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その響きで強くなれたら良かったのに

 なぜ簡単に「愛してる」なんて言えるのだろうと、いつも疑問に思う。
 その言葉の意味するところは何なのか、「大好き」との違いを明確に理解した上で使い分けているのか。
 あまり、好きな言葉ではない。

 なんでこんなことを考え始めたのか経緯を記す必要があるだろう。
 私は一つのSNS媒体で複数のアカウントを持っているわけだけれど、そのうちの一つは主に女性ばかりとの交流(とはいえ、自発的な交流はほぼ無い)を目的としている。
 年齢は40歳手前の方からティーンエイジャー、果てはトランスジェンダーの方まで様々な方の投稿を細々と眺めている。
 多くの女性たちの関心は、恋愛ごとが多く。
 決して経験が多いわけでは無いのだけれど、なんだか切ない投稿などを見つけると声を掛けたくなってしまう。きっと、今この時に私が声を掛けたところで、その女性が心を変えたり状況が好転するはずもないと思っているので、差し出そうとした手は宙を掴むだけなのだが。

 20代前半のとある女性は、日によって投稿のテンションもだいぶ異なる。
 ある日は、お付き合いされている男性が如何に愛しく大事かを語り。ある日は、その男性の態度に嫌悪し冷静になり、悲しくて涙を溢す。
 そのジェットコースターのような上下運動を、数日おきに行なっている。分からなくもないけれど、メンタルがしんどいような気がしてしまう。
 随分と落ち込んだ後、彼女は一言こう言うのだ。
「それでもやっぱり彼が好き。愛してる」

 愛とは、いったい何なのだろうと思う。
 決して哲学的なアプローチを受けたいわけじゃない。理屈を知りたいわけでもない。
 自分の身の内から納得できる答えが欲しいだけなのだ。
 「好き」にもたくさん種類がある。家族に対してや友人に対して。もちろん異性(場合によってはそれに限らず)に対しても。そして、画面やスピーカーの向こうの誰かに対しても「好き」と感じることは往々にしてあるだろう。
 では、「愛する」とは何なのか。
 無償の愛だなんて言うけれど、ボランティア精神のようにも感じるし、確かに世の中には完全に見返りを求めない崇高な精神の人もいる。けれど、それは別に私の知りたい答えじゃない。
 「愛してる」なんて、どうして簡単に口にできるのだろう。なんの根拠があって?

 毎度の如く過去の怒りや憎しみに満ちた自語りにはなるが、見る人も少なかろう、好き勝手書かせてもらう。

 有難いことに、私もこの人生の中で「愛してる」と告げられることがあった。
 私の脳内や心というものは、どうにも世間一般と少しズレているような気がしていて、何をしたところで「ごっこ遊び」に感じてしまう。
 ときめきというエンタメを求めて、テーマパークに繰り出すような。そんな、冷めた頭の。
 優しく抱きしめられながら、相手は耳元で愛を囁くのだ。私は「どうしよう、嬉しく思わなきゃ」と脳内に指示を出す。
 どうしたら良いのか、わからない。
 漫画や映画で見るような、愛を告げられて身も心も踊り出すような高揚感が、自然ともたらされるものだと思っていた。しかし、一向に高揚しない。
 有難いなぁとは思うのだ。けれど、きっと「ありがとう」だけでは、物語に進展はない。
 「私も貴方のことを愛してる」と、その言葉がドラマを盛り上げることを知っていた。
 でもどうして、思ってもないのに嘘をつかなければいけないのだろう。

 そう。私はその人のことを「愛してる」なんて思っていなかった。
 今だから書けるけれど、空気を読んでいた。雰囲気やストーリーをドラマチックにする為には、お互いの協力が不可欠であることがわかっていた。そうすることで、とても特別な演出ができるのだ。恐らくは。
 どうにも違和感があった。このお遊戯会はいつまでしなければいけないのだろう。そして、なぜそんな簡単に「愛してる」なんて言えるのだろう。

 試しに、正直に思ったことを言ったことがあった。
「貴方の言葉はとても嬉しい。私にはよく分からないけれど、ありがとう」
 するとどうだろう。相手は心底裏切られたような、残念な顔をするのだ。
 何が悲しいのか。嘘をついてまで、相手の意向に沿う必要があるのか。
 けれど、面倒くさくなった。
 あれこれ話を深く掘り下げたかったけれど、相手はまるで失恋したかのように落ち込んでいるもんだから、「なるほど、雰囲気を壊してはならないのか」と学習した。心底面倒臭い。筋書きに沿わなければならないらしい。
 よく分からない。相手の求めるものは分かるのに、私の身の内からはそれに見合う何かが現れない。
 心が冷めているのだな、と分析するに留めた。

 モテない理由はよくよく分かっているけれど、これを改める方法が分からない。
 分からないから「愛とは何か」と考える。
 それが分かれば、私自身も納得して嘘をつかなくて済むだろう。
 形式ばった言葉なんていらない。「好き」も「大好き」も「愛してる」も言えばいい。
 同じだけのものを見返りとして求めさえしなければ、私は安心して、自分の言葉で自分の気持ちを語れるだろう。

 どうにもチープな言葉に思う。
 使い古された手垢まみれの面白みのかけらもない、例文のような言葉に思う。
 「愛してる」とはなんなんだ。
 私は人を愛せないのか。愛とは。

 好きになることは多い。
 無論、恋をしてときめくことだってたくさんある。
 でもあくまで恋は恋だし、それは愛じゃない。
 一方的な「好き」を押し付けることばかり。あるいは押し付けられることばかり。
 両手でそっと包んだ花を相手の両手に添えるような、そんな関係を誰かと築きたい。
 きちんと、私は私の言葉を吐き出したい。
 「私はこう思ってる」
 上手く言葉にはできないけれど、ちょうどいい表現も思いつかないけれど、「こう思ってる」。
 「私はこう感じてる」
 世間一般的な感じ方とはズレているかもしれないけれど、確かに心で「こう感じてる」。
 それを、ただ黙って聞いて欲しかった。

 私はとてもお喋りなのだが、今までちゃんと私のお喋りを聞いてくれた人がいただろうか。
 大学院の頃、たった一年だけお付き合いした二つ年下の男の子は、聞いてくれていたような気もする。ただ、私の方が制限時間を設けて付き合おうと決めていたものだから、あまり深く話をしなかった気もする。
 地元に帰る最後の一週間でインフルエンザを発症した私を、彼は私の大好きなプリンを持って看病に来てくれていた。
 「移るよ」と言っても、「平気」と返してくれた。
 何も言わずに、手を握ってそばに居てくれていた。
 彼の貴重な一年をまんまと無駄にしてしまったのだなぁと思うと、なんだか少し笑える。(可笑しいことに、彼の研究が一向に進まないのを私のせいにされた)
 それでも愛してはいなかった。彼はとても良い子だったので、私と離れて大正解だったのだ。

 一方で、私は人の話を上手に聞けているのかと問われたら否と答える。
 私のことを知っている人はよく分かるだろうけれど、私は忘れやすい。
 集中して話を聞かないと、すぐに上の空になってしまう。
 聞いた話を長らく覚えていられない。
 もっとも、他人に対して興味がないのだからもはやこれは天性の仕方がない気性とも言える。諦めたほうが良い。

 何の話だったろう。
 あ。でも、私は時々「愛だなぁ」と感じる瞬間がある。
 雨の匂い。風の匂い。さざなみ。葉の擦れる音。緩い陽光。広大な山々。深く遠い海。
 そんなものを鈍い五感で感じると、「今この瞬間に私の愛が詰まってる」と感じて胸が苦しくなる。
 自分が生きてるこの時間が何よりも尊くて、有り難くて、たまらなく愛おしい。
 それと同じだけの熱量で自分以外の他人を見れたら良いのだけど、まだまだ発展途上だなぁと反省。
 心持ちは改善できるのだろうか。要検証、そして要検討あるのみ。

 おわり。

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