殉死

 ポケモンのアニメがついに世代交代をして、サトシは主人公を卒業するらしい。数日後にW杯は決勝を迎えるが、おそらくその舞台でメッシの姿を観れるのも最後だろう。子どもの頃から、当たり前に社会に存在すると思っていた通念が終わっていくのを感じる。テレビをつければサトシがポケモンバトルをしていて、世界のどこかではメッシがサッカーをしている。実際にそれらを見るかは別として、そうした秩序のようなものが、自分の世界の裏面に存在すること。それ自体がある種の救いであったのだと再認識させられた。それらのものはーサトシの場合はもう少し長い世代に渡ってだがー概ね自分が子どもの頃から持続してきた「当たり前」であり、それが終わるということは即ち自らの時代が終わるのと同義でないかと感じてしまう。
 私は好きなバンドが解散しても悲しまない性質だと思っていたが、むしろ誰でも好きなバンドが解散した方が悲しいかもしれない。例えば嵐やSMAPが活動休止・解散した時にも同じ寂寥感を覚えた。そうしたことを経るたびに、自分と世界との紐帯が一つずつ失われていく。いずれ社会には私の親しんで知るものはなくなるだろうし、実際にもうほとんど残っていないだろう。それらがなくなった後で、私はどこに放り出されるのだろうか。社会からの遊離を支えてくれた錨が外れてしまえば、疎外と癒着という、私と社会との蜜月の時間もまた終わりを告げる。その後で果たして生きることは可能なのだろうか。『こころ』において、明治天皇の死に動揺した主人公の父や先生の気持ちが理解できた気がする。それらはまさに「時代の精神」が終わった瞬間に他ならなかったのだ。

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