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わたしがわたしから離れていく


夫がUSJの年パスを買った。
転勤により引越しをしたのだが、新しい自宅からUSJまでの電車賃は数百円だと言う。
わたしが18年間暮らした島から出るフェリーの運賃より安いと気付いてから、ずっとわたしの頭と心は混乱を極めている。

18年。わたしはコンビニも信号もない島で生きてきた。その18年の無知から飛び出した時よりも安い値段で夢のような非現実の象徴である遊園地に届く事実に震えそうな恐怖を覚えている。

わからない。わからない。
こんな場所知らない。
わたしは、遠くに来たんだなと深く実感する。

島を出て、道行く人や車にまで毎回会釈する癖を「恥ずかしいからやめて」と姉に諭された日を今でも憶えている。
島では背後から来る車にも振り返って会釈していた。
これが“普通”じゃないと、同じ島で育った筈の姉が教えてくれる事実にわたしは少し傷ついた。
島の外から転任してきた先生たちからは驚かれ、褒められていたことだったから誇りにも似た感情を持っていたのに、その行為が「恥ずかしいこと」なんだという間反対の注意を受けるとは思わなかった。場所が変われば同じ行為も違う意味になるらしい。TPOの弁え方がわからなかった。

夜にお店が煌々と明るく開いているだけでも嬉しくて楽しくて割と長々留まっていたら蛍の光が流れ始めた。「なんで急に卒業式??」とわたしは笑った。
誰かお店を退職して、その送り出しの音楽かと思ったら「これは『お客様、間もなく閉店となりますのでお店から出て行けください』のテーマだよ」とまた姉が教えてくれた。

島を出て知った“当たり前“がどれだけあったのか、もう今のわたしにはわからない。

道行く知らない人に挨拶はしないし、車に会釈もしない。蛍の光が流れる時間までお店に留まることもしないし、もしそんな時間にかかってしまったらそそくさと迷惑にならないように退店する。

何も知らなかったわたしの時の苗字とは既に決別していた。

「〇〇家の末っ子です」と言えば「▲男さんの孫ね!」「■子ちゃんとこの!」とみんなわかってくれる。知らないと言う人なんていなくて、遡ればみんな親戚というくらい近い人しかいない島で育ったわたしの〇〇という名前はどこに行ってしまったんだろう。

このまま何も知らずにこんな田舎町で一生を終えるのかと渦巻く不安にぐらぐらとした時期だってあった。
留まっていても不安、離れても不安。
どんどん、無知のまま生まれ育ったわたしが、わたしから離れていく。

今は年末だ。
わたしは、わたしと同世代の子が、年末年始を旅行先で過ごしたという話を聴いた時、言いようもない悲しさや悔しさを抱いたことがある。

年末年始は家で過ごすものだと思っていたからだ。島に住んでいる人が旅行先で新年を迎えたなんて話、聞いたこともなかった。
テレビに出ているような芸能人や、都会に住んでいる人の言葉はフィクションのようで、わたしと近い世界では起こりえないと思っていた。

どうして家にいないでいいのか。
じいちゃんとばあちゃんが元気でまだ若いとか。一緒に住んでいないとか。理由を探してみても、わたしの心はもやもやとしたままだ。
母親世代の人なら「いいですね」と納得できた。子育ても介護も一段落ついた人なら許されるものなんだろうと思っていた。

多分わたしが経験したことのないことを同世代の子が当たり前に経験していることが怖いし羨ましいし、妬ましいのだと思う。

そして、わたしは今年実家へ帰らなかった。
既に実家に住む家族はおらず、わたしは結婚しているので、例年は年末に実家へ帰り掃除してお餅を飾ったり親戚に挨拶したり新年の用意だけして、大晦日から元旦にかけては義実家で過ごすという流れだった。

それが、今年は年末に引越しが決まったので帰省はしなかった。
そして夫はUSJの年パスを買ったのである。
大晦日、終日ではないが遊びに行こうと決めた。

わたしの混乱は深まった。
許されることだろうか?
わたしに子どもはおらず、親の介護も経験していない。
人生一段落した訳でもない、都会の人間でもないわたしが、家のことを姉たちに任せて、遊びに行くなんて。

いつか、そんなことしてみたいなと願っていた。毎年フェリーに乗り波に揺られながら、いつか旅先で何の憂いもなく背伸びをして贅沢をしたいなと。

歳を重ねるごとに地元も「帰る場所」だと思えなくなっていった。だんだんわたしを知らない人ばかりが増えている。よそ者を見る目で視られる感覚。それでもわたしはここに戻ってこなければと使命を感じていた。
家がある。仏壇がある。お墓がある。
お母さんと、ばあちゃんと、じいちゃんがいる。
帰りたくない訳じゃない。
最初の頃は嫌だなと思う時もあったけど、段々と家の為に、亡くなった家族の為に何かできることが今でもあるんだと思えるだけで嬉しかった。

帰りたいけど、今年は帰れない。
遊びに行ってみたい。
でもその「行ってみたい」はわたしには身に余る贅沢だと思う。

年末年始をどこでどう過ごすか。これを考える時に、介護だの子育てだのと言い出すわたしを多分同世代の人たちの多くは理解してくれないのではないかと思う。
同世代でなくても、もしかしたら。だって夫は何の憂いも感じていない。恐らくそれが“普通“なんだろう。

ああ、わたしはわたしから離れていたけれど、まだ近くに感じる時があるのか。
この(なんか違う)と感じる時、わたしは長く形作られたわたしに会っているんだ。

初めて宅配ピザを受け取った時のあったかい驚きや、有名チェーン店に行った時のワクワク、魚を食べるのも、海で泳ぐのも何故かお金がかかる不思議や、通販が家に届く喜び。

わたしは色々知ってきた。喜んだり悲しんだり寂しくなったり楽しくなったりしてきた。

本当にこんなこと許されるの?と幼いわたしが問う。
自責の念しか抱けなくて、わたしは姉にLINEした。
「ごめん」と謝った。

姉は「何をかしこまって!」と「楽しんでおいで!」と言ってくれた。
いつまで経っても、わたしは姉たちから無知を教えられる。自分で自分を許せない。

ハンカチをバッグに詰める度に、「大人なんだからハンカチのいっちょはいつも身につけておきなさい」と姉に言われたことを思い出している。

学校では持ち物検査があるから必ず身につけていたのに、卒業と同時に何が要るものか要らないものかわからなくなっていた。
ハンカチ、ティッシュ、名札、給食着……。高校ではまた変わって、就職すればいきなり社会に放り出された気分だった。
わたしは未だに電車の乗り方もよくわかっていない。これまで一番利用経験のある公共の乗り物はフェリーだし、何度か乗った田舎の電車はバスのような支払い方だった。

先に都会へ出て行った姉たちはいつもわたしの前を歩いて、電車に乗る時は切符を買ってくれて、道を教えてくれた。

わたしの無知は恥ずかしいことだけど、多分誰かの愛に守られてきた証なんだろうと思う。

まだ心に燻るもやもやは消えないけれど、今まで許されないと思っていたことをわたし自身が許せるように、そんなことを考えもしなくなるように変わっていきたい。


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