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#3 邪視随筆 「不浄による浄化」

ナポリ人は親しき間柄になると「邪視に祟られることがないように」と言う代わりに「あんたの為にイチジクするぜ」と表現します。

イチジクとは「指の仕草で無視や軽蔑を暗示し他を辱める(退ける)」との由。
そんな気持ちを表す英語の慣用句として「Don't care a fig.(イチジクくれぇ気にすんな)」という言い回しがあります。

純日本人の赤木ちゃんからすると腹を抱えて笑いたいところですが、向こうの人には親指を人差し指と中指の間に入れて
「A fig for you(お前にイチジクくれてやらぁ)!」というと、本気と書いてマジの喧嘩をふっかける行為のようです。
ドMでない限りやめておきましょう。複雑。。(E.T.エルワージ「The Evil eye」240p.手で触れる、手にまねる)

熊楠も読み、邪視に啓発されつつも「実に難儀な爺様なりし」と評したエルワージの本を読みながら、上記項目に興味を持ちました。
そこから本日の作品紹介へ繋ぎます。

エヴァのイチジク(ヘブライ語聖書における禁断の果実)、知恵の実はリンゴ、食べたら邪悪になるぞという教えを破りアダムとイブは《堕落》します。
卜いにも使われるイチジクの葉は、局部を隠すのに使ったと伝わっています。
古代の中東でバナナはイチジクと呼ばれていたそうです。

リンゴは寒い地域の果物。
昔の人々からしたら貴重な食物だったでしょう。
へスペリデス(黄昏の国の乙女)が守った林檎の樹は、トロイア戦争でパリス王子が美の神アフロディテに実を差し出したばかりに、不和の象徴的存在にされてしまいます。
代価にされた絶世の美女ヘレーネこそ禁断の果実。

この瞬間を描いた数々の絵画の中、中野京子先生の著書「怖い絵2」にも紹介されたパリスの審判/ルーベンス
画面中央左上の暗雲立ち込める雲に隠れた復讐の女神アレクトにやっと気付いた時、鑑賞者はこの絵の本来の意図に心底震え上がる筈です。

虚栄に満ち、美を権力に変えようと躍起な女性達。
欲望にまみれ舞い上がり後先考えん若き男子。

ヘラの顔をあえて描かれないことから想像される、負けた[全能の嫁]の、憤怒の激情。
そんな主人の代わりに威嚇して未来に嘶く、神使・孔雀。

全ての配置、色使い、感嘆しか出来ない見事な構図です。
あちこちの空間をひとつに纏めあげつつ決壊せぬように表現している。
キュビスムの先駆けだと思います。ルーベンスよ甦れ…。

さて、「バナナ」が性ファルス(phallus)そんな「リンゴ」が死神クロノス(時の翁)の代による償を差していたと考えるのは、些か私の仮説が過ぎるでしょうか。美は時間により衰えるもの。外見でオーヴァールックした愛情など軈て色褪せる。

女は二度死ぬ。一度目はかつての美を忘れられた時、二度目は棺に納められた時。
人間50年、所詮夢幻なり……些か極端ですが、言い得て妙なのかもしれません、この場合は。


ファルス《陽根像》は立派な邪視避けの象徴の1つ。
イタリアのある地方では、性器を角に見立てた青銅の飾りを玄関に吊るし、風俗を嫌う邪視を避ける慣習があるそうで。

日本で言うと節分(追難)の柊の役目でしょう。
そう考えるとJaponism、やはり大分奥ゆかしい。

キノコもファルスを初め儀礼のモチーフによく取り上げられますね。
多くの考古学博物館には奉納品としてキノコが収蔵されているのです。
生育過程からしてもキノコは古代人にとって[聖なる男根]に例え易かったのでしょう。
雷の神ソーマは茸(菌類)の父である。
落雷の回りにキノコが大量発生する、電気ショックによりキノコの生育長が早まる、という後世の発見の予言めいた記述が古代インド「リグ・ヴェーダ」にも存在するくらいです(#白水貴 先生《奇妙な菌類》p.24)

エルワージは余り性知識に言及していません。あくまで学術を淡々と書いています。
はっきりと「気が進まない」って言っています。存外、潔癖な人物だったのかもしれないですね。
ここが性を貪欲に研究した熊楠と対照的で面白かったです。

熊楠は性愛=人間観であると考えていた所があります。
とはいっても遊び好きな男だった訳ではなく、とてもシャイで真面目な性格でした。いつも酒と煙草を手放さなかったのは、「飲まないとやってられねぇ」からだったんでしょうね。

相手に実直な第一印象を与え信頼されることに気を使うよりも、文字や自然生物《ものいわぬ友人》たちとは違う、同族・人間。
面と向かって主張し場を楽しむ為にはガソリンが無くてはならなかった…。

私も対人が苦手。
会話が得意ではないので、大事な席では酒と煙草が必要不可欠です。

熊楠も煙に巻いてアルコールを纏って、己を[武装]していたのではないでしょうか。


邪視信仰が尤も根強い中東全域では「綺麗な女性が視線を浴びると美を吸い取られる」という考えが現代において尚根強く、信心深き容姿の優れた女性ほど布でひたむきに顔を隠します。
あーもったいな…じゃなくて可哀想だぁ。美人が多いのに。

「べっぴんさん」と褒めても
「邪視毒に見初められてしまったわ、卑しくってよ。」と身構えられては申し訳ないので、「ma shaa'allaah(直訳:アッラーが望まれたこと。神によるもの。)」と伝えるのが一般的だそうです。

一応それがしも女性ゆえ
立場として多少解ります。
言葉の裏にある下心というものに女の勘は流鏑馬の如く働きます。

然し、年齢を重ね、皺だらけになっても「綺麗だ」と言われたら。
それは外見ではなく心を視て賜る言葉。
往年に培った聡明さが仕草や表情にあらはれ、個性と気品を作り出す人生の先輩方をたくさん知っています。

その内なる美こそ
架け替えの無い魔除けでしょう。


パリスに選ばれし喜びから漆黒の布で胸(優れて当たり前という心中を隠す象徴)を覆ったアフロディテ、廊下に立ちたまえ。

紹介する新作。

《斜光区域》
Cycle Mucous Membrane
‐Radius zone‐

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魔が差した視線は有毒射光(ラディオスペルチニソス)に代わり、持ち主もろとも妬き尽くす。
その邪視避けの対策として、多くの自然物をモティーフに人々は対策を施した。

とある地域の漁師は魚の骨を神聖なる導の象徴とし、「今日は」無事に陸に帰るべく、船先に取付けた。
ハッピーメメントモリ!


平穏なる日々に善を整える崇拝は必須で、その為のシンボルは数々と編み出され、産出され、文化として現在数々のアートに通じていることは間違いない。

受け継がれた脈々、その全てに頷く。先人の教えは尊い。


問い合わせ先→ #乙画廊   https://otogarou.theshop.jp/

ご高覧お待ちしております。

#南方熊楠 #赤木美奈 #粘菌画家


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