2月28日の日記
何がわからないのかわからない
駅までは着けた
乗り場までこれた
でも電車がこの間は左側にあったのに乗ったのに今日は多分右側だ。
行きたいところに着くのか?
多分大丈夫。たぶん
なんでこんなに涙を堪えてるのかわからない
大人はこんなことで泣いたりしない
子どもでもだ
私はなんだ。大人でも子どもでもない。
何かに分類されなければ安心できないのか
特別秀でた人間になりたいと努力もせずに思っているのに、特別劣った人間のままだ
メトロなんて地下鉄なんて嫌い!
なんでこんな怖い音のする乗り物にのれるの
泣きたいこわい
イヤホンをして溢れる前の涙をハンカチでそっと触れて拭う。
今は寒かったり花粉で鼻を啜る人が多くて助かる。
病院が終わり、帰りの電車に乗った。
広告のにこにこした高齢者の写真を見たらじいちゃんに会いたくなって、我慢できなくなった。
両目をぎゅっと閉じてもぽろぽろ涙が落ちてきて、何とか静かに息をする。
時々ハンカチで拭って、5駅分恥ずかしげもなく泣いた。
電車を降りても帰り道半分くらい涙が止まらなくて、ずっと何で泣いているのかわからなかった。
うわずる息がやっぱり子どものようで、小さな子どものようで心細くなる。
じいちゃんに会いたいけれど、きっと今じいちゃんに会っても、じいちゃんは「なんば泣きよるとか」ときょとんと問いかけてくるだけだろう。
自分でもわからないものを、じいちゃんがわかるわけもない。
もしわかっていたって「なんやそがんこつや」とじいちゃんは大抵のことは何でもないと大きく構える人だ。大きな愛で私を守ろうとしてくれるが、生きてきた時代の違う祖父の「大したこと」に私の言語化できない悩みは含まれることはない。
そう、大したことではない。大層な苦難があるわけでもないのに私は泣いてしまう。
泣ききってしまえば少し心が軽くなった気がした。イマジナリーじいちゃんの「なんやそがんこつや」に少し傷ついて、でも、確かに「そがんこつ」と言われることだよな。と納得もする。
小さなことで私は動揺して泣いてしまうけど、それはきっと弱くて愚鈍な恥ずかしいことだけど、もう私はそういう私なんだと受容するしかない。
社会に上手く適合できていない自覚がある。
それでも時々は上手くいって働けたり、無理して血尿がでたり血便がでたり、昇進したり、仲のいい人ができたり、眠れなくなったりご飯が食べれなくなったり、一進一退している。
何もかも悪いことばかりじゃなかった。
夫と結婚できて運を全て使い果たしてたっておかしくはないのに、友人に恵まれ、お姑さんに恵まれ、姉に恵まれている。
すぐ不安になって緊張して、失敗もして、また私は理由も明確にできないまま泣くんだろう。
でもそれが私が生きるために必要なプロセスなんだと思うようにする。
完璧な問題のない人間になろうとするのを、もうやめよう。
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