生命の起源アフリカとフェラ・クティ

ーママもこんな風に列に並んだのかもしれないな。

足早に家路を急ぐ人の流れに逆らって、都会のど真ん中ライブ会場に到着し、ポツリと呟く。

ーそうだね。ママの背中の後ろには300人くらいの人がいるのかもしれない。

ライブに共に参戦する長女もポツリ。

ー300人かな。3000人かな。30000人かな。

ー何人かは問題じゃないよ。まだこの世に生きていたいと思ったけど叶わなかった人がたくさんいて、助かったママはその人たちの分も生きるってことでしょ。

ーうん。そうだね。

文章は頭ん中で生まれて頭ん中で理解するものだから、当たり前だけど抽象的だし、匂いはないし、手触りもない。勿論匂わせるような文章を書く人はいると思うし、脳内でケミカルに合成することは出来る。でも所詮というか、こねくり回してるだけだ。

でも存在は違う。実際に列に並ぶ人のイメージが直接的に視覚的に訴える力、わかったつもりになるんじゃなくて、ねじ伏せるようにわからせる力。私が視覚優先脳なのかもしれない。
自分は、大きな病気をして、いくつもの奇跡的な幸運や偶然が重なって、一命を九死に一生を得たというレベルで取り留めて、今ここにいるということを。列をなす何千人もの人を目の前にして圧倒されてしまう。

助かったことに因果関係はない。絶対にない。そう確信する。だって、助からなくて良い命はないから。それを選別するのは神だけだ。そして、助けてという祈りを聞き入れないのだから、神はいない。仏は人間だからかつていただけで、生死与奪の力はない。

別に自分に特別な意味や役割があって助かったのだとも思わない。偶然、運、そんな手の届かないものの連続が、たまたま命をこの世につないだり、向こう側へと引き剥がしてしまう。でも、そこに抗う人間の努力や知恵はある。それが医術のこともあるし、祈りや意思のこともある。それは生きていく以上絶対に諦めたくないし、脚掻いたり、苦しんだり、悩んだり、ジタバタしたりし尽くしてから、その向こうにある世界観に身を委ねたいと思う。

ー3億円ジャンボにママはもう当たったようなもんだね。いや、それ以上かもしれない。お金じゃ買えないものを手に入れたんだから。

ーママ、奇跡って結構地味に起きるもんだね。

何故なんだろうなんて、考えない。ただただひたすら、感謝する。余計なことに引っ張られそうになるたびに、頭振り払って、自分の後ろに並んでいる沢山の人の分も死ぬまでは生ききる、楽しんで生ききることを思う朝に。

※死のことを沢山書いたから、帳尻あわせに、音楽は生命の起源アフリカから。
フェラ・クティ。
生きるパワーを感じるならやはりアフロビート。

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