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AIZAN50

イイノホールにて、神田愛山芸歴五十周年の会が開催された。神田伯山の公演にU25チケットで通ってきた私はついに26歳を迎えてしまったので、初めて普通に申し込んだ公演。運良く当たったので行ってきた。(U25チケットにはお世話になりました。今までありがとう!)

越の海勇蔵

開口一番は伯山の三番弟子である若之丞による相撲取りの話。新春連続読みの東京公演でもこの話を読んでいた。なんとなくであるが、前回より聞きやすく緩急もついてきたように思った。開場が遅かったのか、会場にお客さんが入りきるまで時間がかかったため開演が遅れ、若之丞の持ち時間が少なくなったようで、途中までで終わりになってしまったのが少し可哀想だった。

三方一両損

続いては伯山による明るい一席。愛山先生に教わったネタにしようと思ったが時間の都合もあるため、愛山先生のネタではないがめでたい話を読むということだった。たぶん直前に予定変更したということだと思われるので、何を選んだのかわくわくしながら聴いた。

とある江戸っ子が三両の入った財布を落としてしまった。それを別の町人が拾い、名前が描いてあったので持ち主に届けるが、持ち主は相手にそのお金を譲ろうとする。互いに金を受け取らずなぜか殴り合いの喧嘩になってしまったところを、あり得ないことだが大岡越前守が裁くことになる。越前守は、江戸っ子は得をするのは嫌でも損をするのは喜ばしく思うと聞くがどうかと二人の町人に問い、二人が損は大いに結構と答えると、自ら一両を出し、二人に二両ずつ取らせることでその場を収めるという話。

お祝いの会にぴったりな明るい演目で、テンポよく軽やかに読んでいたのが印象的だった。

蕎麦処ベートーベン

瀧川鯉昇による落語の一席。高座に上がってから話し出すまでに妙な間があったので話し出す前に客席から笑いが漏れていた。落語には歴史上の人物も出てこないし、あっという間に終わってしまうものだからかしこまらずに聞けばよいというようなことを面白おかしく話してから、落語に入った。確かに、講談の場合は最後に何の演目を読んだかを言うし、勿体をつけた終わり方をするが、落語の場合はオチと同時に頭を下げて終わるので、講談に慣れていると終わりのスピード感にびっくりすることがある。にしても、鯉昇師匠は明るい顔つきに反してクールな声なので、言葉を発するだけで森の中みたいなしんとした雰囲気になる。それなのにちゃんと面白くて笑えるから不思議だ。

江戸にて、そば屋に入った客が店主と雑談をしている。客が聞き出したところによると店主はハーフであり、好きな甘味はココナッツであるという。客はそばを頼むと、麺やら具やらをいちいち褒めて食べ、勘定の際にお金を「一つ二つ三つ…好きな甘味は?」と店主に聞き、「ココナッツ」と答えさせることでお代を一文ごまかした。その様子を見ていた別の客が、うまい方法だと考えて後日別のそば屋で同じ手口を試みるも、うまくいかずに終わるという話。

静かな口調の中にやはり笑えるところがたくさんあって、そばを食う仕草も熟練の技という感じがした。そばをただ食うだけでなく、コシのあるなしの違いも音で表現していたのがすごかった。

愛宕の春駒

高座に上がって張り扇を一回机に叩きつけるその仕草からハッとさせられるものがあるというか、そこで空気の色が一瞬で変わった感じがした。宝井琴調は神田愛山と同期に当たるらしく、若い頃は協会が違うにもかかわらず楽屋を行き来するような仲だったらしい。ともに芸歴50年でこうして高座に上がっているというのはすごすぎて逆にピンとこない。

愛宕の春駒は出世の春駒ともいい、言わずもがなの目出度い一席である。駕籠で出かけた家光公が帰りは馬がよいと言い、通りかかった愛宕山で石段を上って梅花を折り取ってくるよう命じたところ、家臣たちは石段の高さに恐れをなして次々と失敗する。最後に挑んだ馬術の名人、曲垣平九郎は痩せた馬に乗りながら見事愛宕山に上り、梅の枝を二本折って下りてくるという話。

この演目は神田伯山バージョンと弟子の梅之丞バージョンを聴いたことがある。つまりは神田松鯉バージョンということになる。その特徴は馬がやたら喋ることであり、語りの中で「こんなに馬が喋るのはうちの師匠の台本くらいである」という注釈をつけるシーンがあるくらいで、その注釈でうけるのが好きである。宝井琴調バージョンにおいても、馬はまあまあ喋っていたが、それ以上に特徴的だったのは擬音語だと思う。馬が石段から転げ落ちる様子を事細かに音で表現しているのが面白かった。

蜀山人

この日の主役である神田愛山が登場すると、ひときわ大きな拍手が注がれた。近所の図書館まで散歩するという話から市民講座の話、サラリーマン川柳の話へと進んでいく。よくそんなに覚えていられるなというくらい、名もなき人々が作った川柳が次々と読み上げられる。OL川柳、シルバー川柳と移ろっていき、今は流行らないがかつては狂歌が楽しまれたという話になる。蜀山人がどんなときもユーモアたっぷりの狂歌を詠んでいたことを語っていく。酒をやめない言い訳を狂歌に詠んだり、その姿は奔放だ。この一席はいつの間に講談に入っていたのか分からないくらいシームレスに本編に進んでいったのがすごかった。

難波戦記 真田幸村大阪入城

中入りと鼎談を挟み、神田愛山のもう一席が聴けた。浪人の身となっていた真田幸村は角兵衛のもとに通い、囲碁ばかりしていたがその実は再度の挙兵を計画していた。ある日、角兵衛の家に行き囲碁を指していると、使いの者がやってきて追手が迫っていることを知らせる。角兵衛は追い出そうとするが、幸村は囲碁の勝負がついていないと言って出ていこうとしない。仕方がないので幸村が有利になるように指して、無事幸村が勝利したと思うと、忍びの霧隠才蔵が現れる。幸村は豪奢な帷子を身に着け、勇壮な武将の形になると、大勢の兵を引き連れて戦へと向かっていく。

戦に向けて着替えるシーンは修羅場読みで読まれる。修羅場読みというのは今回初めて知った用語で、御経のように(という表現でよいか分からないが)淡々と言葉が連ねられていくような語りである。すごい熱量で迫力がある。通常の話し言葉のような抑揚とは異なるので、ぼーっと聞いていると内容がうまく頭に入ってこない。聞き手の力も試される。しかし、逆にすごく集中すると、情景が非常に鮮やかに目の前に浮かんでくる。これは本当に不思議だ。今回は幸村が身に着ける装束を一つずつ事細かに描写していく語りだったので、一箇所にスポットを当てては「金地に〇〇柄の刺繍が〜」のような文言が連なる。さながらプリキュアの変身シーンのようで圧巻だった。

まとめ

50年という時間の重みは、その半分ほどしか生きていない私にはピンとこない。しかし、神田愛山が70歳で若之丞が20歳ということで、その差がちょうど50年であることを考えると、なんかすごいのかもしれないと思えてくる。今回の公演は長年応援してきたお客さんが集まったあたたかい会で、客電も明るめですごく客席とのコミュニケーションのある会だったように感じる。平成生まれにはついていけない懐かしいネタがどんどん出てきてはバカスカウケていて、長年築かれてきた、そして今現在もここにある信頼関係を感じた。私のような者が来てよかったのだろうかと一瞬思ったが、これからも長く生きる世代が名人たちの記憶を留めることも大事かもしれないと思い直した。例えばもし若之丞が50年後に芸歴五十周年の会なんぞをやったりして、神田愛山芸歴五十周年の会の日の話をしたりなんかしたら、私はそれを観に行って、懐かしいと笑いたい。そう考えると明日も生きる気力が湧いてくる。


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