんだろうとずっと考えている。

 家で映画を観ていても、集中していると人が倒れるシーンに思わず体が動いてテーブルに足をぶつけるなんてこともある。
 何も考えていない内に危ないと思ったら、助けなきゃと体が動いてしまう。私にそんな力も知識もないのに。

 反省しても教えられてもできないことがある。
「大阪で声をかけてくる人は基本まともじゃない。無視していい」と姉に言われたが、夫は「話しかけられた時点でもう負けてるみたいなもので、応えちゃうんだよね、こたはね」とため息をつかれた。

 おばあちゃんを助け起こして、ついて行こうか? と声をかけていた男性にその後話しかけられた。
 道を聞かれた。私と行き先が同じだった。正直に「同じ場所に行こうとしてるんですが私もナビを見てもよくわからなくて、多分あっちの方だと思います」と答えた。
 気づけば呉越同舟していて、一緒に目当ての建物まで行った。大阪にきたばかりでまだよく土地勘がないとか、夫の転勤でとか、行き先のイベントの話をしたりだとか。
 道を聞かれた筈なのに、途中からは道案内してもらってしまった。「助かりました。ありがとうございました」と頭を下げてその人とはすぐ別れた。

 良い人だと思う。声をかけてくる人はみんなまともじゃないなんて、やっぱり、100%そうだと思いきれない甘さがある。できればこの甘さを希望と呼びたい。

 「200円を渡したことが問題じゃない」と夫は言った。「助けてください! こっちに倒れてる人がいるんです! って人通りのない裏路地に案内されたらついて行っちゃうやろ?」と「最悪の場合を想定してほしい」と言われる。

 最悪の場合、私は命を落とし、夫や姉にトラウマを植え付けてしまうのだろう。

 都会で生まれ育った人ですらそうなる恐れがあるのに、私なんていいカモだ。

 人から話しかけられやすいし、私も困ってる人がいたら近づいてしまう。頼み事をされれば断れないし、大丈夫と言われれば上手に立ち回ることも、颯爽と去ることもできず立ち尽くす。格好わるい。助けたがりの癖にスマートでもない。
 文章を読めば伝わっていると思うが、ねちねちしていてくどい。

 Twitterではできるだけネガティブなことは書かないように、できるだけ明るく楽しいことばかりを呟くように気をつけているが、本当は物凄く根暗だ。noteにはそんな自分を吐露してしまう。文章になるとより自分の濃い部分が煮出されて、いけないなと思うのだけど、そんな場所があってもいいかとせめて受け入れてもらおうと思う。

 ぐだぐだぐだぐだずっと考え、姉に「引越してからなんか生きづらそうだね」と言われたら、もう認める他ない。
 そう、私はここで、何かが外れたままでいるのがつらい。逃げたいわけじゃない。都会でしかできないことがたくさんあるのだから、色々挑戦してみたい。その一環で苦手な電車にも果敢に挑んでいる。

 がんばりたいのに、調子は外れたままで、何か1人だけ息苦しい。
 来たばかりなのだから、時間はかかるのだろう。
 大阪が嫌いじゃないのに上手くついていけない自分を受け入れるのが難しい。
 それがずっとずっと心にあるから、また私はこうやって文字にして、形にして、心からnoteに場所を移してしまおうと思った。
 おばあちゃんのことだって、今できることなんて何もない。それなのにずっと考え抱え込んでいるのはきっと無駄な時間と労力と疲労になる。
 これはただの心の汚泥を手放す日記。
 

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