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※ラーメン屋に並ぶ、電車を待つ、という話ではないです

しつけってなんだろうなあと、思う。
「しつけしなきゃ」
「ちゃんとしつけしてるの?」

子育てで必ず出てくる言葉だけれど、
みなさん、どう定義してますか?
少なくとも、私はあいまい、というか、よく理解していなかった。

育休留学生のわたし、とりあえず、ウィキペディアで調べてみると、、


「しつけ(躾・仕付けまたは仕付)とは、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。」と書いてあった。

なんとなく、3歳の娘にはまだ、「しつけ」っていらないんじゃないかな、と肌感覚で勝手に思っていた。私のなかの「しつけ」の定義も、ウィキペディアに近いものであったから。

まだ、そんな、集団生活の中で規律を守らせるなんてこと、
命にかかわること、人を傷つけてしまうこと、じゃなければ、まだいらないかなと思って。周りのことを気にして、意識や行動を制限させるなんて、もったいないと思うから。

先日、私が個人的に大好きな佐々木正美先生の本の1つ「子どもの心が見える本」のしつけの定義を見て、がらっと私の中での捉え方が変わったので、抜粋して紹介したいとおもいます。

「自尊心を傷つけてしつけはできません。子どもの自尊心を傷つけず、積極的に文化的な課題にとりくんでくれるようにするということがしつけなのです。」
「そしてもっと大切なことは、基本的信頼が育ってなければ、自律性は育てられないということです」



ほほう。。。
ほほう。。と思っても、なんだか難しい。100%理解しきれない私の頭ですが、なんだか、ウィキペディアとは違うことだけはわかる。

なんというか、うまく言えないけれど、子どもの存在を尊重し、
意思を尊重し、丁寧にサポートしている大人の姿が見えてくる
感じ。

「しつけ」って、厳しくする、コントロールする、のような
言葉で説明されがちだけれど、ちょっと違うかもな、と。

よく耳にするし、もしかしたら自分も言われてきたことかもしれないけれど、
「なんでできないの?」
「まだできないの?」
「また失敗した!」
これは、かなり、子どもの自尊心を傷つける言葉。。。
子どもに「恥」の感情も与えちゃってるよなあ。
確かに、私も言われたら、なんか心の中がきゅーっとなっちゃうというか、もじもじしてしまうというか、次にやるのが怖くなってしまう。

トイレトレーニングしてたら、ついつい言っちゃうな、と思う。
「なんで言わなかったの?」
「なんでさっきトイレで出さなかったの?」
うん、今朝も言ってしまった。

「あなたにはこうなってほしいのよ」という親の愛。
それを押し付けて、強制的にさせるのが、もし「しつけ」としたら、
それはしたくないなと思ってしまう。
でも、知らず知らずのうちにしてしまいがちではある。うん。

そうではなくて、
「あなたにはこうなってほしいのよ」
「でも、いつするのかはあなたが自分で決めていいんだよ」
と、いつまでも待ってあげる。

そういう姿勢で接して、最終的に子どもが自分で決めて行動して、
もし失敗したとしても、見守って、味方になって、解決方法を一緒にかんがえていくというように、「しつけ」を捉えなおしてみたいなと思う。


そうすると、限られた時間の中で、なかなか「待つ」のが無理な時もあるけれど、できる限り「待って」あげたいな、と思えるようになりました。
言葉の「捉え方」を変えると、意識がかわって行動も変わるから面白い。

今日、なにを「待って」あげられましたか?

私は、、そうだな、、3歳の娘が、靴下を自分で履いて(かかとが上にきてたけど)、自分で靴を履いて(左右逆だけど)、うれしそうに出発するまでを「待って」みました。ここで「早く!」とかいっちゃったら、うれしそうな表情はなかっただろうなあ。

あなたも、思うようにできなかったけど、
待ってもらってできるようになったこと、ありますか?
その時、どう感じましたか?

私は、受験勉強の時。
1度も「勉強しなさい!」とは言われなかった。
そんなに賢い私ではなかったけど、「信じてくれてるんだな」と何となく感じたのは覚えています。結果がどうかは別として。

ということで、「待つ」というしつけ、始めてみます。
(こう捉えなおすと、「しつけ」という言葉、ではもうないのかも?)

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