2022年4月5日

 疲れていて昨日は日記を書けなかったが、素朴に歌が上手くなりたかったので通い始めたボイトレのレッスンに行ったのと、サークルの新歓をオンラインで行うなどしてそれなりに活動的な一日ではあった。

 新歓が終わった後の雑談で、好きな曲が知りたいのでプレイリストを作ってほしいと同期の子に言われたが、そういえばそうした他者へ向けて作る目的でしか、プレイリストというものを作成することはないかもしれない。精神が限界にある時に安定剤として作用する曲を集めたプレイリストだけは作ってあるが、自分のために存在するプレイリストと言えばそのくらいだろう。私はアルバムを通しで聴くことが多いのでそんな具合であるが、話を聞いてみたところ曲単位で聴く人はプレイリストを作る傾向にあるらしい。

 Spotifyには年間や直近といったスパンでリピートしている曲を自動でまとめてくれる機能があるが、さしあたってはそれが自分の好きな曲を収集したプレイリストと言えるだろう。ためしにそれをシャッフルで聴いていたら、当たり前だが私が何度も再生している聴き慣れた曲しか流れないので、それがかえって不気味だった。なんだかこんな風に自分の好みだけが集合したものを直に浴びるのは体調に悪いような気がしてしまう。アルバムを聴いていると、その中には大して好きでもなかったり、あまり印象に残らない楽曲というのが多くの場合には存在している。そうした要素が音楽という対象を他者化し、認識の濃淡を揺さぶるのだと思う。芸術を鑑賞するという行為は、突き詰めればそれを制作した他者との対峙であるから、そのプロセスにおいて自らの趣味嗜好から外れたノイズが介在することは避けて通れないのではないだろうか。もちろん、そうしたノイズと対峙していくうちに、次第にそれが自己と同化し、好みそのものが変質していくという現象は生じ得るし、言ってしまえばそれこそが芸術と接する際の最も大きな喜びの一つであるわけだが。

 このような神経質ともいえる私の態度は、おそらく生身に存在する人間と直接に向き合うことができないから生じてしまうものなのだろう。世間一般に、人は他者と交流する中で、私が上述したような他者との対峙と自己の変質という体験を得ることができる。ただ、他者との本質的な交流が不得手な私のような人間にとっては、何かしらの作品という媒体がなければそれは成立し得ないのである。作品は人間と違って、こちらが向き合わない限りは何も語ることがないし、その気になった時にだけ好きな態度で関わっても文句の一つも言わない。そんな無機的な関係だけが、私に安らぎを以てその向こうに存在する他者との交流を可能にしてくれた。

 端的にまとめてしまえば、私はコミュ障なので芸術や自らの趣味嗜好に対して屈折を抱えてしまっているが、世間の人々はもっと有り体に好意という感情を扱えるのだろう。私はよく好きな映画や音楽を聴かれると、なんと答えたらいいのか分からずにフリーズしてしまうのだが、その原因もそこにあるのかもしれない。

 そんなわけで以上が昨日の分で、ここから先は今日のことを簡単に記録しておく。とはいえ特に何があるわけでもなかった。近頃挑戦しはじめた作曲作業を進めようとして、パソコンの前で唸ったり、それに飽きたらベッドでスマホをいじったり、大抵は後者の過ごし方をしていたら今日が終わっていた。大学の履修登録をする時期になったから、こんな風に過ごせるのもあと数日の猶予である。今年からは対面で授業を受けなければならないらしいが、まるで単位を取れる気がしない。そもそも学科に一人も知り合いがいないので、キャンパスに通うモチベーションが保てるはずもない。はじめのうちはまだ図書館で時間を潰したり、学校の周囲を散策したりといったことに感興が向けられるかもしれないが、段々と苦痛が勝ることは目に見えていた。中学や高校のクラスと違って、大学では同級生と交流を持つ必然性がないからと友人作りを怠ったのが失敗だったのかもしれない。というよりは、年齢を経るごとにコミュニケーション能力が衰退し、その言い訳としてそんな理屈を持ち出しただけなのだろうが。まあ、環境が変わってもそれなりに過ごしやすい日々を送りたいものである。


聴いた音楽.
KAREN / MAGGOT IN TEARS

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